第89話 放たれた悪意
「そんな顔してると思ったわ、だから、私に感謝なさい?」
隣から、呆れたような、それでいて、どこまでも優しい声がした。
いつの間にかマリーさんが、僕の隣に腰を下ろしている。
「辛そうね? 大丈夫?」
「……はい。少し、酔っただけですから」
「寂しいのはわかるけど、もう、キミだけのアンリエッタさんじゃないの。私たち『契りの円環』の、大切な仲間にもなってしまった。……まぁこれからは、少しは私たちも、頼りなさいよね」
彼女の少しだけ意地悪で、それでいて、どうしようもなく温かい言葉。
僕は何も言い返せずに、ただ、照れくさそうに笑うことしかできなかった。
やがて御者の、出発を告げる声が、僕たちを馬車へと呼び戻す。
乗り込もうとした僕を、マリーさんがにやりと、悪戯っぽい笑みで制した。
「はい、フェリクス君はこっち」
「え?」
「席替え、忘れたとは言わせないわよ?」
「そうでしたね」
そうして、馬車の席は入れ替えられたのだ。
……僕は、いつになったら彼女の隣に座れるのだろうか。
僕の向かい側には、アンリエッタさんとミゲルさんが座っている。先ほどの休憩もあってか、二人の間に流れる空気は、僕が想像していたよりもずっと穏やかなものだった。
心なしか、穏やかな時が流れているような気さえしてくる。
「ミゲルさん、先ほどはご配慮、ありがとうございました」
「いえ、当然のことをしたまでです」
彼女の、どこまでも穏やかな物言いに、ミゲルさんの硬い表情が、ほんの少しだけ和らいだように見える。
それから二人は、ぽつり、ぽつりと、言葉を交わし始めていく。決して会話が多い二人ではないけれど、その間には確かな、信頼の時間が流れ始めている。
さて、打って変わって、僕の方はというと。
長い間、揺れ続けるという現実は、僕の三半規管を確実に容赦なく蝕んでいく。
「……う……」
「あらあら、本格的に、顔色が悪くなってきたわね」
僕の隣から、マリーさんの心配そうな声がする。
「キミが、馬車に弱いだなんて、知らなかったわ。ごめんね。かといって歩いて向かう訳にもいかないし……」
彼女の冷たくて気持ちのいい手のひらが、僕の背中を優しく、さすってくれた。
「なんなら、膝枕でもしてあげるわよ?」
「……お気持ちは、嬉しい、ですけど……。たぶん、寝転がったら、吐いて、しまいそうで……」
「あら、残念」
フェリクスとマリアンヌの、そんな親密なやり取り。
それをアンリエッタが向かいの席から、ただ、じっと、見つめていることを。
その、少年が焦がれるほどに美しい青金石の瞳に、ほんの一瞬だけ、一抹の寂しさにも似た影が揺れたことを。
車酔いに意識の大半を奪われていたこの時の少年は、まだ、気づくことができなかったのだ。
車輪の音だけが響いていた馬車は、やがて、リヨンと辺境伯都の中間地点にあたる小さな村で、その日の行程を終えた。
聞けば、村に宿屋というほどの立派なものは無い。
精々、村人の家に間借りさせてもらう程度だという。
アンリエッタさんとマリーさん。素敵な女性が二人もいるこの旅路で、見知らぬ民家の世話になるのは、あまりに無防備すぎる。
「少し村からは離れますが、野営にしません?」
僕の提案に、皆が頷いてくれた。
その方が安上がりだし、何より、これこそが『冒険』の始まりなのだと、思えたから。
僕たちは村はずれに、寄り添うように立つ二本の大樹の下を選んだ。
パチパチと、心地よい爆ぜる音を立てて、焚き火の炎が夜の帳を照らし出す。四人で囲む、初めての晩餐。
それは、決して豪華ではなかったけれど、僕の人生で本当に久方ぶりの、心の底から温かいと感じられる、楽しい食事だった。
食休みの一時。
揺らぐ炎が、僕たちの顔を柔らかく照らしている。マリーさんとミゲルさんは、今日の馬車での一件を、まだ楽しそうに話していた。
僕は、そんな和やかな空気の中、ずっと胸に引っかかっていた、あの日の疑問を口にしてみることにした。
「あの……アンリエッタさん」
僕が改まってそう言うと、不思議そうに小首を傾げる彼女がいた。
「はい、フェリクスさん」
僕は、自分の甲に宿った痣のようなものを見せる。
あの黒いオーガとの死闘の後、いつの間にか現れていた紋様が、炎の光を受けて静かに浮かんでいた。
「これ、なんですけど。アンリエッタさんは、何か知りませんか?」
「なになに、タトゥーだったりするの?」
マリーさんが、横から身を乗り出してくる。
「いえ、タトゥーじゃなくて……。黒いオーガとのあの戦いで、ミゲルさんを、マリーさんを救いたいと強く願ったら……何かよく分からない力が湧いてきて。その時に、こいつが蒼く光ったんです」
「確かに、あの時のキミ、異常な速さだったわね、本当に一瞬のことだったけど……ミゲル君は何か見た?」
「いえ、私はマリアンヌ殿を庇うことで精一杯でしたから……」
「あ、ありがとう」
僕はもう一度、アンリエッタさんに向き直る。
「アンリエッタさん……。貴女なら知ってるかな、と。この、聖痕みたいなもの、知りませんか?」
僕の問いかけに、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「私も、知りません。ですが……フェリクスさん、それ、一角獣に見えませんか?」
「うん、僕にもそう見えるよ」
「もし、それが一角獣に纏わる何かだとしたら……。フィンデルの里の長老なら、何かを知っているかもしれません」
「フィンデルの里って、アンリエッタさんの?」
「ええ、そうです……」
──そんな語らいの時間を、無情に引き裂くは唐突な絶叫。
夜の闇の向こうから聞こえてきた、甲高い女の悲鳴だった。
「きゃああああっ!」
僕たちは、弾かれたように立ち上がる。
村の方角で、いくつもの松明の光が乱暴に揺れ動いているのが、闇の中に飛び込んできた。そこから続く、金属のぶつかり合う音、怒声、そして泣き声。
「ちっ……盗賊か!」
ミゲルさんが吐き捨てるように、低く呟いた。
僕たちは、顔を見合わせ頷き合う。
その刹那には、四人同時に、村へと向かって駆け出していた。
村は、混沌の渦中真っただ中。
地に転がる松明の明かりに照らされ、盗賊たちが粗野な笑い声を上げながら、村人たちから食料や金品を奪っている。
「さあ、金目のもんはどこだ! 出さねえと、このガキの命はねえぞ!」
抵抗しようとした村人は容赦なく斬りつけられ、その傍らでは、泣き叫ぶ女性を襲う浅ましき姿までもあった。
「いやぁぁ、やめてぇ」
夜空に悲しく、助けを求める声が木霊する。
「ミゲルさんは僕と前へ、アンリエッタさんは僕の後方から援護を! マリーさんは遊撃!」
僕は、瞬時に指示を飛ばす。
戦端が開かれた。
先頭に立つ僕の剣が、唸りを上げて、一人の盗賊の剣を弾き飛ばす。がら空きになったその喉元。僕は、剣先を突きつけた。
「……っ!」
けれど、そこからがどうしても、踏み込めない。
殺せ……! 殺さねば無実な人に害に及ぶ。
でもこいつは、魔物じゃない。人、なんだ……。人なんだぞ!?
前世で、人の命を救うことだけを叩き込まれてきた、僕の魂が悲鳴を上げている。
「くそっ」
アンリエッタさんも、同じだった。
彼女の放つ風の刃は、盗賊たちの服や鎧を切り裂くばかりで、決して、その命を絶つには至らない。僕の師でもあるはずの彼女の魔法にも、致命的なまでに、精彩を欠いていた。
その戸惑い、逡巡。
『人を殺せない』という、僕たちの致命的なまでの、甘さ。
それを見逃すほど、相手は素人ではなかったし、善人でもなかった。
僕が剣を突きつけた男の背後から、もう一人の盗賊が、僕の死角を突き、鋭い短剣を心臓目掛けて、突き出してくる。
バシュッ!
まさに電光石火の一撃。
僕が躊躇した男の喉元を、背後から回り込んだマリーさんの短剣が、容赦なく、深く切り裂いていた。続けざまに、僕を襲おうとした男の心臓にも、彼女の逆手の短剣が、深々と突き立てられる。
血飛沫を上げた男たちが、目を見開き、どう、と、地面に崩れ落ちてゆく。
僕が驚いて彼女へ目線を移すと、マリーさんは短剣の血を振り払い、その強い瞳で、僕たちへ射抜くように言った。
「いい、よく聞いて。今の私にとって、あなたたちより大切なモノは、何もないの」
悲しくも力強い彼女の声が、戦場の喧騒の中に響く。
「だから、私は躊躇しない。相手がたとえ、人であってもね!」
その言葉は、かつて見知らぬとはいえ人を信じ、仲間と、最愛の弟を失った彼女の、血を吐くような覚悟の叫びだったのだろう。
マリーさんの覚悟に呼応するように、ミゲルさんが動く。
「民を脅かす賊に、情けは無用。……ご主君の、御前を汚すな!」
彼の剣が、閃光のように煌めく。
彼の前に立ちはだかった盗賊たちが、悲鳴を上げる間もなく、次々と、血の海に沈んでいった。
「くっ、このクソ女が!」
マリーさんの死角から、投げナイフが音もなく迫る。
それに気づいたアンリエッタさんが咄嗟に、しかし、明確な意志を持って、マリーさんの前へと手を突き出した。
「させません!」
彼女がそう叫んだ瞬間、手のひらに呼応するように、地面から淡い緑色の光を放つ、半透明の枝々が瞬時に編み上げられる。それが美しい『茨の盾』となってナイフを受け止めた。
キン、と硬質な音を立ててナイフが弾き飛ばされた後、その出所に向かってミゲルさんが駆けていった。
「ありがとう、アンリエッタさん」
「いえ、せめて守るだけでもさせてください」
戦いがひと段落し、生き残った盗賊の一人を、マリーさんが問い詰める。
「ねぇ……お前たち、ただの盗賊じゃないわね? 妙に、連携が取れていたもの。元は冒険者か傭兵か……違う? 誰に雇われたの? 何が目的?」
「ひっ……! し、知らねえ!」
「……そう。なら、いいわ。アンタの代わりはまだいるから」
マリーさんが血に濡れた短剣の先端を、男の眼球へゆっくりと、近づけていく。
「ま、待て! 言う! 言うから! そ、その代わり、命だけは……!」
「わかったわ。二度と、私たちに関わらないと約束するなら、ね」
「や、約束する! どのみちこれを喋ったら、俺はもう、この地にはいられねえ……」
「ふん、大袈裟な。さっさと言いなさい」
男は、恐怖に顔を歪ませながら、全てを白状した。
自分たちが、リヨン領主オーギュストに雇われた、元冒険者崩れであることを。
そして、彼らに与えられた、本当の密命を。
「……リヨンを発った、生意気な金髪の小僧のパーティーを、皆殺しにしろ、と。……た、ただ……」
「ただ、何?」
「うっ」
「早く言いなさい」
「……マリアンヌという、緑の髪の、む、胸の大きな女だけは、必ず、無傷で、生け捕りにしろ、と……」
僕を、僕たちを殺せという命令。
それからの、あまりにも下劣極まりない続き。
それを聞いた僕の頭の中で、何かが切れそうになる。怒りを通り越して、逆に思考が、氷のように冷えていくような感覚さえあった。隣ではミゲルさんが、その鞘に収めたままの剣を、柄が軋むほどに強く握りしめている。
そんな僕たちの激情とは対照的に、マリーさんはどこか冷たく、とても凪いだ表情をしていたよ。
彼女は吐き捨てるように、けれど、その声には、どうしようもないほどの、深い諦観を滲ませて。
一言、嘆いた。
「……なんて、嫌な世の中なの」
この理不尽な世界で、仲間を守るために、自ら手を汚すことを選んだ彼女だからこそ言える、あまりにも重く、悲しい嘆きだった。




