第77話 手折らせない、花
彼女の悲鳴にも似た声が、僕の思考を焼き切った。
──世界から音が消え、男の下卑た笑みだけが大きく、歪んで映る。衣の隙間から滑り込ませた手を引き抜くと、僕たちの抵抗を心底楽しむかのように、歪んだ三日月の弧をその唇に描く。
煮え滾る僕の殺意すらを、男はまるで、取るに足らぬ虫けらの抵抗とでも言うように、鼻で笑う。
「どうだ、フェリクスとやら。悪い話ではあるまい。離散した家族を取り戻したいというお前の望みと、他人の女。よくよく考えることだ。まあ、考えるまでもないだろうがな」
奴はそう言うと、マリーさんの抵抗をあざ笑うかのように、その分厚い手のひらを彼女の胸へと再び伸ばす。今度は、服の上からでも分かるほどに強く握り込まれ、柔らかなそれが無慈悲に歪む。
それからその手で、抵抗する彼女の顎を無理やり持ち上げさせると、逃れられないマリーさんの耳元に顔を寄せ、蛇が這うような声で囁いた。
「今宵、儂の名を呼ばせてやろう。……あるいは、其方の甘い声を、儂に聞かせるがいい」
彼女の喉から、声にならない、圧し殺したような息が漏れる。その顔は蒼白になり、唇が僅かに震えていた。
「っ、……お戯れを」
懸命に耐えようとする彼女の声。
健気な姿。
その痛々しさが、僕の心の最後の箍を弾き飛ばす。
カツン、と。
僕の革靴が、静まり返った謁見の間に、ただ一つの乾いた音を立てる。
思うより早く、僕の体が動いていた。大切な女性を弄ぶ卑しい腕を、骨が軋むほどの力で掴み上げる。鉄の枷にも似た感触。
そのまま、力任せに引き剥がす。
そして、彼女を背に庇うようにして、奴との間に割り込んだ。
ただでさえ冷たい謁見の間の空気が、肌を刺すように凍り付いたのが分かる。
それでもだ、彼女を引き渡すという選択肢など、僕には、もとより存在しない。目の前で彼女が蹂躙されるなど、決して許しはしない。
たとえそれが、領主という存在であっても。
奴の、歪んでいたはずの唇から、ふっと笑みが消える。
「……ほう。許しがたい態度だな、貴様」
「お断りします」
僕の声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だったと思う。
「彼女は、物ではありません。金でやり取りされるような存在でもない。僕の、かけがえのない大切な仲間であり、女性です」
僕の背後で、マリーさんが、はっと息を呑む気配がした。
その小さな音に僕は問う。なぜ、驚く必要がある、と。
そうか……彼女は、本気で思っていたのかもしれない。絶対的な権力者を前にして、僕が、貴女を差し出すのが当然だと。この、理不尽な世界では、それが当たり前の選択なのだと。
渡す訳ないじゃないか、酷いよマリーさん。
相手が権力者であっても、領主という存在であっても。
譲れないものがあるんだ。
隣ではミゲルさんが何時でも剣を抜けるよう、踵を僅かに浮かせ、その重心を気取られぬ程度前へ預けているのが分かった。言葉ではなく、その静かな覚悟で示された彼の『答え』が、僕の心をどうしようもなく温かくする。
その場の全ての視線が、僕一人に突き刺さる。そんな張り詰めた空気の中、僕は目の前の男から、決して視線を逸らさない。
僕たちの無言の抵抗を、心底楽しむかのように、奴の唇が歪んだ三日月のように弧を描く
「……面白い。このリヨンで、儂にそのような口を利いた者は小僧、お前が初めてだ。その言葉の重み、その身をもって知ることになるぞ。くくく」
奴の瞳の奥に冷たい光が宿る。それは言葉以上の、明確な敵意。
早く、この場から離れたほうがいい。僕の本能が警鐘を鳴らし続けている。
「では、これにて失礼いたします」
「楽しみにしておくことだ。くっくく……」
僕たちは踵を返し、一刻も早くこの空間から逃れるように、扉へと歩き出した。扉が閉ざされるその瞬間まで。奴の得物を見定めるような冷たい視線が、僕の背中に突き刺さっているのを感じながら。
やっと、謁見の間の扉が、僕たちの背後でゆっくりと閉ざされていく。一つの世界との決別を告げるかのように、重々しく。
その音が完全に消えた時、僕は今まで押し殺していた息を、ようやく細く長く吐き出すことができた。
……ふぅ。衛兵を、呼ばれなくてよかった。
ここは、知った顔が多すぎる。
リヨンの喧騒の中へと戻る道すがら、重く垂れ込めていた沈黙を破ったのは、ため息ではなくて、
「……信じられない」と言う、マリーさんのか細く、震える声だった。
まるでまだ、あの卑しい手の感触が残っているかのように、彼女は自らの胸元を無意識に押さえている。
「……女性の肌に、平気で指一本触れておいて……。挙句、私に仕えろ、ですって? あれが……人の上に立つ者の、することなの?」
彼女の痛々しい姿に、僕の中で一度は抑えたはずの怒りが、再び、黒い炎のように燃え上がる。
彼女の足取りは、石畳を苛むように速く、硬かった。
しばらく無言で歩いた後、僕は、やり場のない怒りを鎮めるように、隣を歩くミゲルさんへと、ぽつりと問いかけた。
「ミゲルさん、よくあんな奴に仕えられていましたね。僕には到底無理です」
「いえ、私はまだ見習いでしたから、直接お目にかかることはなかったのです」
そうか……。騎士見習いだった彼はまだ、あの男の腐りきった本性を、知らずに済んでいたのか。
父さんは、どうだったのだろう……。
もし生きていたのなら、聞いてみたい心境だった。
僕がそんなことを考えていると、沈黙していたマリーさんが吐き捨てるように言った。余程。腹に据えかねたのだろう。
「あの男。私のことを、本気で娼婦か何かと……」
その声は怒りというより、凍てつくような侮蔑の色を帯びていた。言葉の先を続けるのも悍ましい、とでも言うように。
隣で、ミゲルさんが静かに固く応える。
「……言語道断。あのような輩に、マリアンヌ殿に指一本触れさせるわけには参りません。それこそ、我が主君の望むところ」
彼の言葉に、凍てついていたはずのマリーさんの表情が、僅かに揺らぐ。彼女は僕の顔を覗き込み、その声は、いつものような軽口ではなく、囁くようにか細い。
「……本当に、そうなの?」
その緑の瞳は、僕の答えを求めるように、ただ真っ直ぐに僕を射抜いている。
「いや、そりゃ、ああいうのは、許せないのが普通というか、何というか」
僕が必死にしどろもどろの説明をしようとするも、マリーさんは組んでいた腕を、そっと解く。
先ほどまでの険しい眼差しはどこにもない。
ただ、僅かに潤んだ瞳で、僕の言葉を待っている。
「……こんな時くらい、聞かせてくれても、いいじゃない」
普段見せない、彼女の姿がそこにあった。
女性としての、ほんの少しの弱さと甘えが滲み出たような声。隣では、僕に全ての責務を押し付けるかのような、ミゲルさんの真剣な眼差し。
(裏切った相棒が悪い……!)
四面楚歌に追いつめられた僕は、もう、どうにでもなれと叫んでしまう。
「ええ、そうです。貴女が、あんな風にされるのを見るのは……我慢が、ならなかったんです! あんな奴に、くそっ」
僕の叫び声が、リヨンの青空に虚しく吸い込まれていく。
なんで、僕が……天下の往来で、こんな台詞を叫ばなきゃならないんだあああっ! この場の誰よりも常識的なはずの僕なのにぃぃぃ。
ってこれ、知らない人が聞いたら、まるで僕が嫉妬しているみたいじゃないか。うう、恥ずかしすぎる。
シン、と。
僕たちの周りだけ、市場の喧騒が嘘のように遠ざかった気がした。
僕の言葉の意味をどう受け取ったのか。マリーさんの顔が首筋から、ぼっと音を立てるかのように耳まで真っ赤に染まっていく。
そして、その隣で。
ミゲルさんがポン、と一つ柏手を打った。
「なるほど」
何が、なるほどだよ!
「どちらにせよこれで、ご主君の想いがはっ……」
「わーわーわー! もういいです、ミゲルさん! その話は終わり!」
だめだ、このままではミゲルさんが、とんでもないことを言い出すぞ。
話題を変えなければ。
「そ、そんなことより、まだ仮定の話なんですけど」
僕が半ば強引にそう切り出すと、二人の視線が僕へと集まった。心なしか、マリーさんの顔はまだ随分と赤い。
「もし、アンリエッタさんを取り戻せたら……僕たち、リヨンを離れませんか。今回の件で、あの男の明確な『敵』になったようですから」
僕の、揺るぎない響きを持った提案に、マリーさんは一度、固く目を閉じると、全てを振り払うかのように、大きく息を吐いた。
「……そうね。私も、同じことを考えていたわ」
「そんなに簡単に決めちゃっていいのですか?」
マリーさんはどこか吹っ切れたような眼差しで、僕を見つめ返す。
「あんな男の領地で、息を潜めて暮らすなんて冗談じゃないわ。それとも、私にあいつの女になれっていうの? そんなのごめんだわ」
「……そんなの、僕だって嫌ですよ」
マリーさんはゆっくりとこちらへ身を寄せると、表情をふわりと解いて、潤んだ瞳で僕を見つめる。
「ふふ……」
彼女は愛おしいものに触れるかのように、僕の腕にその身を預け、ぎゅっとしがみついた。
腕に伝わる彼女の確かな温もりと、ふわりと香る甘い匂い。その全てが僕の心に燻っていた最後の迷いを、綺麗さっぱり消し飛ばしていく。心臓が、馬鹿みたいにうるさいことになど気づきもせずに。
大きな緑の瞳に宿った、どこまでも真っ直ぐな光を前にすれば、僕が抱えていたちっぽけな羞恥心など、どうでもよくなってしまうよ。
彼女はその視線を、今度はミゲルさんへと向ける。
「当然、ミゲル君も来るわよね?」
「愚問ですね。ご主君の向かう所が、私が赴くべき場所です」
ミゲルさんの揺るぎない答えに、満足げに頷く彼女。
最後に、僕へと向き直った。
「じゃあ、フェリクス君」
「はい」
「今、全部でいくらあるの? 今回の報奨金、減らされちゃったでしょ?」
「僕の部屋で、一旦数え直しましょうか」
「そうね、それがいいわ。足りないなら、あと幾ら必要なのか、はっきりさせましょうよ。私たちもそれに合わせて、荷造りしないとね」
僕たちは顔を見合わせ頷き合うと、そのままギルドの二階にある僕の部屋へと向かった。
殺風景な部屋の中央、小さな木のテーブルの上に、有り金を全てぶちまける。ジャラジャラと乾いた音を立てて転がる金貨や銀貨。それは僕たちがこの数ヶ月、血と汗を流して手にした、想いの結晶そのもの。
「えっと、まず今日の報奨金が金貨三十枚ですね。それと冒険者ギルドからの特別手当が金貨五枚になります」
「さ、三十枚……。まさかの半額じゃないの。あの領主、なにからなにまでクズね」
「まあまあマリアンヌ殿、ここはギルドの二階です。あまり大きな声は……」
「そうなんだけどさぁ……ぶつぶつ」
ミゲルさん、あなた、猛獣使いの才能があるのかもしれません。
「で、僕の手持ち全てが金貨四十八枚。……全部合わせて、金貨八十三枚です」
僕がそう告げると、部屋に重すぎる沈黙が落ちた。
「あと、十七枚か……」
マリーさんが、絞り出すように呟く。
「ん~、何とかしてあげたいけど、さすがに十七枚は、今の私には無理ねえ」
「いえ、そのお気持ちだけで、ありがたいですよ」
「その、アンリエッタ殿は、誰か別の方に契約されてしまうと、もう取り戻せなくなると伺いましたが」
ミゲルさんの真剣な問いに、僕は頷く。
「一度契約が結ばれてしまえば、それが切れるまでは手出しできないようですね」
「では、何としても急がねばなりませんね」
「……ええ」
そんな僕たちの、か細い希望を断ち切るかのように。
コンコンと、部屋の扉が控えめに叩かれた。
こんな時間に誰だろう?
冒険者ギルドの二階にある僕の部屋を訪ねてくる者など、まずいない。
まさか、早速領主からの嫌がらせが?
僕たち三人は、思わず顔を見合わせてしまう。
「はい、どなたですか?」
「ああ、夜分にすまないな。ロルフだ」
その名を聞いた瞬間、僕の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
血の気が、さっと引いていくのが分かる。
指先が、冷たい……ほどに。
なぜ、あいつがここに? まさか……アンリエッタさんの、契約が……決まってしまったのか? その、最悪の知らせを、わざわざ伝えに……?
「だ、大丈夫? フェリクス君、顔が真っ青よ」
僕の異変に気づいたマリーさんが、心配そうに僕の顔を覗き込む。
「……商人ギルドの、使いが来たみたいです」
「え、このタイミングで? うそでしょ……」




