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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
二章 取り戻すために

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第77話 手折らせない、花

 彼女の悲鳴にも似た声が、僕の思考を焼き切った。

 ──世界から音が消え、男の下卑た笑みだけが大きく、歪んで映る。衣の隙間から滑り込ませた手を引き抜くと、僕たちの抵抗を心底楽しむかのように、歪んだ三日月の弧をその唇に描く。


 煮え滾る僕の殺意すらを、男はまるで、取るに足らぬ虫けらの抵抗とでも言うように、鼻で笑う。

 

「どうだ、フェリクスとやら。悪い話ではあるまい。離散した家族を取り戻したいというお前の望みと、他人の女。よくよく考えることだ。まあ、考えるまでもないだろうがな」

 奴はそう言うと、マリーさんの抵抗をあざ笑うかのように、その分厚い手のひらを彼女の胸へと再び伸ばす。今度は、服の上からでも分かるほどに強く握り込まれ、柔らかなそれが無慈悲に歪む。

 

 それからその手で、抵抗する彼女の顎を無理やり持ち上げさせると、逃れられないマリーさんの耳元に顔を寄せ、蛇が這うような声で囁いた。

「今宵、儂の名を呼ばせてやろう。……あるいは、其方の甘い声を、儂に聞かせるがいい」

 

 彼女の喉から、声にならない、圧し殺したような息が漏れる。その顔は蒼白になり、唇が僅かに震えていた。

「っ、……お戯れを」

 懸命に耐えようとする彼女の声。

 健気な姿。

 その痛々しさが、僕の心の最後の(たが)を弾き飛ばす。

 

 カツン、と。

 僕の革靴が、静まり返った謁見の間に、ただ一つの乾いた音を立てる。

 思うより早く、僕の体が動いていた。大切な女性(ひと)を弄ぶ卑しい腕を、骨が軋むほどの力で掴み上げる。鉄の枷にも似た感触。

 そのまま、力任せに引き剥がす。

 そして、彼女を背に庇うようにして、奴との間に割り込んだ。


 ただでさえ冷たい謁見の間の空気が、肌を刺すように凍り付いたのが分かる。

 それでもだ、彼女を引き渡すという選択肢など、僕には、もとより存在しない。目の前で彼女が蹂躙されるなど、決して許しはしない。

 たとえそれが、領主という存在であっても。


 奴の、歪んでいたはずの唇から、ふっと笑みが消える。

「……ほう。許しがたい態度だな、貴様」

「お断りします」

 

 僕の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だったと思う。

「彼女は、物ではありません。金でやり取りされるような存在でもない。僕の、かけがえのない大切な仲間であり、女性です」


 僕の背後で、マリーさんが、はっと息を呑む気配がした。

 その小さな音に僕は問う。なぜ、驚く必要がある、と。

 そうか……彼女は、本気で思っていたのかもしれない。絶対的な権力者を前にして、僕が、貴女を差し出すのが当然だと。この、理不尽な世界では、それが当たり前の選択なのだと。

 渡す訳ないじゃないか、酷いよマリーさん。

 相手が権力者であっても、領主という存在であっても。

 譲れないものがあるんだ。

 

 隣ではミゲルさんが何時でも剣を抜けるよう、踵を僅かに浮かせ、その重心を気取られぬ程度前へ預けているのが分かった。言葉ではなく、その静かな覚悟で示された彼の『答え』が、僕の心をどうしようもなく温かくする。


 その場の全ての視線が、僕一人に突き刺さる。そんな張り詰めた空気の中、僕は目の前の男から、決して視線を逸らさない。


 僕たちの無言の抵抗を、心底楽しむかのように、奴の唇が歪んだ三日月のように弧を描く

「……面白い。このリヨンで、儂にそのような口を利いた者は小僧、お前が初めてだ。その言葉の重み、その身をもって知ることになるぞ。くくく」

 奴の瞳の奥に冷たい光が宿る。それは言葉以上の、明確な敵意。

 早く、この場から離れたほうがいい。僕の本能が警鐘を鳴らし続けている。

「では、これにて失礼いたします」

「楽しみにしておくことだ。くっくく……」

 

 僕たちは踵を返し、一刻も早くこの空間から逃れるように、扉へと歩き出した。扉が閉ざされるその瞬間まで。奴の得物を見定めるような冷たい視線が、僕の背中に突き刺さっているのを感じながら。

 

 やっと、謁見の間の扉が、僕たちの背後でゆっくりと閉ざされていく。一つの世界との決別を告げるかのように、重々しく。

 その音が完全に消えた時、僕は今まで押し殺していた息を、ようやく細く長く吐き出すことができた。

 ……ふぅ。衛兵を、呼ばれなくてよかった。

 ここは、知った顔が多すぎる。

 

 リヨンの喧騒の中へと戻る道すがら、重く垂れ込めていた沈黙を破ったのは、ため息ではなくて、

「……信じられない」と言う、マリーさんのか細く、震える声だった。

 まるでまだ、あの卑しい手の感触が残っているかのように、彼女は自らの胸元を無意識に押さえている。

 

「……女性の肌に、平気で指一本触れておいて……。挙句、私に仕えろ、ですって? あれが……人の上に立つ者の、することなの?」

 彼女の痛々しい姿に、僕の中で一度は抑えたはずの怒りが、再び、黒い炎のように燃え上がる。

 彼女の足取りは、石畳を苛むように速く、硬かった。


 しばらく無言で歩いた後、僕は、やり場のない怒りを鎮めるように、隣を歩くミゲルさんへと、ぽつりと問いかけた。

「ミゲルさん、よくあんな奴に仕えられていましたね。僕には到底無理です」

「いえ、私はまだ見習いでしたから、直接お目にかかることはなかったのです」

 そうか……。騎士見習いだった彼はまだ、あの男の腐りきった本性を、知らずに済んでいたのか。

 父さんは、どうだったのだろう……。

 もし生きていたのなら、聞いてみたい心境だった。


 僕がそんなことを考えていると、沈黙していたマリーさんが吐き捨てるように言った。余程。腹に据えかねたのだろう。

「あの男。私のことを、本気で娼婦か何かと……」

 その声は怒りというより、凍てつくような侮蔑の色を帯びていた。言葉の先を続けるのも悍ましい、とでも言うように。

 隣で、ミゲルさんが静かに固く応える。

「……言語道断。あのような輩に、マリアンヌ殿に指一本触れさせるわけには参りません。それこそ、我が主君の望むところ」


 彼の言葉に、凍てついていたはずのマリーさんの表情が、僅かに揺らぐ。彼女は僕の顔を覗き込み、その声は、いつものような軽口ではなく、囁くようにか細い。

「……本当に、そうなの?」

 その緑の瞳は、僕の答えを求めるように、ただ真っ直ぐに僕を射抜いている。


「いや、そりゃ、ああいうのは、許せないのが普通というか、何というか」

 僕が必死にしどろもどろの説明をしようとするも、マリーさんは組んでいた腕を、そっと解く。

 先ほどまでの険しい眼差しはどこにもない。

 ただ、僅かに潤んだ瞳で、僕の言葉を待っている。

 

「……こんな時くらい、聞かせてくれても、いいじゃない」

 普段見せない、彼女の姿がそこにあった。

 女性としての、ほんの少しの弱さと甘えが滲み出たような声。隣では、僕に全ての責務を押し付けるかのような、ミゲルさんの真剣な眼差し。

(裏切った相棒(ミゲルさん)が悪い……!)

 

 四面楚歌に追いつめられた僕は、もう、どうにでもなれと叫んでしまう。


「ええ、そうです。貴女が、あんな風にされるのを見るのは……我慢が、ならなかったんです! あんな奴に、くそっ」

 僕の叫び声が、リヨンの青空に虚しく吸い込まれていく。

 なんで、僕が……天下の往来で、こんな台詞を叫ばなきゃならないんだあああっ! この場の誰よりも常識的なはずの僕なのにぃぃぃ。

 ってこれ、知らない人が聞いたら、まるで僕が嫉妬しているみたいじゃないか。うう、恥ずかしすぎる。

 

 シン、と。

 僕たちの周りだけ、市場の喧騒が嘘のように遠ざかった気がした。

 僕の言葉の意味をどう受け取ったのか。マリーさんの顔が首筋から、ぼっと音を立てるかのように耳まで真っ赤に染まっていく。

 そして、その隣で。

 ミゲルさんがポン、と一つ柏手を打った。


「なるほど」

 何が、なるほどだよ!

「どちらにせよこれで、ご主君の想いがはっ……」

「わーわーわー! もういいです、ミゲルさん! その話は終わり!」

 だめだ、このままではミゲルさんが、とんでもないことを言い出すぞ。

 話題を変えなければ。


「そ、そんなことより、まだ仮定の話なんですけど」

 僕が半ば強引にそう切り出すと、二人の視線が僕へと集まった。心なしか、マリーさんの顔はまだ随分と赤い。

「もし、アンリエッタさんを取り戻せたら……僕たち、リヨンを離れませんか。今回の件で、あの男の明確な『敵』になったようですから」


 僕の、揺るぎない響きを持った提案に、マリーさんは一度、固く目を閉じると、全てを振り払うかのように、大きく息を吐いた。

「……そうね。私も、同じことを考えていたわ」

 

「そんなに簡単に決めちゃっていいのですか?」

 マリーさんはどこか吹っ切れたような眼差しで、僕を見つめ返す。

「あんな男の領地で、息を潜めて暮らすなんて冗談じゃないわ。それとも、私にあいつの女になれっていうの? そんなのごめんだわ」

 

「……そんなの、僕だって嫌ですよ」

 マリーさんはゆっくりとこちらへ身を寄せると、表情をふわりと解いて、潤んだ瞳で僕を見つめる。

「ふふ……」

 彼女は愛おしいものに触れるかのように、僕の腕にその身を預け、ぎゅっとしがみついた。

 

 腕に伝わる彼女の確かな温もりと、ふわりと香る甘い匂い。その全てが僕の心に燻っていた最後の迷いを、綺麗さっぱり消し飛ばしていく。心臓が、馬鹿みたいにうるさいことになど気づきもせずに。

 大きな緑の瞳に宿った、どこまでも真っ直ぐな光を前にすれば、僕が抱えていたちっぽけな羞恥心など、どうでもよくなってしまうよ。

 

 彼女はその視線を、今度はミゲルさんへと向ける。

「当然、ミゲル君も来るわよね?」

「愚問ですね。ご主君の向かう所が、私が赴くべき場所です」

 

 ミゲルさんの揺るぎない答えに、満足げに頷く彼女。

 最後に、僕へと向き直った。

「じゃあ、フェリクス君」

「はい」

「今、全部でいくらあるの? 今回の報奨金、減らされちゃったでしょ?」

「僕の部屋で、一旦数え直しましょうか」

「そうね、それがいいわ。足りないなら、あと幾ら必要なのか、はっきりさせましょうよ。私たちもそれに合わせて、荷造りしないとね」

 

 僕たちは顔を見合わせ頷き合うと、そのままギルドの二階にある僕の部屋へと向かった。

 殺風景な部屋の中央、小さな木のテーブルの上に、有り金を全てぶちまける。ジャラジャラと乾いた音を立てて転がる金貨や銀貨。それは僕たちがこの数ヶ月、血と汗を流して手にした、想いの結晶そのもの。


「えっと、まず今日の報奨金が金貨三十枚ですね。それと冒険者ギルドからの特別手当が金貨五枚になります」

「さ、三十枚……。まさかの半額じゃないの。あの領主、なにからなにまでクズね」

「まあまあマリアンヌ殿、ここはギルドの二階です。あまり大きな声は……」

「そうなんだけどさぁ……ぶつぶつ」

 ミゲルさん、あなた、猛獣使いの才能があるのかもしれません。


「で、僕の手持ち全てが金貨四十八枚。……全部合わせて、金貨八十三枚です」

 僕がそう告げると、部屋に重すぎる沈黙が落ちた。

「あと、十七枚か……」

 マリーさんが、絞り出すように呟く。

「ん~、何とかしてあげたいけど、さすがに十七枚は、今の私には無理ねえ」

「いえ、そのお気持ちだけで、ありがたいですよ」


「その、アンリエッタ殿は、誰か別の方に契約されてしまうと、もう取り戻せなくなると伺いましたが」

 ミゲルさんの真剣な問いに、僕は頷く。

「一度契約が結ばれてしまえば、それが切れるまでは手出しできないようですね」

「では、何としても急がねばなりませんね」

「……ええ」


 そんな僕たちの、か細い希望を断ち切るかのように。

 コンコンと、部屋の扉が控えめに叩かれた。

 こんな時間に誰だろう? 

 冒険者ギルドの二階にある僕の部屋を訪ねてくる者など、まずいない。

 まさか、早速領主からの嫌がらせが?

 僕たち三人は、思わず顔を見合わせてしまう。


「はい、どなたですか?」

「ああ、夜分にすまないな。ロルフだ」


 その名を聞いた瞬間、僕の心臓が、どくんと大きく跳ねた。

 血の気が、さっと引いていくのが分かる。

 指先が、冷たい……ほどに。

 なぜ、あいつがここに? まさか……アンリエッタさんの、契約が……決まってしまったのか? その、最悪の知らせを、わざわざ伝えに……?


「だ、大丈夫? フェリクス君、顔が真っ青よ」

 僕の異変に気づいたマリーさんが、心配そうに僕の顔を覗き込む。

「……商人ギルドの、使いが来たみたいです」

「え、このタイミングで? うそでしょ……」

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