第9話 オリジナル鍛錬法
ギシギシ、と井戸の古びた滑車が、爽やかな朝に少々不似合いな音を立てている。
朝一番に井戸で水を汲み、厨房にある大きな水瓶を満たす。それが僕の日常に加わった新しい日課の一つ。
すると必ず、滑車を回し始めた頃を見計らったようにやって来て、
「いつも本当にありがとうございます」と、今日も花が咲くような、気持ちの良い笑顔を向けてくれる。
人はすぐに親切に慣れてしまう。今、受けている好意が当たり前になってしまうのは、僕だって例外ではない。でもアンリエッタさんは違う。彼女の見返りを求めない純粋な優しさに触れるたび、そんな在り様を心の底から尊敬しているし、自分もそうありたい、と切に願う。
朝っぱらから、アンリエッタの話ばかりじゃないか! だって?
『さん』をつけろよデコ助野郎。
おいおい、何を言ってるんだ。彼女の魅力について語り始めたら、それこそ日が暮れるぞ。ネタならいくらでもあるんだからな。ふふふ。
それから神様、もう元の世界には戻さなくていいから。
理由は言わなくてもわかるよね。神なんだし。
今更戻すとか無粋なことは、絶対にやめて。頼んだよ。
さて、朝食を終えたら木剣を手に、いつも通りの裏庭で、いつものように剣術の訓練を始めるとしよう。今日はちょっと試したいこともあるんだ。
木を組んで誂えた簡素な人形の前にそっと立ち、すぅ、と大きく息を吸い込んで精神を統一する。何事も、努力なくして身に修めた試しはなし。健全な精神は健全な肉体に宿るやらで齧らされた剣道も、経験として、意外にも今の僕の基礎として、この異世界でしっかりと根付いていた。
厳格すぎた前世の親父には色々と思うところもあったけれど、これに関しては、今となっては少しだけ感謝している。
手に持つのは練習用の両刃の木剣。作りは荒く、ずしりと太くて重い。当然、本物の刀のような刃もなければ、鞘すらない。
だが、イメージは出来る。木剣を左腰に水平に構え、鞘から抜き放つように、腰の回転を利かせて、右手一本で鋭く横一文字に薙ぐ。──抜刀術『抜付の初太刀』
本来であれば、抜き放たれた刀身は鞘の内を滑りながら急加速し、疾風が如き一閃となって敵を切断するはずなんだけど、この重くてバランスの悪い木剣でそれをやろうとすると、腕や足腰への負担が半端なく大きい。
この世界に、日本刀はあるのだろうか。
慣れ親しんだ動きの方がしっくりくるから、可能なら手に入れたいところ……。
初太刀に続き、剣を頭上に振りかぶり、人形の急所──眉間から水月までを一気に断つように振り下ろす二の太刀。間髪容れず、素早く刀身を引き戻し、右袈裟に鋭く斬り下げる三の太刀。袈裟斬りの反動を上手く使い、手首を返して逆袈裟に切り上げる四の太刀。
脇の下や喉元といった人体の急所を正確に狙う、紫電のような突きも忘れない。
刀をいかに速く振るか。それは剣術において最も重要な要素の一つだろう。だが同時に、放った刃をいかに速く引き戻すかも、それに匹敵するほど重要だと僕は思う。動く敵を相手にして、放った斬撃が全て当たる保証などどこにもない。剣閃が空を切った瞬間、無防備に晒されるのは己の命なのだから。
いま、自分にできる最大限の剣速で斬り下ろし、薙ぎ払い、突く。
刃を戻す際は、振り下ろす時よりも更に早いイメージで。
木刀の倍はあろうか木剣で、渾身の一撃を何度も、何度も繰り返しているうちに、あまりの疲労に腕はプルプルと震え痙攣し始める。木剣を握る手にも力が入らない。
「もうだめだぁ、限界」
ぜぇ、はぁ、と荒い息をつきながら、その場にへたり込みそうになる。
さあ、ここからだ。ここからが今日の本番。和式剣術は余興にすぎない。
震える手で木剣を傍らの地面に置き、魔法詠唱へと気持ちを切り替える。
脳裏に、酷使され傷ついた自分自身の筋繊維を思い描く。激しい運動によって断裂し、傷ついた繊維。その一本一本が魔力の光を浴びて強く、より太く、しなやかに修復されていく様を。同時に、骨の密度が増して頑丈になっていくイメージも。仕上げに、疲労の原因である乳酸が、体の中から綺麗さっぱりと霧散していく感覚を付け加えた。
一連のイメージを可能な限り写実的に、明確な映像として脳内に構築し、そして、静かに魔力を練り上げ放出する。
「断たれし我が血肉よ、内なる力を以てその身を癒し、不動の礎となれ【インターヴェンション】」
詠唱と共に、全身が淡く柔らかな光に包まれる。何ともいえない心地よさが、疲弊しきった身体の隅々まで染み渡っていく。しばらくして光が収まった後、試しに掌をグーパーと繰り返してみた。
……うん、さっきまでの、あの鉛のような疲労感は、まるで嘘のように消え去っているね。どうやら、強化再生魔法は成功したらしい。
よし、効果のほどは……。上着を捲り上げ腹筋を確認し、力こぶを作って上腕を確かめてもみたけど、特段筋肉に変化は見られないような。うーん。一本一本が強く太くなる程度じゃ駄目だったかな? それとも、単純に魔法を使った回数が足りないだけなのか……。
明確に、筋繊維が増えるイメージを加えた方が効果的なのかもしれない。
でもなぁ。マッチョなキッズとかちょっと気持ち悪いよ……。筋繊維を増やすイメージは今は控え目にしておこう。まずは一本一本の繊維が強く、強靭で、しなやかさを併せ持つ。そんな質的な向上を目指す感じで進めていこうかな。
なかなか過酷であった剣術の鍛錬を終えれば、お待ちかねの昼食。そして午後はアンリエッタさんとの魔法練習の時間だけど、流石にこのまま泥と汗に塗れた格好で、彼女の前に出るのは気が引けちゃうよ。
もし、アンリエッタさんに『汗臭いですね』なんて、あの美しい顔の眉根を顰められたりしたら、もう嘆死一直線!(好奇心で少し見てみたい気もするけど)。
僕の心のHPは意外と多くないんだ。なんせ元絶食系男子だからな! ふんす。
静々と井戸の前へと赴き、冷たい水を汲み上げては念入りに体を拭いていく。
仕上げに、桶に残った水をザッパーン! と景気よく頭から被ればすっきり気分爽快。冷たい井水が、火照った体に気持ちいい。
丁度いい機会かも、上半身裸になった自分の体をあらためて見てみた。
気のせいかな? 前より少しだけ引き締まった、随分とマシな体つきになってきた気がする。
前はどこを見ても締まりのない、ふわふわで、たゆんたゆんしたボディだったもんなあ……。デブではなく細身ではあったけど、全身どこもかしこも白くて柔らかかったんだ。
「ぼっちゃまは、本当に綺麗好きですね」
(いいえ違いマス。アナタに臭いと思われたくないからデス)
背後からかけられた声。
この美しい声の主を、僕が間違違えるわけがない。
「アンリエッタさん」
振り返ると、やはり彼女がそこにいた。
「ふふ、少し大人しくしていてくださいね」
有無を言わさず、頭上からふわりと大きな白い布を被せられ、視界が奪われる。わしゃわしゃと勢いよく拭く動作に全身を大きく揺さぶられ、たまらず目の前にある彼女の細い腰を掴んでしまった。
拭かれる間の、タオルの隙間から覗く彼女の顔は、やっぱり綺麗でドキドキする。
最近気がついたのだけど、彼女が側にいると毒気が抜かれて、素直な自分になれる気がしている。そしてなぜかそんな自分が嫌いじゃない。魂が、若い肉体に引っ張られてる可能性も否定は出来ないけど、僕はこちらを信じたい。
「はい、終わりましたよ」
名残おしいと思う間もなく、今度は新しいシャツが被さってくる。
「そういえば、アンリエッタさん」
「もしかして、髪の毛とか挟んじゃいましたか?」
「ううん、そうじゃなくて。水汲みが嫌だから言うんじゃないよ? ただ純粋に興味があるから教えて欲しいんだ」
「何でしょう? 言ってみてください」
僕の言葉に耳を傾けようと少し彼女が屈むと、あの深い蒼玉の瞳が僕と同じ目の高さになった。あぁ、吸い込まれてしまいそう。
「その、首につけてる魔封じだけど、どうして水魔法まで制限しちゃうのかな? もし水魔法がもっと使えたら、水汲みとか、湯浴みの準備もずっと楽になるでしょ? 誰も困らないと思うんだけど」
僕の素朴な疑問にアンリエッタさんは、
「それは簡単ですよ。ほら」と、目の前で実演して見せてくれた。
彼女の手の平には、ピンポン玉サイズくらいの水球が浮いていた。
「力の制限がなかったら……もーっと大きな水球で、誰かの頭をすっぽりと覆えてしまえますもの」
「た、確かに……寝込みを襲われたら、ひとたまりもないね」
寝ている間に水で窒息させられるなんて、想像しただけで恐ろしい。権力者にとって、まさに悪夢以外の何物でもないだろう。
「でしょう? えい!」
「ああっ」
バシャッ。
小さい水球が、僕の顔面にクリーンヒット。
「うふふ、また濡れてしまいましたね」
舌先を少しだけ出して、楽しそうに笑うアンリエッタさん。
彼女の屈託のない笑顔に、一瞬、大事なことを見失いそうになるけど、要はそれって……使用人を一切信用してませんってことの裏返しでもあるよな? ふうむ。なんだか、やるせないな。
「僕がもし主人なら、アンリエッタさんの魔封じなんて取っちゃうけどな」
「まぁ、悪いことをするかもしれませんよ~?」
「もう、すぐそうやって、からかうんだから」
「うふふ、その『いつか』を楽しみにしていますね」
表現が難しいくらい本当に幸せそうで、花が綻ぶような笑みを魅せるアンリエッタさん。あの輪を取るにはどうすれば良いのか、その方法すら知らない我が身だけど、いつかあの魔封じを絶対に取ってあげるんだ。
心の中で固く誓う。僕と貴女だけの約束。




