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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第三章 黒が忌諱される理由

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第87話 揃いし時

 リヨンの町を包む朝の陽光が、日に日に力強さを増している。

 空は突き抜けるように青く、澄み渡る空気の中にも、日中の熱気を予感させる夏の匂いが、確かに混じり始めていた。

 僕がいた頃の、あの纏わりつくような湿気た日本の夏とは違う、どこか涼やかな夏の気配が心地よい。だから僕は、この世界の夏が嫌いじゃない。

 

 とはいえ、こういう大事なことを、出発の日の朝に気づいてしまうというのも困ったもの……。

「しまったなぁ」

「何か、忘れものでもされましたか?」

 隣を歩くアンリエッタさんが、心配そうに僕の顔を覗き込む。

 

「僕のもだけど、アンリエッタさんの服、夏物を用意してなかったよ」

 途端に、彼女がふわりと顔を綻ばせる。

「まあ……。ですが、昨日いただいた服だけでも、私には勿体ないくらいです。それに、今慌てて揃えても、荷物になるばかりですし。どうか、お気になさらないでくださいね」

「確かにそうだね。どこか、落ち着ける場所を見つけてから、改めて皆の分を揃えたほうがよさそう」

「ですね」

 彼女が僕を見つめる瞳は、どこまでも優しい。

 

 ……と、思ったのも束の間。アンリエッタさんのその瞳に、いつぞやの妖しい光が宿り始める。その美しい唇の端をくいと吊り上げて。

「それに、夏服は少し露出も増えますから。フェリクスさんのお楽しみが、一つ増えるといったところでしょうか?」

「なっ……!?」

 なんということを!

 図星、というわけではない。

 断じてないけれど、しかし、全く想像しなかったと言えば嘘になる! ふんす!

「そ、そんな不純なこと、考えてません!」


 分かりやすい狼狽ぶり。それを彼女は心の底から楽しむように、こう返すのだ。あの時と全く同じ響きで。

「ふぅん」

「あ、また真似して!」

「うふふ、ごめんなさーい」

 くすくすと鈴が鳴るように笑う彼女に、僕はもう、降参するしかなかった。

 だって、その笑顔が見たかったのだから。

 

 軽い足取りで歩むうち、早くも正門が見えてくる。その下には既に、僕たちの到着を待つ二人の、頼もしい仲間の姿があった。

 

 僕たちに気づいたマリーさんが、大きく手を振るのが見える。

 どちらともなく、四つの影は駆け出していた。まるで互いに吸い寄せられるかのように、その距離は瞬く間に縮まっていく。


「……はぁ、はぁ……。もしかして、貴女がアンリエッタさん?」

 僕たちの前でようやく足を止めたマリーさんが、僅かに息を切らしながら、アンリエッタさんの顔をじっと見つめている。その瞳には大いなる好奇心と、隠しようもない温かな安堵の色を目いっぱいに浮かべて。


 アンリエッタさんは、そんな彼女の視線を真っ直ぐに受け止めると、恭しく、深く、頭を下げた。

「はい。初めまして、マリアンヌさん。ぼっちゃまを……いえ、フェリクスさんを、助けてくださり、本当にありがとうございました」 


 その、あまりにも真っすぐで真摯な感謝の言葉に、マリーさんが、少しだけ照れたようにはにかむ。

「い、いいのよ、そんな……。こちらこそ、よろしくね。何だかフェリクス君と同じような真っ直ぐさを、貴女には感じるわ」

 二人の間に、柔らかな、優しい空気が流れ始める。

「フェリクス君が夢中になっちゃうのも、分かる気がするわね~。私も男だったら、放っておけないかも」

「ちょ、ちょっと止めてくださいよ。そんなんじゃないですから」

「あら、じゃあ何とも思っていないのね?」

「いや、それは……」

 くっ、今日のマリーさんは意地悪だ。

 そして、何だか楽しそう……。

 

 そんな、僕の狼狽ぶりすら楽しむような温かい空気を切り裂くように。ある意味、期待通りとも言える挨拶が、放たれたよ。

「これはこれは、ご正妻殿」

 はい、来ました。

 

 ずれているのに堂々たる声が、温かい空気を無慈悲に切り裂いていく。

 気が付けばミゲルさんが、アンリエッタさんの前に恭しく片膝をついていた。

「え……」

「我が主君のお傍に仕える忠実なる家臣、ミゲルにございます。以後、お見知りおきを」

「……ご、せいさい、どの……?」


 途端に泳ぎ出す視線。

 アンリエッタさんの宝石のような瞳が、助けを求めるように頼りなく揺れる。その視線は僕とマリーさんの間を、まるで寄る辺を失った小舟のように、揺蕩うばかり。

 僕の正面では、マリーさんがこめかみを押さえて、深々とため息をついている。

「また、始まったわ。大体君、前は私のことも『奥方』って言ってなかった?」


「マリアンヌ殿は、ご側室ですので、それはそれで間違いありませんね」

「なっ!?」

 マリーさんの、今度は怒りに染まった声が、リヨンの空を突き抜ける。

 ご、ご側室だって!? ド直球すぎるでしょうに。

「そ、そもそも君は、どうしてそんなにフェリクス君のお嫁さんのことに、拘るのよ?」


 皆が感じている、マリーさんの真っ当すぎる問い。それにミゲルさんは心外だ、とでも言わんばかりに眉をひそめてみせる。彼の瞳には一点の曇りもない。あるのはただ、圧倒的とさえ言えるほどの純粋な忠誠心。それ一点のみ。

「……ご主君は必ずや、功成り名を遂げられる御方です。このまま終わろうはずがない。このミゲルには、その未来が、予感がしてならない」

 その声はどうしてか、揺るぎない確信に満ちている。

「そのような偉大なる御方の血筋を絶やさぬこと、そして、そのお心を安らげる家庭を築いて差し上げることこそ、臣下としての第一の務め。マリアンヌ殿、当然のことではありませんか」


 さも尤もらしく、どこまでも熱く語るミゲルさん。

 熱量のこもった熱い言葉の数々にマリーさんが気圧され、言葉に詰まっている。いつもは、あれだけ淀みなく回る彼女の口が、今はただぱくぱくと、声にならない音を紡ぐばかりだった。


 命を、騎士としての魂を救われた。その恩を彼は、彼の信じる唯一『忠義』という方法で、僕に返そうとしてくれているのか。たとえ、その方向が、とんでもない斜め上を向いていたとしても。

 困ったことに今日、それが、彼なりの最大の感謝の現れなのだと知ってしまった。


「はいはい、ミゲル君のその、熱い想いは分かったから! その話は、また今度」

 マリーさんは、半ば強引に会話を打ち切ってしまう。それから、今度は僕たち全員の顔をぐるりと見渡した。

「それで? 私たちはこれから、どこへ向かうの?」 

 そうだった。僕は改めて、僕たちのこれからを皆に伝えなければならない。

 リヨンにはもう、僕たちの居場所はないのだから。

「……僕の、考えを言ってもいいですか?」


 三人がこくりと頷く。

 僕は、一度、大きく息を吸った。

「どちらにしろ、リヨンからは、しばらく離れたほうがいいと思います。あの領主の権力が、及ばないところまで」

 三人の表情が、引き締まるのが分かる。

「ここから馬車で行ける、最も大きな都市……辺境伯都へ、行ってみたい。ここより、ずっと大きな街を見てみたい。依頼も、出会いも、きっと、様々なことが待ち受けていると思うから」

 僕の少しだけ夢見がちな、けれど、未来を見据えた提案に、最も早く口を開いたのはマリーさんだった。彼女は楽しそうに、にっと笑う。

 

「いいんじゃない? 領主の目からも遠く離れられるしね。私は、フェリクス君が決めたことなら、どこへでも行くわよ。もう、帰る家もない、自由な身だもの」

「私も、です。フェリクスさんの、お決めになったところに」

 アンリエッタさんも静かに、同意してくれる。

「ご主君の進む道こそが、我らの道です」

 ミゲルさんの答えは、言うまでもなかった。

 彼のこういうところが、清々しくて好きだ。

 

 さあ僕たちの、進むべき道が決まった。

 僕たちはリヨン正門を抜け、辺境伯都方面行きの、乗合馬車の乗り場へと向かう。振り返れば、僕のこの数ヶ月の全てが詰まった辺境の町が、陽光の中に静かに佇んでいた。失ったものと、得たもの。その全てを抱きしめて、僕たちの旅は始まる。


 四人分の代金を支払おうと、随分と軽くなってしまった、あの革袋を取り出す。

「まだベルガーさんたちから頂いたお金が残っていますから。ここは、僕に支払わせてください」

「あら、いいの? フェリクス君」

 マリーさんが、可愛らしく片目を瞑る。

「はい。今まで、甘えるばかりでしたから」

 

 御者に銀貨を数枚支払い、僕がリヨンに来た時とは比べ物にならないほど、しっかりとした造りの乗合馬車へと乗り込んでいく。

 内部は向かい合わせに、それぞれ数人がけの長椅子が設えられている。これなら旅の間も、皆の顔を見ながら話すことができるだろう。


「わ、結構、ふかふかですよ。これなら、フェリクスさんの馬車酔いも、少しはマシかもしれません」

 アンリエッタさんが少しだけ嬉しそうに、座席のクッションを確かめている。

 確かに、座面には、薄いながらもクッションが敷かれているおかげで、尻が直接、板の硬さに苦しめられることはなさそう。

 あの、地獄のような荷馬車とは、大違いだ。

 

 だけど──車輪がゆっくりと、回り始める。

 ガタンッ!

 車輪が、道の窪みか石ころを拾ったのだろう。下から突き上げるような、容赦のない衝撃が腰から背骨へと駆け抜けた。衝撃を吸収する、板ばねという機構が存在しないのだ。

 

 ……あ

 その痛烈な一撃で、僕は思い出した。

 そして、軽く絶望する。


 コンスタンツェ領からリヨンに来る、あの荷馬車ですら、僕は酔ってしまっていたじゃないか。あれより幾分かはマシとはいえ、この揺れで辺境伯都まで、僕の三半規管は果たして、持つのだろうか……。


 僕の希望に満ちていた、輝かしい未来への旅路に、早くも暗雲が垂れ込めていく瞬間だった。

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