第90話 麗しき師弟の共演(饗宴)
盗賊たちが骸となり、あるいは闇へと逃げ去り、村に、束の間の静けさが戻る。
だが、それは平穏とは程遠いものだった。悲鳴に咽び泣く嗚咽と、漂う鉄錆のような血の匂い。その全てが、声にならない一つの巨大な悲しみの塊となって、村を包み込んでいる。
まさに、愀然として声もなし、とはこのことか……。
無辜の民が己の不運を嘆き、悲しみ憂える、その、あまりにも痛々しい光景。
そんな、声なき叫びに応えるかのように。誰よりも早く駆け出すアンリエッタさんがいた。彼女は手にした銀環杖をそっと地面に置くと、泥も厭わず、一番近くで倒れていた村人へと駆け寄っていく。
「森の恵みよ、傷を癒したまえ 【シルウァヒール】」
僕は、慈愛を湛えた彼女の背中を見つめた後、残された仲間たちへと向き直る。
「マリーさん、ミゲルさん。怪我はありませんか?」
「ええ、私は大丈夫よ。ミゲル君は?」
「私も問題ありません。……ご主君、どうか、ご無理はなさらないでください」
「わかってます。じゃあ二人は、ここで休んでいてください」
僕はそう念を押すと、あの女性の背を追うように、傷ついた村人たちの元へと向かう。村のあちこちで助けを求める、か細い声が耳に痛い。
「あなたっ、お願い、目を覚まして!」
「お父さん、お父さん……!」
ひときわ大きな悲鳴が聞こえた方へ、僕は足を速めた。
血の海の中に、一人の男性が倒れている。その胸には深い剣の傷が……。
「すみません、ちょっと、どいてください!」
僕は、泣きじゃくる女性を半ば強引に引き離し、男の前に膝をつく。
……脈は? 瞳孔は?
指先を男の頸動脈に当てる。……弱い。だが、まだ何とか触れる。
次に、その瞼を無理やりこじ開けた。僕の指先に灯した『ルイン』の光に、散大した瞳孔が僅かに収縮するばかり。
対光反射、微弱。……まずいぞ。このままでは助からない。
けれど──。
あの魔法なら、まだ、間に合うかもしれない。
残された最後の生命の輝きを、掬い上げることが可能かもしれない!
僕は決意を固め、アンリエッタさんの名を大きく呼んだ。
「アンリエッタさん!」
「はい!」
次から次へと、他の村人へ治癒魔法を施していた彼女が、僕の大声に、すぐに駆けつけてくれる。
浮かべた『ルイン』の光が、彼女の顔を美しく照らす。
「僕は、この方を救います。ただ、おそらく、次の魔法を使えば、十中八九僕の魔力は尽きてしまう」
僕は彼女の、大好きな蒼玉の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。そして願った。
「残りの人たちを、お願いできますか」
僕の覚悟を、彼女は一瞬で理解してくれたのだろう。
その唇に、頼もしい弧を描かせて。そこには、共に命を救う同志としての使命感と、僕への絶対的な信頼を込めた微笑みが浮かんでいた。
「ふふ、誰に言っているのですか? 魔法においては、私は貴方の師、ですよ? どうか、お任せを」
ああ、そうだ。今の僕にはこの人がいる。
僕がここで、全てを使い果たしたとしても。後は、彼女が引き継いでくれる。彼女の揺るぎない信頼が、僕の最後のためらいを完全に断ち切ってくれた。
彼女は、僕の『ルクス・リヴァイブ』は知らないはずなのに……ね。
僕は再び、目の前の瀕死の男性へと、向き直る。
彼の妻らしき女性が、そして、その腕に抱かれた小さな子供までもが、縋るような目で、僕をじっと見つめていた。
やるしかない、よな。たとえ、大勢の人の目があったとしても。
決断したはずの心が、一瞬、ためらう。
けれど、彼らが傷ついたのは、僕たち『契りの円環』を狙った、あの領主のせいでもあるのなら、僕の決断は一つしかない。
目の前に救える命がある。
ならば、その悪意ごと払い、救って見せよう。僕と彼女で。
……僕の、元医師としての、矜持にかけて。
僕は、男性の胸に空いた、深い刺し傷へと、両の掌をそっと重ねる。
ありったけの魔力を集束させねば、この命は救えないだろう。それほどに深い傷だ。
僕は静かに瞳を閉じた。
唇から紡がれた言葉と共に、掌から暖かく、どこまでも清浄な黄金の光が溢れ出す。
「万物を照らす光よ、生命の煌めきよ、今、消えゆかんとする同胞の灯火に、慈悲と恵みの力を与え給え。砕けし骨、裂けし肉を癒し、失われし血潮を再び」
夜の闇を、昼間のように明るく照らし出す、黄金の光が迸った。
あまりにも神々しい光に、その場にいた誰もが、呼吸さえも忘れている。
「命を拾え、掬い上げろ! 【ルクス・リヴァイヴ】」
少年の魂の叫びが、夜空に木霊した時。
黄金の光は一つの希望の太陽となって、夫婦の、親子の全ての悲しみを、その、絶対的な輝きの下に塗りつぶしていく。
(……違う。これは私が知っている、彼の治癒魔法じゃない……!)
他の負傷者の元に駆け付けたアンリエッタは、背後で迸った、あまりにも強大で清浄な魔力の奔流に、弾かれたように顔を上げた。
彼女の白き肌をピリピリと焼くかのような、眩すぎる神気、魔力の奔流。
振り向いた彼女の目に映ったのは──
在りし日の、彼女の宝物だった少年の手から放たれる、黄金の煌めき。それはまさに、生命そのものの、輝き。
彼女が知る、どんな高位の治癒魔法とも一線を画す、神の御業にも等しい輝きだった。
目の前で、奇跡が起きている。
致命傷であったはずの男の胸の傷が、強烈な光の中で、時間を遡るかのように編み上げられていく。失われたはずの血肉が還り、蒼白だった顔に温かい色が戻っていく。
「あぁ……」
アンリエッタは、信じがたい光景に、ただ、言葉を失っていた。
黄金の光が、ゆっくりと収まっていく。
強烈な光の洪水が消え去った後には、その場にふらりと、膝をつきそうになる少年の姿だけが、残されていた。
彼の魔力が、ほとんど、底をついたのだ。
ぜえぜえと、荒い息を繰り返しながら、少年が顔を上げる。
彼の、全てを託すような視線が、アンリエッタと交わった。
……私も、頑張らなければ。
彼の、あの、命を削るような魔法を、無駄になんてしない。
もしも、ここで、誰かの命を取りこぼしてしまったら……。
この出来事は、きっと皆の心に、癒えることのない傷を残すだろう。
マリアンヌさんの心にも。
ミゲルさんの心にも。
そして、誰よりも優しくて……誰よりも、人の痛みに敏感な、彼の心にも。
彼女はそこで一度、強く、瞳を閉じた。
そして、次に、その瞳が開かれた時。
そこに宿っていたのは、もはや、迷いの色ではなかった。慈愛と、全てを救うという、鋼のような覚悟の光のみ。
……アンリエッタさん、まさか。
魔力を使い果たした僕の、ぼんやりとした視界の中で。
彼女が、何をしようとしているのか、その、大気さえも震わせる膨大な魔力の気配だけで、理解してしまった。
「だめだ、魔封じの首輪が外れたばかりで、いきなり、そんな極大魔法は……! 魔力が暴走したら、貴女が……」
はじけ飛んでしまうかも、しれない。
……やめてくれ。
朦朧とする意識の中で、声にならない、制止の言葉。
それを振り払うかのように、彼女は手にした銀環杖を夜空へと、高く、高く、掲げた。
大好きな彼女の……薄くて艶やかな唇から、僕の知らない、古のエルフの言葉が紡がれていく。
それは詠唱というよりも、どこまでも夜空に澄み渡る、一つの祈りの歌のように。
「ハルフィンデルの名において願う。穢れなき森よ、導たる聖樹フィンデールよ。我が声に応じ、此処へと至れ。彼の者らに、癒しと、安らぎを」
アンリエッタの、清き森のような声に呼応するように。
掲げた杖の先端から、柔らかな若葉の色をした、緑の光が溢れ出す。
癒しの光は、夜空へ吸い込まれるように舞い上がると、無数の雨粒のような清き光の粒子となって、村全体へと降り注いでいく。
「遍く者に其の恵みを──【|シルウェリア・ディーウィヌム《聖樹の慈雨》】』
それは、まさに聖なる森の恩寵。
翠玉の如く煌めく、慈愛の雨そのものだった。
フェリクスの放った、全てを照らし出す、一点集中の、力強い奇跡の光とは違う。
傷ついた者、嘆き悲しむ者、その全てを、ただ優しく包み込む、慈愛に満ちた緑の輝きのヴェール。
悲嘆に沈む村を、淡く包む慈雨の光。
あまりにも幻想的な光景に、村人たちの嗚咽は、次第に感嘆の吐息へと変わっていった。
魔力を使い果たした僕の、ぼんやりとした視界の中で。
緑の光の中心で、静かに祈りを捧げるアンリエッタさんの姿が、僕にはもう、聖女のようにしか、見えなかったよ。
あまりにも神々しい、光の饗宴を。
少し離れた場所から静かに見守る、男女の影が二つ。 やがて、女は誰に言うでもなく、ひとり呟く。
「……あーあ、やっちゃった。いずれ、こうなるんじゃないかって、思ってたけど……」
女の呆れたような、それでいて、どうしようもなく慈しみに満ちた声。
彼女は、この二人を守り抜く覚悟を決めたように、隣に立つ男へと静かに語りかける。
「ねえ、ミゲル君……。私たちが出会ったのは、運命だったのかもね」
「はい……」
「この二人は、何があっても、私たちが守らないといけないわ」
「……ええ、わが命に代えても」
フェリクスが起こした『ルクス・リヴァイヴ』という黄金の煌めき。
その奇跡的な光景に、一番衝撃を受けたのはアンリエッタです。それは、かつて彼の師であり、彼の力を誰よりも知るアンリエッタだから、視点はごく自然に彼女の驚きへと移ります。
力を使い果たしたフェリクスが、全てを託すようにアンリエッタを見つめる。今度は彼のその「想い」が、師アンリエッタの心を動かします。
本話は視点が、フェリクス↔アンリエッタ↔︎三人称と複雑に移動しますが、出来るだけ読者様が混乱しないよう書き分けたつもりではいます。
わかりづらかったら、ごめんなさい。
──神崎 水花




