第85話、私の罪
僕にとっては、天と地ほどの隔たり。或いは互いが、必死に臆病さで積み上げた壁だったのか。
それを、彼女は……まるで悪戯な魔法みたいに、ふっと通り抜けてみせる。
唇に、春の陽だまりのような温もりを乗せて。
触れたかどうかも分からない、ほんの刹那。けれど、その一瞬で、僕の世界は塗り替えられてしまった。僕からでは決して届かなかった答えに、僕の唇は、確かに触れていたのだ。
蘇る、今は遠き日の思い出。あの日あの時と寸分違わぬ言葉が、彼女の薄く端正な唇から囁くように紡がれる。
「ぼっちゃま、まだまだですね〜。火がぜーんぶ消えてしまいましたよ?」と。
可愛すぎて、もう、訳がわからないよ。
僕の長年の想いが、通じていた、ということなのだろうか。
じゃあ、もしかして、僕たちは……両想い、ってこと……?
窓から差し込む銀色の月明かりが、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。
彼女自身、とても気にしているその髪の色は、月光を吸い込むように深く、艶やかだった。それは、僕の魂に刻まれたもう一つの故郷の色。
そう、失われし日本の面影。
他の何にも代えがたい、ただ一つの黒でもあるんだ。
その深淵なる黒が、君の透き通るような白い肌を、さらに際立たせるから。磨き上げられた純白の真珠のように、美しく輝いて見えるよ。
森人の血を半分引くアンリエッタさんは、どこか人間離れした……繊細で、気品に満ちあふれた美しさを持ち合わせている。
僕はその、あまりの美しさに。時が経つのも忘れて、見惚れていた。
アンリエッタ、さん。
僕の心は、もう一度想いを告げて、その答えをはっきりと聞きたい衝動に駆られている。
あの頃とは違うんだ。僕が焦がれるのは、もう、姉や母に似た温もりではない。
一人の男として、貴女の愛が欲しい。その、宝石のような蒼い瞳に、僕だけを映していてほしい。
今なら、行ける気がする。
彼女がくれた口づけの熱が、まだ唇に残っている。それが確かな自信となって、僕の背中を押してくれるから。
だけど、もしもこれが最後になるとしたら──そう思った瞬間、拒絶への恐怖が、鉛のように重い鎖となって足に絡みついた。
希望と絶望の間を、僕の心は振り子のように激しく揺れ動いている。
◆ ◆ ◆ ─ Anrietta side ─
……私、は。なんて、ことを。
お酒の勢いだった、なんて、言い訳にもならない。
いつの間にか芽生え、心の奥底に、固く、蓋をしていた想いが、ほんの少し溢れてしまったの。
いつも、いつも、誰よりも私に真っ直ぐで、優しかった小さな少年。いつの間にか大きく、逞しくなって。
そんな彼が今日、再び私を、絶望の檻から救い出してくれた。私のなかで、日に日に大きくなっていく彼という存在が、また、大きくなってしまう。
この想いを、決して、受け入れてはいけない。
ハーフエルフとして忌み嫌われ、あまつさえ黒い髪を持って生まれてきた私が、どれだけ孤独の影の中を歩み続けてきたか。
もし、人族である彼と……結ばれてしまったら? 生まれてくる子はきっと、同じ呪いの烙印を背負うことになる。
……それだけは、駄目。
この、温かくて、陽だまりのような優しい人に。
まだ見ぬ、我が子に。
私と同じ、呪いを背負わせるわけには、いかないの。
それに……。
あぁ……恥ずかしい。恥ずかしくて、もう、彼の顔が見られない。
どうしよう。どうすればいいの?
今、彼が、何かを伝えようとしている。その言葉を、聞いてしまったら、私は──
それはきっと、この優しい人を深く傷つけることになる。なら……。
ごめんなさい。ぼっちゃま。フェリクス様。
ううん、フェリクス。本当は──。
◆ ◆ ◆ ─ Felix side ─
僕が唇を開こうとした、その時だった。
こてん、とアンリエッタさんの頭が、力なく前へと項垂れる。その体が、船を漕ぐように小さく揺れていた。
「……ん……ごめんなさい。なんだか、凄くねむ、くて……」
か細い寝言のような声はすぐに、すー、すーという穏やかな寝息へと変わる。
「……アンリエッタ、さん?」
僕の呼びかけに、答えはない。
月明かりに照らされたその寝顔は、ひどく、安らかで。
……それでも、その長い睫毛がぴくりと、微かに震えたような気がしたのは、きっと、僕の気のせいだろう。
そっか。初めてのお酒に、色々ありすぎた夜だから。
疲れて、当然だよね。
崩れそうになる彼女の体をそっと、抱きかかえる。腕の中に収まる彼女の体は、驚くほど軽くて。その存在の儚さを物語るかのように。伝わるか細い温もりと、香る、甘い果実のような匂いに、なぜか胸の奥が、ちくりと寂しく痛んだ。
僕は彼女を起こさないように、静かに寝台へと運ぶと、掛け布を華奢な肩まで優しくかけてあげた。
それを掛ける僅かな間。
無防備に晒された彼女の柔らかな膨らみや、僅かに開かれた桜色の唇。手を伸ばせば、すぐにでも触れられてしまう、その全てが……あって。
心の奥に、吐き出せなかった何かが熱い塊となって、つかえている。
腕の中に残る彼女の温もりと甘い香りが、その熱をさらに煽るようだった。焦がれるほど近くにいるのに、その心に、体にさえ指一本触れられない。残酷な夢を見せられているかのような、このもどかしさ。
若さという名の熱病が辛いよ。
けれど今はまだ、この痛みを抱きしめるしかない。僕たちの時間は、始まったばかりなのだと必死で言い聞かせながら。
「アンリエッタさん、おやすみ」
名前を呟いてみても、彼女の瞼は開かない。宝石のような瞳は現れず、少し残念。どこかで期待している自分がいて、何だか可笑しい。
僕は、彼女の月光に透ける黒髪を一度だけそっと撫でると、床へと静かに座り込み、寝台に前のめりにもたれかかった。
やるせなくもあるけど、今日は本当に、幸せな一日だった。
寝るのが惜しいくらいに。
「……また明日も、一緒にいられるんだ」
そう呟きながら、掛け布の上からそっと、彼女の手を探しだす。
その細い手に、僕の手を柔らかく重ね合わせると、僕は満足感に包まれながらゆっくりと眠りへと落ちていった。
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夜天の光が銀の砂のように、部屋へと降り注ぐ。
少年の無垢な寝息だけが、その静寂に溶けていた。
やがて、閉ざされていたアンリエッタの睫毛が、蝶の翅のように微かに震える。
そうして開かれた青金石の瞳は、はじめから悲しみの色に濡れていた。彼の幸せそうな寝顔を見つめるほどに、自分の罪を思い知るかのように。
そして、祈りのようでもあり、諦めのようでもあった囁きが、閑寂にひとつ。
「……ごめんなさい」
銀光が、彼女の頬を伝う一筋の雫を照らし出す。
それは、彼女がたった今、その手で殺した、ささやかな未来の欠片。




