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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第三章 黒が忌諱される理由

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第92話 グリザイユ

 僕の個人的な苦難はさておき、馬車はひたすらに西へと進み続けた。


 そして、二日目の夕刻も迫る頃。

 地平線の向こうに、それが見えてきた時。僕たちは言葉を失ってしまう。


 ヴェリオンガルド王国の『北の大楯』。

 北の国境を守護奉り、王国を丸ごと喰らわんとす、北に(あぎと)のように広がる『魔の大森林』への抑えを兼ねた、北方の大領。

 オーヴェロン辺境伯家の領都『グリザイユ』が、そこにあった。


 辺境のリヨンとは、比較にさえならない。

 まず、僕たちの目に飛び込んできたのは、地平線を断ち切るようにそびえ立つ、長大な灰色の城壁だった。

 傾き始めた午後の陽光を浴びて、鈍く威厳に満ちた輝きを放つその城壁は、およそ人が築いたものとは思えないほどに大きい。

 人智を超えた偉業を前に、畏怖の念さえ抱かせる。

 ……重機の無いこの世界でどうやって、これほどのものを。

 

 それだけじゃあない。高くそびえる城壁の上からは、ひときわ壮麗な石造りの尖塔や、大きな屋根が顔を覗かせている。

 どうにも、前世で見たゴシック様式の建築にも似た趣を感じる。あれはきっと教会か、大聖堂の類なのだろう。

 その奥には、辺境伯の居城であろう巨大な主塔(キープ)と、それを取り巻く幾つもの防御塔。近くには居館らしき壮健な屋根の連なりも、見て取れた。

 

 この壁の向こうに、どれほどの街が広がっているのか。

 その一端を垣間見ただけで、僕の矮小な想像力など、たやすく吹き飛んでしまいそうだった。


「……すごい……」

 僕の口から、呆然とした呟きが、零れるように漏れた。

 隣でアンリエッタさんも、その美しい蒼玉の瞳を子供のように輝かせている。

 そんな僕たちの初々しい反応を見て、マリーさんがどこまでも楽しそうに、にっと笑う。

「は~、さすがねえ。聞きしに勝る大きさじゃない」


 彼女の、どこか余裕のある気配。

 それは、初めて見る光景に圧倒されているだけの僕たちとは、明らかに違う、地平の広さを知る者の響きのように、僕には思えたよ。

 そっか。この女性(ひと)は、冒険者の先達として。それからギルドの職員として。僕たちがまだ知らない、幾多の街道を歩き、数多の街の灯りをその目で見てきたのかもしれないな。

 

 僕が勝手に、そんな尊敬にも似た念を胸に抱いていると、マリーさんと僕の視線がふと、短く交差する。

「なによ、フェリクス君。もしかして、私が、この街に来たことがあるとでも思った?」

「え……違うん、ですか?」

「初めてに決まってるでしょ。……ただね。ギルドに来る冒険者たちが、嫌というほど自慢話をしてくれたから。なんだかもう、初めて来た気がしないのよね」

 

 ……前言撤回。

 彼女ですら初めてというなら。彼は、どうなんだろうか。

 僕はもう一人の、忠実なる騎士様へと、そっと視線を移してみる。

 彼は言葉もなく、その、あまりにも長大で武骨な威容を見上げていた。

 決して、顔には出さない。

 けれど、大きく見開かれた瞳の奥に宿る、畏怖にも似た光は、彼もまた僕たちと同じように、この景色に圧倒されていることを雄弁に物語っている。


 ……なんだ。結局、皆、同じじゃないか。

 子供のように目を輝かせていたのは、僕とアンリエッタさんだけかと、そう、思っていたのに。

 

 僕たちを乗せた馬車は、そのまま巨大な城門へと吸い込まれていく。

 分厚い影の中。ゴトン、ゴトンと車輪の音が、アーチ状の天井に大きく反響する。

 僕はてっきりリヨンと同じように、門のすぐそばで降ろされるものだと、思い込んでいたよ。

 けど──影を抜けた先に続く、石畳で美しく舗装された大通りを、馬車はその速度を僅かに落とすだけで、そのまま街の中心部へと進んでいくんだ。

 

 馬車の開口部から流れ込んでくる、グリザイユの本当の姿に。

 僕たちは、圧倒され続けるばかりだった。


 二階建て、三階建ては当たり前。

 石とレンガで精巧に組まれた建物群。窓という窓には、高価なはずのガラスが、当たり前のようにはめ込まれている。

 行き交う人々の数も、その服装も、リヨンとはまるで違っていた。

 色とりどりのドレスを纏った貴婦人たち。豪奢な馬車を乗り付ける、裕福そうな商人。それから、僕たちのような冒険者とは、その身なりからして違う。揃いの、煌めく甲冑に身を包んだ、この都の衛兵たちの姿があった。


 めくるめく活気と、溢れる富、そして力。

 それら全てが一つの巨大な流れとなって、僕たちの小さな、ちょっぴり恥ずかしい辺境の常識を、容赦なく洗い流していく。


 どれほどの時、その光景に、心を奪われていただろうか。

 馬車は、街の中心にほど近い、広大な広場に設けられた大きな停留所で、ようやくその車輪を完全に止めた。

 僕はまだ、ふわふわと夢見心地のまま、馬車を降りる。

 その横でアンリエッタさんが見せる、子供のような、輝く瞳。

 マリーさんのどこまでも楽しそうな、満面の笑み。

 そして、固唾を呑む、厳粛さを必死に取り繕うような、ミゲルさんの真面目な横顔。

 三者三様の表情と、未来への希望が、そこにはあった。


「さてと。いつまでも、おのぼりさんみたいに、口を開けてるわけにもいかないでしょ」

 彼女は明るく笑う。

「まずは、情報収集。それから寝床の確保。基本中の基本よ。……というわけでフェリクス君。ギルドの場所、聞いてきてくれる?」


 僕は、こくりと頷く。

 それから広場で警備に当たる、一人の衛兵へと歩み寄った。寸分の曇りもなく磨き上げられた、冷たい光を放つ鈍色の甲冑が眩しい。


「すみません、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 少しだけ、緊張の滲んだ僕の声。

 それに衛兵はゆっくりと、兜に覆われた顔を、こちらへと向けた。

「……なんだ」

 その声はどこまでも平坦で、感情の色がなかった。


「冒険者ギルドは、どちらにありますか?」

「ギルドか。それなら、この広場を城門へ向かって少し戻るといい。すぐ右手に見える、大きな建物がそうだ」

 彼は鈍く輝く手甲で、広場の先を指し示してくれる。

「ありがとうございます」

「ああ」

 用件は済んだとばかりに、彼はすぐに正面へと向き直る。

 

 教えられた通りに、広場を城門方面へ少し戻ると、それはあった。

 石で組み上げられた大きな建物。

 リヨンのあの、どこか温かみのある木造のギルドとは違っていて。倍はあろうかという圧倒的な規模と、威圧感。

 ここがグリザイユの、冒険者ギルドなんだ……。


 僕たちは気後れすることなく、重厚な扉を押し開ける。

 中は、想像していたよりもずっと静かで、穏やかな空気が流れていた。

 僕たちはまず、宿を確保するためにも、受付のカウンターへと向かう。


「すみません、ギルドの宿泊施設に、空きはありますか?」

 僕の問いに、山のような書類を捌いていた、受付の女性が顔も上げずに答える。

「ギルドの宿泊所は、常に満室です。 ご予約は三ヶ月前から、どうぞ」

 あまりにも事務的な態度に少しだけ、面食らってしまう。


「……では、どこかお勧めの宿は、ありませんか?」

 

「失礼ですが、皆さんの冒険者等級は?」

「白鋼が二名、鉄が一名、青銅が一名です」

 それまで、書類の上を滑るように走っていた彼女の羽根ペンの動きが、ぴたりと止まる。彼女は、そこで初めて顔を上げた。

「……なるほど。『白鋼』の方が二名いらっしゃるのですね。でしたら『銀のグリフォン亭』を。何より清潔ですし、食事もまあまあです。皆さんで銀貨四枚ほど必要ですが、そこが一番無難でしょうね」


「ありがとうございます。……念のため、お聞きしたいのですが。もしそこが、満室だった場合は?」

 僕の慎重すぎる問いに、受付の女性は少しだけ、意外そうな顔をした。そして初めて、その表情に事務的ではない、人間味のある苦笑いが浮かぶ。


 態度が、変わった。

 あからさまにではないけれど、彼女の瞳に「査定」の色が宿るような。

 

「用心深いのですね、貴方は。それでしたら『森のふくろう』という宿があります」

 彼女はペン先で地図の別の場所を、とんと、指し示す。

「『グリフォン亭』に比べれば、少し見劣りはしますが。家庭的で、食事が美味しい宿と聞きます」

 

「ちなみに……もう少し、安いところは」

「修道院が宿をやっています。一泊、銅貨数枚ですが」

 彼女はそう言うと、今度はあからさまに、呆れたように息を吐く。

 

「……大部屋に寝台が並びますので、手荷物の多い冒険者方には、全く、お勧めしませんが。それでもよろしければ、どうぞ」


「……分かりました。では、そのご紹介頂いた二件へ、行ってみます」

 僕がそう告げると、受付の女性は再びその視線を、手元の書類へと落としてしまう。僕と彼女の視線が交差することはそれきり、無かった。

 僕たちは軽く会釈をし、その巨大な冒険者ギルドを後にする。


 再びグリザイユの喧騒の中を歩きながら、僕は知らず知らずのうちに大きなため息を一つ漏らしてしまう。

「……なんだか、リヨンのギルドが少し恋しくなってしまいました」

「あら、どうして?」

 マリーさんが、不思議そうに僕の目を見つめる。

「いえ、その……さっきの受付の方の態度が。マリーさんやシモーヌさんの、あの、親身な対応が、当たり前じゃなかったんだなって、改めて」


 僕のぼやくような言葉に、マリーさんはふふっと小さく笑う。

「ん〜、これだけ大きな街だからねぇ。一人一人に親身になっていたら、やっていけないのかもしれないわよ?」

 彼女は行き交う無数の人々の流れを、どこか遠い目で見つめる。

「それに、ほら。あまり親しくなりすぎると……何かあった時に、辛いでしょ? 人が多いということは、それだけ、別れも多いということだから」

 

 そのあまりにも静かな一言は、僕の胸に、すとんと落ちてしまう。

 その奥にどれほどの哀しみが隠されているのか、今の僕にはまだ計り知れない。


「ああやってきちんと線を引いておくのも、あそこで働く人たちなりの優しさであり、自分を守るための強さなのよ、きっと」

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