第88話 いざ、辺境伯都へ
ガタン、ゴトン……。
辺境伯都へと向かう乗合馬車は相変わらず、容赦のない揺れを僕に伝えてくる。
向かいの席では、マリーさんとアンリエッタさんが何やらひそひそと、楽しそうに話し込んでいた。
どうやらミゲルさんの、あの、あまりにも真面目すぎる忠誠心について、マリーさんが面白おかしく語って聞かせているらしい。
「そうなのよ~、やになっちゃうでしょ?」
「まぁ、そうなんですか?」
アンリエッタさんは、まだ少しだけ戸惑いながらも、マリーさんの話にくすくすと、楽しそうに相槌を打っている。
楽しそうに笑う、美女が二人。なんて華やかなんだろう。
翻って、僕の隣を見てみようか。
ご主君(?)である僕を、いかなる脅威からも守るのだと、微動だにせず、前だけを見据える、巌の騎士(見習い)が一人。
……ミゲルさんは、頼りになる。頼りになるんだけどさ。
何だってこの、記念すべき旅路の第一歩で、僕の隣がミゲルさんなんだろう。おかしいじゃないか。
僕の、羨望混じる視線に気づいたのだろうか。
マリーさんが、僕に笑いかけた。
「フェリクス君。次の休憩地点に着いたら、席替えね」
「え?」
「私とアンリエッタさん、次は、ミゲル君とアンリエッタさん、って組み合わせで順番に隣に座っていくの。せっかくだから、少しでも、皆で親睦を深めていきたいじゃない?」
そんな正論をさ、キラキラとした笑顔で言われてしまえば、僕に反論できるはずも無く。ぐうの音も出なかった。
僕たちの新しい旅は、やっぱり、マリーさんの掌の上で始まるらしい。
僕はほんの少しだけ拗ねた気持ちで、馬車の後ろを流れる景色を眺めていた。
その視界の端で、アンリエッタさんとマリーさんが、花が咲くように、楽しげに笑っている。
「……ご主君」
隣に座る巌さんが、静かに、僕に話しかけてくる。
「はい、なんでしょう?」
「……良い、光景ですね」
彼の視線の先にも、僕と同じように、笑い合う二人の女性の姿が映っているはず。
「本当に。……なんだか夢みたいです。アンリエッタさんがまた、あんな風に笑ってくれて。マリーさんも本当に、楽しそうだし」
僕は心の底から、そう思う。
「そういえば、ミゲルさんは、そういう女性っていないのかな?」
「そういう女性とは、何でしょうか?」
「だから、その……ミゲルさんっぽく言うなら、『お慕いしている女性』だよ」
気が付けば、向かいの席の二人も、興味津々といった様子でミゲルさんの答えを待っていた。
「……いませんね。何分、私は、八歳の頃から小姓として城館で仕えておりましたので」
「ええっ!? 八歳から!? それじゃあ、恋の一つも知らないまま、今まで来たっていうの!?」
僕もアンリエッタさんも、突然の彼女の大きな声に驚き、思わず肩を震わせる。けど、当のミゲルさんは全く動じない様子。それどころか、どこ吹く風といった感じだった。
彼は澄ました顔で、ただ切り返す。
「ほう。そのおっしゃり様ですと、マリアンヌ殿は随分と、色々とご経験されてきたようですな」
「なっ……!?」
マリーさんの勢いが、ぴたりと止まる。
その顔がみるみるうちに、赤く染まっていくぞ。
「ば、馬鹿言わないでよ。私も、そんな、色々ってわけじゃ……ごにょごにょ」
「聞こえませんな」
「うう……」
ミゲルさんすごい。
あのマリーさんを言葉で、完全に黙らせたぞ……!?
僕たちの間に、なんともきまりの悪い沈黙が流れ始める。そんな空気を救ったのは、アンリエッタさんの優しい声だった。
「でも、ミゲルさん。それなら、フェリクスさんのことだけではなくて、ご自分のお相手も、探していかねばいけませんね」
彼女がそう言って柔らかく微笑むと、ミゲルさんは今度こそ、少しだけ照れたように視線を逸らすのだった。なんて、珍しい……。
それから幾許かの時が流れ、ガタガタと揺れ続けていた馬車がゆっくりと速度を落としてゆく。やがて少しの木々と、小さな清流が流れる開けた場所で車輪を止めた。御者が騒々しく休憩を告げる。
僕たちはようやく、容赦のない揺れから解放され、一人、また一人と、馬車から降りていく。僕も早く降りたい。待ちきれないよ。
「ん~~~っ!」
マリーさんが、凝り固まった体をほぐすように、大きく、気持ちよさそうに伸びをしている。大きく上下する懐かしき『たわわ様』にも、気分が悪すぎて……今は何の興味も湧いてこない。
ミゲルさんは、すぐさま周囲を警戒し、危険がないかを確かめている。このあたりはさすが、元騎士見習いと言えるだろう。
僕の隣ではアンリエッタさんが、森から吹いてくる、少しだけ湿った緑の薫りを、気持ちよさそうに浴びていた。
僕はというと、そんな彼女たちの様子を気にする余裕もなく、足早に、その『清流』へと向かうばかり。ああ気持ちが、悪い。馬車を降りたというのにまだ、世界が揺れているようで、どうしようもなく、気持ちが悪かった。
清流のほとりにある、苔むした巨石に、どかりと腰を下ろす。
冷たい水に指先を浸すと、酔った体に、心地よい冷気がじんわりと広がっていくようで気持ちいい。
少々離れ過ぎたせいで、僕の知らない所で小さな、けれど、決して許されざる事件が起きていたのを、僕は気づくことができなかった。
◆ ◆ ◆
馬車に同席していた、他の旅人たちの潜めた声。
それがアンリエッタの、人ならざる長い耳に届いてしまっていた。
「ねえ、この旅、大丈夫? なんだか、嫌な予感がするわ」
「なんでだ?」
「だってほら、あの女性……。あんな真っ黒な髪、私は見たことがないもの。黒は、不吉の色っていうでしょ」
「凄い美人なのにな……気の毒に」
「あなたねえ」
その、心ない言葉に、アンリエッタの楽しそうだった表情が、ふっと消えた。
彼女は何も聞こえなかったかのように、休憩する馬の側へと身を移し、その黒髪を隠すように少しだけ、俯くのだ。草を食む馬へ視線を移す振りをしながら。
固く握りしめられた彼女の白い指先だけが、その心の痛みを物語っていた。
その小さな震えを、見逃す者などいない。
少年の忠臣を自負する、忠魂逞しき青年が、動いた。
ミゲルは何も言わずに、彼女と旅人たちの間に、静かに、けれど、決して越えられない壁を作る。悪意なき誹りを、好奇と欺瞞に満ちた視線を、その広い背中と左腕に持つ大きな盾で、全てを遮るように。
物言わぬ、守護の壁。
アンリエッタは驚いたように、ミゲルを見上げる。
そして、次の瞬間。
彼女はいまだかつて、金髪の少年にしか見せたことのなかった、花の綻ぶような、どこまでも優しい笑みを浮かべた。
彼の騎士にだけ届くように。静かな感謝を込めて。
◆ ◆ ◆
ふと、僕は振り返る。
いつもなら、こんな時、一番に僕を心配して隣に駆けつけてくれる人が、いたはずだから。
そんな僕の目に映ったのは──
ミゲルさんの大きな背中に、守られるようにして立つアンリエッタさんの姿だった。そこで彼女が、ミゲルさんだけに向けていた、柔らかに微笑む姿だったんだ。
僅かに彼女と視線が、絡み合った気がした。
近くて、遠い。
その瞳は心配そうに、こちらを気にしているようで。
けれど、そこには「駆けつけたい」という想いと、「行ってよいのだろうか」という戸惑いの色が、確かに、揺れていたように思う。
……ああ、そっか。
僕はそこで、ようやく、理解したのかもしれない。
彼女はもう、僕の世話をするだけの、使用人じゃないことを。
僕が、ただ甘えていいだけの、お姉さんでもないことも。
マリーさんと、ミゲルさん。僕がこの世界で得た、新しい大切な仲間たち。その輪の中に、彼女は自ら、入っていこうとしてくれているのだと。
僕の側にいつもいるだけではいけないと。契りの円環の一員として、皆と新しい関係を築こうと努力している姿。
……彼女はそういう、気配りができてしまう人だから。
健気で、やっぱり大人びていた彼女の姿に、僕の口からぽつりと、本音がこぼれてしまう。
「……何だか、寂しいな」




