第79話 金貨百枚の重み
朝一番、僕たちは冒険者ギルドの受付カウンターに立っていた。
目的はただ一つ。アンリエッタさんを取り戻すための、最後の金貨一枚を稼ぎ出すために。
「シモーヌさん、おはようございます。早速ですが、何か良い依頼はありませんか? 出来れば今日一日で、金貨一枚以上稼げるものが良いのですが」
僕の声に、カウンターの向こうでシモーヌさんが、ひどく申し訳なさそうな顔で眉を下げる。
「……ごめんなさい、フェリクス君、アンちゃん。そのことなんだけど……。『契りの円環』には、しばらく依頼を受けさせないようにって、上から指示が出ていて」
「どういうことですか! 今までそんなこと、一度だってなかったじゃないですか」
僕の語気が思わず荒くなる。
隣にいたマリーさんが、僕の肩をそっと押さえてくれるけど、降ってわいたような理不尽な対応への怒りで、もうどうしようもなかった。
「おい、お前ら。あまりシモーヌを困らせてやるな」
奥から聞き慣れた声が飛んでくる。査定窓口のスクルさんだった。彼はやれやれと首を振りながら、僕たちの方へとやってくる。
「スクルさん!」
「お前ら、何かやらかしたのか?」
スクルさんは、低い声で続ける。
「どうも領主筋から、お前らに一切の仕事を斡旋するなと、圧力がかかってるらしいぞ。冒険者ギルドは独立した組織だが、領主様の強いご意向となれば、無下にもできん。……マスターも対策を講じてはいるが、ことを穏便に運ぶためだ。しばらくは、お前たちに依頼は出せねえ。そういうこった」
スクルさんの言葉が、巨大な鉄槌のように僕の頭を殴りつける。
くっ、昨日の謁見で……早速嫌がらせをしてきたと?
目の前が、ぐらりと揺れた。
昨日、アンリエッタさんが己の自由と引き換えに託してくれた温かい光が、たった一晩で、あの矮小な男のドス黒い悪意によって、踏みにじられていくのが堪らない。
「……あの男……っ! そこまで、やるっていうの!?」
マリーさんが怒りに震える声で、低く呻いた。その指先がカウンターの縁を、白くなるほど強く握りしめている。彼女の隣でミゲルさんもまた静かに、けれど心の底からの侮辱を込めて、吐き捨てるように言った。
「なんと、狭量な。あのような男がリヨンの領主とは」
仲間たちの怒りの声が、凍てつきかけた僕の思考を揺さぶる。
……そうだ。僕だけが、ここで膝を折っている場合じゃない。
けど……。
あと、たった金貨一枚だったんだぞ?
これが、権力に楯突くということか。怒りを通り越した、どうしようもない無力感が、鉛のように心を蝕んでいく。
そんな時だった。
背後から僕の肩を掴む、ごつい手があったのは。
「フェリクス、どうした」
「え……ベルガーさん、どうしてここに?」
振り返ると、そこには亡き父の友人が、どこか気まずそうな面持ちで立っている。
「すまんな、フェリクスに用があってギルドに赴いたら、丁度お前たちの声が聞こえちまって。……それにしてもフェリクス、昨日は、すまなかった」
この人に謝られる筋合いは……ない。
昨日のことは、この人が悪いわけじゃない。
「いえ……」
「で、依頼が受けれないと聞こえたが、一体どういうことだ」
ベルガーさんの問いに、僕は力なく状況を説明する。
あと金貨一枚が足りないこと。それから領主からの圧力で、その一枚を稼ぐための依頼すら受けられなくなったことを。
「おい、それは確かか?」
今度はベルガーさんが、シモーヌさんを問い詰める。
突然現れたリヨンの騎士隊隊長に、こくこくと頷くばかりのシモーヌさんがいた。
確認を終えたベルガーさんは、どこか呆れたように大きなため息を吐く。
「なるほどな。ところでフェリクス、昨日言っていた『離散した家族』ってのは、あの使用人の嬢ちゃんのことだろ?」
「……! どうして、それを」
「昨日、お前自身が言っただろうが。報奨金を当てにしていた、とな。お袋さん以外となると……あの娘しかいないはずだ。それともまさかお前……あの婆さんの方だって言うのか?」
「ち、違いますよ。オデットさんはご家族の元へ帰られましたから……」
「そうか」
そこでベルガーさんの顔が、みるみるうちに険しくなる。
「ちっ……それにしても、あの男め」
彼は、そう悪態をつくと、今度は面白いことでも思いついたかのように、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「まあいい。そうか、あと一枚か。……フェリクス、よかったな。ここに丁度金貨四枚と少しがあるぞ?」
そう言って彼は懐から、ずしりと重そうな革袋を取り出す。
「ベルガーさんが、どうしてお金を……?」
僕の頭は、目まぐるしく変わる状況に、混乱するばかり。
「この金はな、城館で働く騎士や従騎士、見習いたち……そういえば兵卒や門番もいたな。皆で、少しずつ出し合った金だ」
ベルガーさんの言葉に、僕は息を呑む。
騎士に、従騎士……兵卒に、門番まで?
父さんは……こんなにも、皆から慕われていたのか。
「そ、そんな大事なお金、受け取れませんよ!」
「ほう、それは困ったな」
ベルガーさんはわざとらしく唸ると、再び悪戯っぽく口の端を吊り上げる。
「──では言い方を変えようか。これは、アドリアンへの手向けと、そこのミゲルの治療代だと思え」
「いや、でも……!」
「ミゲルを治してくれたのは、お前だろう?」
僕が何かを言い募る前に、それまで脇で静かに様子を見守っていたミゲルさんが、すっと近づく。それから真っ直ぐな瞳で、ベルガーさんを見据えた。
「そうです。私はご主君に、この肉体だけではない、その全てを救われました」
ミゲルさんが、僕の隣で深く頭を下げている。
「ご主君、か。いい身分だな、お前は……」
ベルガーさんは、どこか羨ましそうに呟くと、今度はミゲルさんの肩を、バンと力強く叩いた。
「なに、こいつはな、この俺様のお気に入りだったんだ。治してくれてありがとうな、嬉しかったぜ。だから、これはその治療費も兼ねてる。ごちゃごちゃ言わずに受け取れ」
ぶっきらぼうな物言いだったけど、その瞳の奥には、ミゲルさんが回復したことへの、偽りのない喜びが多分に混ざっている。
「それにだ、これで足りるんだろう? アドリアンの友として、これくらいさせてくれや、なあ、おい」
その一言と共に、ベルガーさんの分厚い手のひらが、今度は僕の背中を、バシンと強く叩いた。
槌のような腕で叩かれると……普通に痛い。
おまけに、ベルガーさんから半ば強引に握らされた革袋が、ずしりと重かった。
それは硬貨の重さだけじゃない。父と、父の仲間たちの、温かい想いの重さも合わさっていて。心にずしりと響く。
僕がこれを受け取ってしまって、本当にいいのだろうか……。
僕の逡巡を見透かしたように、マリーさんが背中を、優しく押してくれた。
「甘えちゃいなさいよ。ほら、行ってきなさい」
「ご主君の普段の行いの賜物かと。我々に、遠慮なさることはありません」
二人の、どこまでも真っ直ぐな瞳に見つめられて、僕の最後の躊躇いが、氷解していく。
みんな……ありがとう。
「……マリーさん、ミゲルさん、ベルガーさん。本当に、ありがとう」
感謝を伝えた僕の声は、自分でも気づかぬうちに、少しだけ震えている。
「じゃあ、決まりね! フェリクス君は、今すぐアイツの所へ行って、アンリエッタさんを迎えに行きなさい。ほら、行った行った」
彼女の言葉に、僕は呆然と立ち尽くす。
え? 今すぐ……?
もうすぐアンリエッタさんに、会える……?
長かった旅路の終わりが、あまりにも唐突に訪れて、その事実を、うまく飲み込めないでいる。
そんな僕の傍で、ミゲルさんが静かに、けれど確かな意志を込めて言った。
「ではマリアンヌ殿、我々は荷造りでも続けますか」
「そうね。四人揃ったわ。でも、荷造りが遅れてってのも洒落にならないし。明日の朝、正門に集合。そうしましょう。今日は、二人でゆっくり過ごしなさい。私たちは邪魔しないから」
何だか、最後。
本当に少しだけ、マリーさんの笑顔が寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか……。




