第91話 饗宴のあと
双つの奇跡──黄金の光と、緑のヴェール。
その最後の残滓が、淡い燐光となって夜の闇へと溶けてゆく。
かつて光の中心だったそこに佇むのは、古来より忌むべき黒という枷をその身に宿しながらも、人の理を超越した美貌を秘めた長身の女性と、未だ少年のあどけなさを残しながらも、英雄の覇気を纏わんとする金髪碧眼の少年。
その光景は、あまりにも幻想的で──
きっと、この夜の出来事は、この村で何代にも渡って語り継がれてゆくのだろう。
『契りの円環』という、一つの物語の、始まりの頁として。
やがて、村には先ほどとは違う、今度は静謐にも似た静けさが戻ってきた。
ただ、この麗しき師弟の光の饗宴を以てしても、壊された家々を元に戻すことはできず、村人たちの心に深く刻まれてしまった恐怖という帳を、完全に拭い去ることは、できない。
僕たちが、呆然と立ち尽くす村人たちに、何か声をかけようとした時だった。同じ馬車に乗り合わせた男女の二人が、アンリエッタさんへと、おずおずと近づいていく。
「あ、あの……私たちまで……ありがとうございました。さっきは、その……本当に、申し訳ないことを……」
女は目に一杯の雫を溜めて、言葉を詰まらせている。
隣の男も俯いたまま、顔を上げられないでいるようだ。彼らもまた、アンリエッタさんのあの、慈愛に満ちた緑の光の恩恵を受けたのだろう。
そんな後悔と羞恥に、身の置き場もないといった様子の謝罪を、アンリエッタさんは静かに受け止めた。
怒るでもなく、かといって、安易に許すでもなく。どこまでも澄んだ蒼玉の瞳で、二人を静かに見つめ返すのみ。
「……いえ」
短くも、凛とした一言。
それ以上は、何も語らない。それが、彼女の静かな、けれど確固たる意志表示だったのかもしれない。
男女は、アンリエッタさんのその姿に、許し以上の何かを感じ取ったのか、深々と頭を下げると、逃げるように村の人混みの中へ消えていった。
「……アンリエッタさん、今のは誰ですか? 何かあったんですか?」
不思議に思った僕がそう尋ねると、アンリエッタさんはふわりと、いつもの柔らかく微笑んだ顔に戻る。
……僕を安心させようとするための、笑顔、なのだろうね。
「いいえ。休憩の時にほんの少しだけ、お話をした方たちです。どうか、お気になさらないでください」
彼女はそれ以上、何も語ろうとはしない。
それは僕が相手でも変わらなかった。
僕の知らない所で、何かがあった。それは、確かだと思う。
けれど『何も無い』と、彼女がそう言うのなら、僕は、それを信じるだけ。それでいい。彼女が飲み込んだ言葉を、僕が無理にこじ開ける必要なんてないのだから。
「さてと、皆、ちょっといいかしら」
彼女は、僕たち三人の顔を、ぐるりと見渡す。
「治療も一段落したようだし、まずは、証拠探しをすべきだと思うのよ」
「……領主との、繋がりを示すものがあれば、ですな」
ミゲルさんが鋭い眼光で、そう付け加えた。
僕とアンリエッタさんも、こくりと、頷く。
これは決して気分の良い作業ではない。
僕たちは鉄錆のような血の匂いがまだ生々しく鼻をつく中、無言のまま賊たちの懐や革袋の中を一つ一つ改めていく。
奇跡の余韻は消え失せ、あるのは冷たい現実だけ。
僕たちの淡い期待も虚しく、賊が持っていたのは、粗末な武具と僅かな金銭だけという有様だった。リヨン領主との繋がりを示す物的な証拠は、何一つ見つけることができなかった。
立ち上がり、服についた土を払い落とす。戦いの後の高揚感は急速に冷め、後に残ったのは重い徒労感だけだった。
やり場のない無力感に唇を噛み締めた時。
背後から、杖をつく乾いた音がして、村の長らしき老人が僕たちの元へとゆっくりと歩み寄ってくる。
「冒険者様、ですかな。……この度のご恩、何と、お礼を申し上げれば……。せめて今宵は、私の家でゆっくりとお休みくだされ」
ただでさえ盗賊に襲われ、村は大変な状況のはず。
僕はそう思い、その申し出を丁重に断る。
「ありがとうございます。ですが、僕たちは野営の準備が既にありますから、お気持ちだけで」
けれど老人は、皺だらけの手を合わせ、縋るような目で僕たちを見つめ返してくるじゃないか。
「皆様のおかげで、我が村は救われたのです。このまま、何のお構いもせずでは、我々の気が収まりませぬ」
その必死な声音に、僕は悟る。
ここで頑なに断り続けるのは、違うかもしれない、と。
僕は少しだけ、考えを改める。
「……では、お言葉に甘えさせていただき、寝る場所だけ、お貸し願えませんか」
「ええ、ええ、何もありませんが。外で寝るよりは随分ましかと。どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
僕がそう言うと、老人は、心の底からほっとしたように、その深い年輪の刻まれた顔を綻ばせた。
案内された村長の家は、この村においては一際、大きな造りをしていた
石とレンガで堅牢に組まれた一階の上に、どっしりとした木造の二階が乗っている。
聞けば、稀に、旅の商人や、『辺境伯都から周辺領への使い』の方が、この村で一夜を明かすことがあるそうで。その、もしもの時のために、一階には客人のための部屋が、一つだけ設えられているのだという。
案内されたのは簡素な、しかし、清掃は隅々まで行き届いている一部屋だった。
そこには壁際に沿うようにして、硬そうな木製の寝台が四つ、並べられている。窓の外からは、虫の音が静かに聞こえてくるばかり。
戦いの後の、血と鉄の匂いとは無縁の、穏やかな夜の匂いがした。
「……まさか、初日から、屋根のある場所で眠れるなんて、ね」
マリーさんが心の底から安堵の息を吐き、一番手前の寝台に、どさりと腰を下ろす。
「マリアンヌ殿、失礼」
ミゲルさんが、静かに彼女を制する。
「私は、扉に一番近い、ここで休みます。万が一、何かあっても、すぐに対応できますので」
あまりにも、騎士として当然であるかのような、揺るぎない宣言。
それを聞いたマリーさんは一瞬、きょとんとした後、その唇を綻ばせた。
「あら、頼りになるじゃない。じゃあ、私はそのお隣を、お借りしようかな~」
残されたのは、部屋の奥に並んだ二つの寝台。
僕と、アンリエッタさん。
……別に、同じ寝台で眠るわけでもない。
ただ、隣同士、というだけ。
そんな、何でもないはずのことに、僕の心臓だけが、どくん、と、馬鹿みたいに大きく跳ねた。
部屋の中央には、僕たちが賊の亡骸から集めた、使い古された装備品と所持金が、無造作に積まれている。そんな、我欲の慣れの果て……。
忌まわしき山の前で、僕は改めて、仲間たちへと向き直り問いかける。
「……こういった、盗賊たちの得物や、金銭の所有権というのは、どうなるのでしょうか?」
僕の静かな問いに、アンリエッタさんは僅かに首を振る。
彼女は、里を出てから少しの徘徊の後、ずっと使用人として生きてきたことは知っている。博識ではあっても、こと、冒険者の世界の慣習に関しては、知らないことが多いのだろう。
代わりに、マリーさんは汚れた山をどこか冷めた目で見つめながら、淡々と告げる。
「基本的には、討伐した者の戦利品よ。……遺体も、街まで運べば、お金になったりもするけどね」
「ふむ……もし、私が今も、騎士に準ずるものであったならば。その全ては、領主に帰するべきものでした」
ミゲルさんも、静かに口を開いた。
「ですが。賊の不浄な財は、本来これを討ち果たした、正義の徒の手に渡るのが、道理かと」
彼は剣の柄にそっと手を置きながら、力強く付け加える。
マリーさんの、冒険者の先輩としての視点。
ミゲルさんの騎士に準ずる者としての過去と、今。
その二つの答えは、全く違う場所から発せられているようでいて、けれど不思議と、同じ結論へと辿り着いていた。
討伐者の権利である、と。
翌朝。
僕たちは村長へ、改めて礼を述べる。
それから、昨夜のうちに仲間と話し合って導き出した、最後の提案を口にすることに。
「村長さん。一つ、お願いがあります」
「なんでございましょう」
「あの者たちの亡骸の埋葬を、村で、お願いできますでしょうか」
「……それは、構いませぬが」
「もちろん、ただで、とは言いません。代価として──この、賊たちが持っていた武具と金銭を、お納めください」
僕の言葉に、村長が驚いたように目を見開く。
「……よろしいのですか? これは冒険者様方の、正当な権利では……」
「この村も、決して、無傷ではなかったはずです」
人は救えたさ。でも、この村は傷ついてしまった。
この村が傷ついたのは、僕たち『契りの円環』を、あの領主が狙ったからだ。
僕たちが、この村で一夜を明かそうとしたせいで、彼らは理不尽な暴力に巻き込まれたんだ。
これが、今の僕たちに出来る精一杯の償いであり、祈り。
僕は隣に立つ、仲間たちの顔を見渡し、続ける。
「このお金や武具が、少しでも、この村の復興の助けになるのなら。どうか、受け取ってください」と。
僕の決意の言葉に、マリーさんとミゲルさんが、強く頷いてくれる。
アンリエッタさんも僕の隣で、どこまでも優しい笑みを浮かべていた。
村長は、しばらく、僕たちの顔を一人、一人、見つめた後。
深い皺の刻まれた目元を、手の甲で何度も拭う。
「……ありがたい。本当に、ありがたい……。どうか、皆様方のお名前を、この老いぼれに、お聞かせ願えませんか」
そのまま僕が代表して、村長へ一言、僕らの名を告げた。
「僕たちの名は、『契りの円環』と申します」
それでいい。個々の名は必要ない。
僕たち『契りの円環』の、本当の意味での初陣は。
こうして誰かの涙と、温かい感謝の中で、その幕を閉じたのだ。
村人たちの温かい感謝に見送られ、僕たちは停留所で待つ乗合馬車へと乗り込む。目指す辺境伯都へ向けて、いざ。
悲しいかな。結局、僕は、リヨンから辺境伯都に到着するまでの丸二日間を。その大半を、青い顔でぐったりと過ごす羽目になる。
マリーさんが、「しょうがないわねぇ」と呆れながらも、その冷たい手のひらで、ずっと背中をさすってくれたり。アンリエッタさんが心配そうに、僕の汗に濡れた髪を、優しく撫で続けてくれたり。
ミゲルさんは、てんで戦力にならない僕の代わりに、馬車の周りから片時もその鋭い視線を外すことなく、周囲への警戒を務めあげてくれた。
僕はそんな、仲間たちの優しさに、ただただ感謝するばかりだったよ。
そして、出来ればもう馬車には乗りたくない……。
前日のマリーさんの宣言通り、馬を休ませるための休憩ごと、席替えは律儀に実行される。僕とマリーさん。ミゲルさんとアンリエッタさん。
そして、待ちに待った、僕とアンリエッタさんの組み合わせ。
それぞれの組み合わせで、僕たちは少しずつ互いのことを知り、絆を積み重ねていく。
マリーさんの隣は、いつだって賑やかで、楽しかった。
ミゲルさんとアンリエッタさんは、やっぱり、口数が多いわけではなかったけど、その間には、確かな、穏やかな時が流れている。
そして──アンリエッタさんの隣は、言わずもがな。僕にとって世界で一番、幸せで、それでいて、少しだけ落ち着かない場所なのさ(笑)
そうして、幾許かの時が流れ。
ガタガタと、揺れ続けていた馬車が、二日目の夕刻も迫る頃。とうとう緩やかに、その速度を落とし始める。
御者のどこか誇らしげな声が、僕たちの耳に届く。
「見えてきたぞ、オーヴェロン辺境伯が治める領都、『グリザイユ 』だ!」
その声に、僕たちは弾かれたように、身を乗り出す。
僕は、馬車の御者側にかけられた厚い革の垂れ幕を、必死でめくり上げた。
そして──その隙間から、流れ込んできた光と共に、地平線の向こうに広がるそれが見えてきた時。
僕たちは言葉を、失ったよ。




