第87話 揃いし時
リヨンの町を包む朝の陽光が、日に日に力強さを増している。
空は突き抜けるように青く、澄み渡る空気の中にも、日中の熱気を予感させる夏の匂いが、確かに混じり始めていた。
僕がいた頃の、あの纏わりつくような湿気た日本の夏とは違う、どこか涼やかな夏の気配が心地よい。だから僕は、この世界の夏が嫌いじゃない。
とはいえ、こういう大事なことを、出発の日の朝に気づいてしまうというのも困ったもの……。
「しまったなぁ」
「何か、忘れものでもされましたか?」
隣を歩くアンリエッタさんが、心配そうに僕の顔を覗き込む。
「僕のもだけど、アンリエッタさんの服、夏物を用意してなかったよ」
途端に、彼女がふわりと顔を綻ばせる。
「まあ……。ですが、昨日いただいた服だけでも、私には勿体ないくらいです。それに、今慌てて揃えても、荷物になるばかりですし。どうか、お気になさらないでくださいね」
「確かにそうだね。どこか、落ち着ける場所を見つけてから、改めて皆の分を揃えたほうがよさそう」
「ですね」
彼女が僕を見つめる瞳は、どこまでも優しい。
……と、思ったのも束の間。アンリエッタさんのその瞳に、いつぞやの妖しい光が宿り始める。その美しい唇の端をくいと吊り上げて。
「それに、夏服は少し露出も増えますから。フェリクスさんのお楽しみが、一つ増えるといったところでしょうか?」
「なっ……!?」
なんということを!
図星、というわけではない。
断じてないけれど、しかし、全く想像しなかったと言えば嘘になる! ふんす!
「そ、そんな不純なこと、考えてません!」
分かりやすい狼狽ぶり。それを彼女は心の底から楽しむように、こう返すのだ。あの時と全く同じ響きで。
「ふぅん」
「あ、また真似して!」
「うふふ、ごめんなさーい」
くすくすと鈴が鳴るように笑う彼女に、僕はもう、降参するしかなかった。
だって、その笑顔が見たかったのだから。
軽い足取りで歩むうち、早くも正門が見えてくる。その下には既に、僕たちの到着を待つ二人の、頼もしい仲間の姿があった。
僕たちに気づいたマリーさんが、大きく手を振るのが見える。
どちらともなく、四つの影は駆け出していた。まるで互いに吸い寄せられるかのように、その距離は瞬く間に縮まっていく。
「……はぁ、はぁ……。もしかして、貴女がアンリエッタさん?」
僕たちの前でようやく足を止めたマリーさんが、僅かに息を切らしながら、アンリエッタさんの顔をじっと見つめている。その瞳には大いなる好奇心と、隠しようもない温かな安堵の色を目いっぱいに浮かべて。
アンリエッタさんは、そんな彼女の視線を真っ直ぐに受け止めると、恭しく、深く、頭を下げた。
「はい。初めまして、マリアンヌさん。ぼっちゃまを……いえ、フェリクスさんを、助けてくださり、本当にありがとうございました」
その、あまりにも真っすぐで真摯な感謝の言葉に、マリーさんが、少しだけ照れたようにはにかむ。
「い、いいのよ、そんな……。こちらこそ、よろしくね。何だかフェリクス君と同じような真っ直ぐさを、貴女には感じるわ」
二人の間に、柔らかな、優しい空気が流れ始める。
「フェリクス君が夢中になっちゃうのも、分かる気がするわね~。私も男だったら、放っておけないかも」
「ちょ、ちょっと止めてくださいよ。そんなんじゃないですから」
「あら、じゃあ何とも思っていないのね?」
「いや、それは……」
くっ、今日のマリーさんは意地悪だ。
そして、何だか楽しそう……。
そんな、僕の狼狽ぶりすら楽しむような温かい空気を切り裂くように。ある意味、期待通りとも言える挨拶が、放たれたよ。
「これはこれは、ご正妻殿」
はい、来ました。
ずれているのに堂々たる声が、温かい空気を無慈悲に切り裂いていく。
気が付けばミゲルさんが、アンリエッタさんの前に恭しく片膝をついていた。
「え……」
「我が主君のお傍に仕える忠実なる家臣、ミゲルにございます。以後、お見知りおきを」
「……ご、せいさい、どの……?」
途端に泳ぎ出す視線。
アンリエッタさんの宝石のような瞳が、助けを求めるように頼りなく揺れる。その視線は僕とマリーさんの間を、まるで寄る辺を失った小舟のように、揺蕩うばかり。
僕の正面では、マリーさんがこめかみを押さえて、深々とため息をついている。
「また、始まったわ。大体君、前は私のことも『奥方』って言ってなかった?」
「マリアンヌ殿は、ご側室ですので、それはそれで間違いありませんね」
「なっ!?」
マリーさんの、今度は怒りに染まった声が、リヨンの空を突き抜ける。
ご、ご側室だって!? ド直球すぎるでしょうに。
「そ、そもそも君は、どうしてそんなにフェリクス君のお嫁さんのことに、拘るのよ?」
皆が感じている、マリーさんの真っ当すぎる問い。それにミゲルさんは心外だ、とでも言わんばかりに眉をひそめてみせる。彼の瞳には一点の曇りもない。あるのはただ、圧倒的とさえ言えるほどの純粋な忠誠心。それ一点のみ。
「……ご主君は必ずや、功成り名を遂げられる御方です。このまま終わろうはずがない。このミゲルには、その未来が、予感がしてならない」
その声はどうしてか、揺るぎない確信に満ちている。
「そのような偉大なる御方の血筋を絶やさぬこと、そして、そのお心を安らげる家庭を築いて差し上げることこそ、臣下としての第一の務め。マリアンヌ殿、当然のことではありませんか」
さも尤もらしく、どこまでも熱く語るミゲルさん。
熱量のこもった熱い言葉の数々にマリーさんが気圧され、言葉に詰まっている。いつもは、あれだけ淀みなく回る彼女の口が、今はただぱくぱくと、声にならない音を紡ぐばかりだった。
命を、騎士としての魂を救われた。その恩を彼は、彼の信じる唯一『忠義』という方法で、僕に返そうとしてくれているのか。たとえ、その方向が、とんでもない斜め上を向いていたとしても。
困ったことに今日、それが、彼なりの最大の感謝の現れなのだと知ってしまった。
「はいはい、ミゲル君のその、熱い想いは分かったから! その話は、また今度」
マリーさんは、半ば強引に会話を打ち切ってしまう。それから、今度は僕たち全員の顔をぐるりと見渡した。
「それで? 私たちはこれから、どこへ向かうの?」
そうだった。僕は改めて、僕たちのこれからを皆に伝えなければならない。
リヨンにはもう、僕たちの居場所はないのだから。
「……僕の、考えを言ってもいいですか?」
三人がこくりと頷く。
僕は、一度、大きく息を吸った。
「どちらにしろ、リヨンからは、しばらく離れたほうがいいと思います。あの領主の権力が、及ばないところまで」
三人の表情が、引き締まるのが分かる。
「ここから馬車で行ける、最も大きな都市……辺境伯都へ、行ってみたい。ここより、ずっと大きな街を見てみたい。依頼も、出会いも、きっと、様々なことが待ち受けていると思うから」
僕の少しだけ夢見がちな、けれど、未来を見据えた提案に、最も早く口を開いたのはマリーさんだった。彼女は楽しそうに、にっと笑う。
「いいんじゃない? 領主の目からも遠く離れられるしね。私は、フェリクス君が決めたことなら、どこへでも行くわよ。もう、帰る家もない、自由な身だもの」
「私も、です。フェリクスさんの、お決めになったところに」
アンリエッタさんも静かに、同意してくれる。
「ご主君の進む道こそが、我らの道です」
ミゲルさんの答えは、言うまでもなかった。
彼のこういうところが、清々しくて好きだ。
さあ僕たちの、進むべき道が決まった。
僕たちはリヨン正門を抜け、辺境伯都方面行きの、乗合馬車の乗り場へと向かう。振り返れば、僕のこの数ヶ月の全てが詰まった辺境の町が、陽光の中に静かに佇んでいた。失ったものと、得たもの。その全てを抱きしめて、僕たちの旅は始まる。
四人分の代金を支払おうと、随分と軽くなってしまった、あの革袋を取り出す。
「まだベルガーさんたちから頂いたお金が残っていますから。ここは、僕に支払わせてください」
「あら、いいの? フェリクス君」
マリーさんが、可愛らしく片目を瞑る。
「はい。今まで、甘えるばかりでしたから」
御者に銀貨を数枚支払い、僕がリヨンに来た時とは比べ物にならないほど、しっかりとした造りの乗合馬車へと乗り込んでいく。
内部は向かい合わせに、それぞれ数人がけの長椅子が設えられている。これなら旅の間も、皆の顔を見ながら話すことができるだろう。
「わ、結構、ふかふかですよ。これなら、フェリクスさんの馬車酔いも、少しはマシかもしれません」
アンリエッタさんが少しだけ嬉しそうに、座席のクッションを確かめている。
確かに、座面には、薄いながらもクッションが敷かれているおかげで、尻が直接、板の硬さに苦しめられることはなさそう。
あの、地獄のような荷馬車とは、大違いだ。
だけど──車輪がゆっくりと、回り始める。
ガタンッ!
車輪が、道の窪みか石ころを拾ったのだろう。下から突き上げるような、容赦のない衝撃が腰から背骨へと駆け抜けた。衝撃を吸収する、板ばねという機構が存在しないのだ。
……あ
その痛烈な一撃で、僕は思い出した。
そして、軽く絶望する。
コンスタンツェ領からリヨンに来る、あの荷馬車ですら、僕は酔ってしまっていたじゃないか。あれより幾分かはマシとはいえ、この揺れで辺境伯都まで、僕の三半規管は果たして、持つのだろうか……。
僕の希望に満ちていた、輝かしい未来への旅路に、早くも暗雲が垂れ込めていく瞬間だった。




