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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第三章 黒が忌諱される理由

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第89話 放たれた悪意

「そんな顔してると思ったわ、だから、私に感謝なさい?」

 隣から、呆れたような、それでいて、どこまでも優しい声がした。

 いつの間にかマリーさんが、僕の隣に腰を下ろしている。

 

「辛そうね? 大丈夫?」

「……はい。少し、酔っただけですから」

「寂しいのはわかるけど、もう、キミだけのアンリエッタさんじゃないの。私たち『契りの円環(フェルツェンギルデ)』の、大切な仲間にもなってしまった。……まぁこれからは、少しは私たちも、頼りなさいよね」


 彼女の少しだけ意地悪で、それでいて、どうしようもなく温かい言葉。

 僕は何も言い返せずに、ただ、照れくさそうに笑うことしかできなかった。


 やがて御者の、出発を告げる声が、僕たちを馬車へと呼び戻す。

 乗り込もうとした僕を、マリーさんがにやりと、悪戯っぽい笑みで制した。

「はい、フェリクス君はこっち」

「え?」

「席替え、忘れたとは言わせないわよ?」

「そうでしたね」

 

 そうして、馬車の席は入れ替えられたのだ。

 ……僕は、いつになったら彼女の隣に座れるのだろうか。

 僕の向かい側には、アンリエッタさんとミゲルさんが座っている。先ほどの休憩もあってか、二人の間に流れる空気は、僕が想像していたよりもずっと穏やかなものだった。

心なしか、穏やかな時が流れているような気さえしてくる。

 

「ミゲルさん、先ほどはご配慮、ありがとうございました」

「いえ、当然のことをしたまでです」

 彼女の、どこまでも穏やかな物言いに、ミゲルさんの硬い表情が、ほんの少しだけ和らいだように見える。

 それから二人は、ぽつり、ぽつりと、言葉を交わし始めていく。決して会話が多い二人ではないけれど、その間には確かな、信頼の時間が流れ始めている。


 さて、打って変わって、僕の方はというと。

 長い間、揺れ続けるという現実は、僕の三半規管を確実に容赦なく蝕んでいく。

「……う……」

「あらあら、本格的に、顔色が悪くなってきたわね」

 僕の隣から、マリーさんの心配そうな声がする。

「キミが、馬車に弱いだなんて、知らなかったわ。ごめんね。かといって歩いて向かう訳にもいかないし……」 

 彼女の冷たくて気持ちのいい手のひらが、僕の背中を優しく、さすってくれた。

 

「なんなら、膝枕でもしてあげるわよ?」

「……お気持ちは、嬉しい、ですけど……。たぶん、寝転がったら、吐いて、しまいそうで……」

「あら、残念」


 フェリクスとマリアンヌの、そんな親密なやり取り。

 それをアンリエッタが向かいの席から、ただ、じっと、見つめていることを。

 その、少年が焦がれるほどに美しい青金石の瞳に、ほんの一瞬だけ、一抹の寂しさにも似た影が揺れたことを。

 車酔いに意識の大半を奪われていたこの時の少年は、まだ、気づくことができなかったのだ。


 車輪の音だけが響いていた馬車は、やがて、リヨンと辺境伯都の中間地点にあたる小さな村で、その日の行程を終えた。

 聞けば、村に宿屋というほどの立派なものは無い。

 精々、村人の家に間借りさせてもらう程度だという。


 アンリエッタさんとマリーさん。素敵な女性が二人もいるこの旅路で、見知らぬ民家の世話になるのは、あまりに無防備すぎる。

「少し村からは離れますが、野営にしません?」

 僕の提案に、皆が頷いてくれた。

 その方が安上がりだし、何より、これこそが『冒険』の始まりなのだと、思えたから。

 

 僕たちは村はずれに、寄り添うように立つ二本の大樹の下を選んだ。

 パチパチと、心地よい爆ぜる音を立てて、焚き火の炎が夜の帳を照らし出す。四人で囲む、初めての晩餐。

 それは、決して豪華ではなかったけれど、僕の人生で本当に久方ぶりの、心の底から温かいと感じられる、楽しい食事だった。


 食休みの一時。

 揺らぐ炎が、僕たちの顔を柔らかく照らしている。マリーさんとミゲルさんは、今日の馬車での一件を、まだ楽しそうに話していた。

 僕は、そんな和やかな空気の中、ずっと胸に引っかかっていた、あの日の疑問を口にしてみることにした。


「あの……アンリエッタさん」

 僕が改まってそう言うと、不思議そうに小首を傾げる彼女がいた。

「はい、フェリクスさん」

 僕は、自分の甲に宿った痣のようなものを見せる。

 あの黒いオーガとの死闘の後、いつの間にか現れていた紋様が、炎の光を受けて静かに浮かんでいた。

「これ、なんですけど。アンリエッタさんは、何か知りませんか?」

 

「なになに、タトゥーだったりするの?」

 マリーさんが、横から身を乗り出してくる。

「いえ、タトゥーじゃなくて……。黒いオーガとのあの戦いで、ミゲルさんを、マリーさんを救いたいと強く願ったら……何かよく分からない力が湧いてきて。その時に、こいつが蒼く光ったんです」

 

「確かに、あの時のキミ、異常な速さだったわね、本当に一瞬のことだったけど……ミゲル君は何か見た?」

「いえ、私はマリアンヌ殿を庇うことで精一杯でしたから……」

「あ、ありがとう」

 

 僕はもう一度、アンリエッタさんに向き直る。

「アンリエッタさん……。貴女なら知ってるかな、と。この、聖痕(あと)みたいなもの、知りませんか?」


 僕の問いかけに、彼女はゆっくりと首を横に振る。

「私も、知りません。ですが……フェリクスさん、それ、一角獣に見えませんか?」

「うん、僕にもそう見えるよ」

「もし、それが一角獣に纏わる何かだとしたら……。フィンデルの里の長老なら、何かを知っているかもしれません」

「フィンデルの里って、アンリエッタさんの?」

「ええ、そうです……」

 

 ──そんな語らいの時間を、無情に引き裂くは唐突な絶叫。

 夜の闇の向こうから聞こえてきた、甲高い女の悲鳴だった。

「きゃああああっ!」


 僕たちは、弾かれたように立ち上がる。

 村の方角で、いくつもの松明の光が乱暴に揺れ動いているのが、闇の中に飛び込んできた。そこから続く、金属のぶつかり合う音、怒声、そして泣き声。

「ちっ……盗賊か!」

 ミゲルさんが吐き捨てるように、低く呟いた。


 僕たちは、顔を見合わせ頷き合う。

 その刹那には、四人同時に、村へと向かって駆け出していた。


 村は、混沌の渦中真っただ中。

 地に転がる松明の明かりに照らされ、盗賊たちが粗野な笑い声を上げながら、村人たちから食料や金品を奪っている。

 

「さあ、金目のもんはどこだ! 出さねえと、このガキの命はねえぞ!」

 抵抗しようとした村人は容赦なく斬りつけられ、その傍らでは、泣き叫ぶ女性を襲う浅ましき姿までもあった。

「いやぁぁ、やめてぇ」

 夜空に悲しく、助けを求める声が木霊する。


「ミゲルさんは僕と前へ、アンリエッタさんは僕の後方から援護を! マリーさんは遊撃!」

 僕は、瞬時に指示を飛ばす。


 戦端が開かれた。

 先頭に立つ僕の剣が、唸りを上げて、一人の盗賊の剣を弾き飛ばす。がら空きになったその喉元。僕は、剣先を突きつけた。

「……っ!」

 けれど、そこからがどうしても、踏み込めない。

 

 殺せ……! 殺さねば無実な人に害に及ぶ。

 でもこいつは、魔物じゃない。人、なんだ……。人なんだぞ!?

 前世で、人の命を救うことだけを叩き込まれてきた、僕の魂が悲鳴を上げている。

 

「くそっ」

 アンリエッタさんも、同じだった。

 彼女の放つ風の刃は、盗賊たちの服や鎧を切り裂くばかりで、決して、その命を絶つには至らない。僕の師でもあるはずの彼女の魔法にも、致命的なまでに、精彩を欠いていた。


 その戸惑い、逡巡。

『人を殺せない』という、僕たちの致命的なまでの、甘さ。

 それを見逃すほど、相手は素人ではなかったし、善人でもなかった。

 僕が剣を突きつけた男の背後から、もう一人の盗賊が、僕の死角を突き、鋭い短剣を心臓目掛けて、突き出してくる。

 

 バシュッ!

 まさに電光石火の一撃。

 

 僕が躊躇した男の喉元を、背後から回り込んだマリーさんの短剣が、容赦なく、深く切り裂いていた。続けざまに、僕を襲おうとした男の心臓にも、彼女の逆手の短剣が、深々と突き立てられる。

 

 血飛沫を上げた男たちが、目を見開き、どう、と、地面に崩れ落ちてゆく。

 僕が驚いて彼女へ目線を移すと、マリーさんは短剣の血を振り払い、その強い瞳で、僕たちへ射抜くように言った。


「いい、よく聞いて。今の私にとって、あなたたちより大切なモノは、何もないの」

 悲しくも力強い彼女の声が、戦場の喧騒の中に響く。

「だから、私は躊躇しない。相手がたとえ、人であってもね!」

 その言葉は、かつて見知らぬとはいえ人を信じ、仲間と、最愛の弟を失った彼女の、血を吐くような覚悟の叫びだったのだろう。

 

 マリーさんの覚悟に呼応するように、ミゲルさんが動く。

「民を脅かす賊に、情けは無用。……ご主君の、御前を汚すな!」

 彼の剣が、閃光のように煌めく。

 彼の前に立ちはだかった盗賊たちが、悲鳴を上げる間もなく、次々と、血の海に沈んでいった。

 

「くっ、このクソ女が!」

 マリーさんの死角から、投げナイフが音もなく迫る。

 それに気づいたアンリエッタさんが咄嗟に、しかし、明確な意志を持って、マリーさんの前へと手を突き出した。

 

「させません!」

 

 彼女がそう叫んだ瞬間、手のひらに呼応するように、地面から淡い緑色の光を放つ、半透明の枝々が瞬時に編み上げられる。それが美しい『茨の盾』となってナイフを受け止めた。

 キン、と硬質な音を立ててナイフが弾き飛ばされた後、その出所に向かってミゲルさんが駆けていった。

「ありがとう、アンリエッタさん」

「いえ、せめて守るだけでもさせてください」

 

 戦いがひと段落し、生き残った盗賊の一人を、マリーさんが問い詰める。


「ねぇ……お前たち、ただの盗賊じゃないわね? 妙に、連携が取れていたもの。元は冒険者か傭兵か……違う? 誰に雇われたの? 何が目的?」

「ひっ……! し、知らねえ!」

「……そう。なら、いいわ。アンタの代わりはまだいるから」

 マリーさんが血に濡れた短剣の先端を、男の眼球へゆっくりと、近づけていく。

 

「ま、待て! 言う! 言うから! そ、その代わり、命だけは……!」

「わかったわ。二度と、私たちに関わらないと約束するなら、ね」

「や、約束する! どのみちこれを喋ったら、俺はもう、この地にはいられねえ……」

「ふん、大袈裟な。さっさと言いなさい」


 男は、恐怖に顔を歪ませながら、全てを白状した。

 自分たちが、リヨン領主オーギュストに雇われた、元冒険者崩れであることを。

 そして、彼らに与えられた、本当の密命を。


「……リヨンを発った、生意気な金髪の小僧のパーティーを、皆殺しにしろ、と。……た、ただ……」

「ただ、何?」

「うっ」

「早く言いなさい」

 

「……マリアンヌという、緑の髪の、む、胸の大きな女だけは、必ず、無傷で、生け捕りにしろ、と……」

 

 僕を、僕たちを殺せという命令。

 それからの、あまりにも下劣極まりない続き。

 それを聞いた僕の頭の中で、何かが切れそうになる。怒りを通り越して、逆に思考が、氷のように冷えていくような感覚さえあった。隣ではミゲルさんが、その鞘に収めたままの剣を、柄が軋むほどに強く握りしめている。

 そんな僕たちの激情とは対照的に、マリーさんはどこか冷たく、とても凪いだ表情をしていたよ。


 彼女は吐き捨てるように、けれど、その声には、どうしようもないほどの、深い諦観を滲ませて。

 一言、嘆いた。

「……なんて、嫌な世の中なの」

 

 この理不尽な世界で、仲間を守るために、自ら手を汚すことを選んだ彼女だからこそ言える、あまりにも重く、悲しい嘆きだった。

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