第76話 オーギュスト・デュ・リヨン
ベルガーさんに導かれ、僕たちは重厚な扉の先へと足を踏み入れる。
そこには、息を呑むほどに広く、豪奢な謁見の間が広がっていた。
血と誉れの戦史が刻まれし、巨大なタペストリーが吊るされ、磨き上げられた石床が魔道具の灯りを映して鈍色の光を放っている。この町の規模には、およそ似つかわしくない空間がそこにある。
玉座こそないが、部屋の最奥は一段高く、そこだけがまるで別の空間のように、絶対的な権威を静かに主張していた。
肌を刺すように冷たい空気に気圧されていると、心中を察したように、ベルガーさんが小声で教えてくれる。
「このリヨンはな、魔の大森林や国境に最も近い。だから、王都や辺境伯都からの援軍などが駐屯できるよう、家格の割に、これほど大きな城館が誂えられているのだ」
なるほど……。謁見や論功の場も兼ねる、という訳か。
「さて、もう間もなくご領主様がお見えになる。オーギュスト・デュ・リヨン様だ。いいか、くれぐれも失礼のないようにな」
ベルガーさんの言葉を合図に、僕たち三人はその場で恭しく片膝をつき、深く頭を垂れた。許しがあるまでは、顔を上げることすら許されない。冷たい石の感触と、己の息遣いすら大きく響くような静謐だけが、今の僕の全てだった。
やがて背後で、重厚な扉が再び、ゆっくりと開かれる音がした。
衣擦れの音と、石床を叩く硬質で規則的な足音。それが僕たちの横を通り過ぎ、一段高い場所で止まる。
(……この男が)
父が亡くなった途端、守りぬいてきた領地も、家名すらも召し上げた張本人がそこにいる。
思った通り、敬意など欠片も湧いてこない。
それでも今は、この場では完璧に、従順な若者を演じきってみせるさ。
仲間の為に。
彼女のために。
「閣下」
ベルガーさんの、似合わぬ厳かな声が響いて、少し可笑しかった。
「この三名が、かの黒いオーガを討ち果たし、閣下と領民の安寧を取り戻すという、大役を見事、成し遂げた者たちにございます。その名を『契りの円環』と、申すそうで」
僕たちのパーティーの名が、この厳粛な場で呼ばれる。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
「ほう、其方らが黒いオーガを倒した者たちか。良くやってくれた。感謝するぞ」
「恐れ多きお言葉にございます」
予め決めていた通り、僕が代表して応える。
僕の声は自分でも驚くほど冷静に、広い謁見の間に響いたと思う。
「して、其方らの名を申してみよ」
「はい。私はフェリクスと申し、こちらがミゲル、そして、そちらの女性がマリアンヌと申します」
「ほう、マリアンヌ? 聞いたことがある名だな。その方は確か、ギルドの職員ではなかったか?」
なぜ領主が、いち職員の名を知っているのだろう……?
一瞬の疑念が胸をよぎるけど、今は黙って言葉を続けるべきだろう。
「はい、左様でございます。ですが現在はその職を辞して、私のパーティーに属しております」
「そうか。……して、そちらの男。其方も、どこかで見たことがある気がするな」
領主の眉が、僅かにひそめられた。彼の視線が、僕の隣で跪くミゲルさんに、じっと注がれているのが分かる。
「はっ。以前、閣下のお側にお仕えしておりましたミゲル・シュテルンと申します」
ミゲルさんが改めて、深く、頭を下げる。
「なんと、仕えておったと申すか。何をしていた、役職は?」
「はっ。騎士見習いでありました」
「なんだ、つまらん。見習いか。それは、仕えていたとは言わんぞ」
投げつけられた言葉は、氷のように冷たく、無慈悲な響きに満ちている。隣にいるミゲルさんの肩が、悔しさに微かに震えた。
だけど彼は、顔を上げることなく、ただ、もう一度深く頭を垂れるのみ。
「……大変、失礼いたしました」
臓腑が煮えくり返るような怒りが、喉元までせり上がってくる。
なんだこの男は。
ミゲルさん、いや、父さんもベルガーさんも、よくもまあ、こんな奴に仕えられていたものだ。皆の心には、きっと『忍耐』という二文字が、極太の筆で書かれているに違いない。
僕には到底無理だ!
僕が内心で憤っていると、オーギュストが、パンパンと乾いた音を立てて両手を叩き、侍従を呼ぶ。そうだ、これからは心の中で、奴を呼び捨てることにしよう。
それが今の僕にできる、ささやかな反抗。
「褒美を此処へ」
侍従らしき男が、金貨が入ったであろう革袋を、僕の目の前の床に、こともなげに置いてみせる。
「褒美を使わす。ただし、当初の金額より減額としたぞ」
……は?
今、この男は何と口走った? き、聞き間違いですよね?
「か、閣下、それはあまりにも……!」
ベルガーさんですら、驚きを隠せないでいる。ということは……聞き間違いではなかったと!?
この、どこまでも浅ましき領主めッ!
「ご領主様、発言の許可をいただけますでしょうか」
不意に、マリーさんが凛とした声で一歩前に出た。
「ん、許すぞ、マリアンヌとやら」
何か、ぞわっとするのは気のせいだろうか。
「先ほど、私どもの代表からもご説明がございましたが、私は、元冒険者ギルドの職員で、名をマリアンヌと申します」
すごい……。この重圧の中、彼女の声は少しも上ずっていない。
「ああ、聞いたな。それがどうした」
なんなんだ、こいつは……。いちいち、人の神経を逆撫でするような言い方しかできないのだろうか。
「この度の件は、ご領主様直々の緊急依頼としてギルド内でも広く告知され、リヨンの全冒険者の知る所でございます。故なき報奨金の減額は、閣下の御名声に傷がつきかねません」
マリーさんは、ただ感情に訴えるのではない。
領主が最も気にするであろう「名声」という一点を、的確に突いてみせた。さすがすぎる。彼女の理路整然とした物言いに、僕は内心で喝采を送る。
これで、この男も考えを改めるはずだ。
そう、思ったのに──
「ふむ、なるほどのう。其方の言い分は、もっともだ」
オーギュストは、さも寛大であるかのように頷いてみせる。そのふてぶてしい態度に、腹の底で怒りがふつふつと湧き上がるのが分かった。
「では、説明してやろう」
「ありがとうございます」
マリーさんは静かに頭を下げる。
だが、奴が次に紡いだ言葉は、僕たちの僅かな希望すら打ち砕く、底知れぬほど理不尽なものだった。
「昨晩、冒険者ギルドから検分にと運ばれた黒オーガの首だがな? ……黒く、なかったのだよ。黒オーガでないなら、褒賞は払えまい?」
……黒く、なかっただと?
何を言っているんだ、この男は。
聞き間違いか? いや、そんなはずはない。
僕の耳は、確かに奴の言葉を捉えていた。
「お言葉を返すようで恐縮ですが、閣下。あれは間違いなく黒オーガでした。冒険者ギルドのマスターにも確認いただいておりますし、あの不気味な、黒い魔石もあったはずです!」
僕が反論するより早く、マリーさんが食い下がる。
そうだ、僕たちはあの禍々しい黒い魔石を、確かにこの目で見たじゃないか。
「──黒い魔石は、確かにあったわ」
オーギュストが、もったいぶるかのように、わざとらしく間を開ける。
「『こんな魔石は初めて見た』と、ギルドマスターも感心しておった。見事な腕前で黒オーガを討ち果たしたとも聞いたぞ。……だがな、首は黒くなかったのだ。これではただのオーガと言われても仕方あるまい? 少々、図体が大きかったのは事実だがな」
「で、ですが!」
マリーさんが、さらに何かを言おうとした、その時。
奴が、駄々をこねる子供をあやすかのように、手のひらを彼女へと向けた。その、たった一つの無言の仕草が、僕たちの全ての言葉を封じ込めてしまう。
(首が黒くなかった……? 一体、どういうことだろう……?)
奴らを倒した後、僕たちは首を背負ってリヨンまで歩いた。道中も、ギルドのカウンターに首を置いた際も黒かったのは覚えている。何よりも、あの戦いの最中に見た、光さえ飲み込むかのような、あの禍々しいまでの黒さは、決して見間違いなんかじゃない。
なら、なぜ……?
僕の頭の中に、解くことのできない、冷たい疑問だけが渦巻いていた。
「私も鬼ではない。首は黒く無かったが、黒い魔石はあったのだからな。だから褒美は出す。ただ減額しただけのことよ」
その言葉は、慈悲深い君主が、物乞いに施しを与えるかのような響きを持つ。
「閣下……」
「何だ、不服か? 無しにしてやってもいいのだぞ? 首は、黒くは無かったのだからな」
あんまりだ……。あんまりじゃないか。
こんな男が、リヨンの領主だというのか?
父さんのこと、ミゲルさんのこと……僕の心の片隅に、まだ淡い期待が残っていたのかもしれない。この男にも、人の上に立つ者としての苦悩があるのだと。領地の財政が苦しくて、助けたくても助けられなかったのだと。そうであってくれと、どこかで願っていたのだ。
なのに、なんだ、この矮小なる男は。
思わず、刀の柄に手が伸びかける。
伸びかけた僕の手を、マリーさんの柔らかな指が、そっと上から押さえてくれた。不意に伝わる温もりが、沸騰しかけた僕の思考に、かろうじて理性の楔を打ち込む。
……落ち着け、フェリクス。
ここで僕が早まれば、マリーさんやミゲルさんまで巻き込んでしまう。
「ご領主様、私も、発言よろしいでしょうか?」
「なんじゃ、まだあるのか? そちで最後だぞ、よいな?」
いいか、フェリクス。落ち着け。落ち着いて、話すんだ。
「以前、ご領主様の元で騎士として仕えておりました、アドリアン・コンスタンツェを、覚えておられますか?」
「アドリアンか、覚えておるぞ? それがどうかしたか」
奴の、あまりにも軽い返答が、僕の胸を鋭く抉る。
「私は、そのアドリアンの息子、フェリクスです」
僕の言葉に、領主の眉が、ぴくりと動いた。
その視線が、僕とベルガーさんの間を探るように往復する。
「何? 其の方、アドリアンの息子だったのか。……本当か、ベルガー?」
「はい、本当です。生前、アドリアンから紹介されております」
「そうであったか……。なら最初に言わんか。で、その息子が、何用だ?」
もう、これしかない。僕に残された最後の手段。
僕は、僅かな希望に縋るように、言葉を紡いでみせる。
「父が亡くなり、一家は離散いたしました。家族を、皆を取り戻すためにお金が必要なのです。お恥ずかしい話ですが、私は今回の報奨金でその全てを取り戻せる、そう信じておりました。ですが、減額されてしまっては、足りないのです。どうか……元通りの金額を、お与えいただくわけには、いかないでしょうか」
僕は必死だった。
この、どうしようもない男に、頭を下げることの屈辱よりも、ただ、彼女を取り戻したい、その一心に勝るものは無かったから。
「ふぅむ、気の毒ではある。だが、無理だ」
その一言で、僕の最後の希望が、音を立てて砕け散る。
「か、閣下、何とぞご再考を……」
「くどいぞ、ベルガー! お前まで言うか!」
オーギュストの顔が、怒りでみるみる険悪になっていく。これ以上の交渉は無理だ。諦めよう。
怒らせ、褒章そのものまで失うわけにはいかない……。それに、このままでは、ベルガーさんにまで迷惑が掛かってしまう。
「閣下、我がままを申しました。この金額で結構です」
「ふん、最初からそう受け取っておけばよいのだ。ごちゃごちゃと抜かしおって」
僕が力なくそう言うと、領主は満足げに鼻を鳴らした。
謁見の間から退室しようと、僕たちに背を向けたその男が……。最後にゆっくりと、こちらを振り向き、こう言い放った。
「マリアンヌ、と言ったか」
獲物を品定めするかのような、粘つく視線が、マリーさんの頭の先から、豊かな胸の膨らみを経て、足の爪先までをいやらしく舐め上げるように這っていく。
「ふん、ギルドマスターも中々の見る目よの、上玉ではないか」
「どうだ? 金が足りぬと言うのならお前がここに残り、この儂に『奉仕』するという手もあるぞ? そうすれば、この小僧に満額くれてやらんでもない。……まあ、他の男どもは不要だがな」
「……!」
「お前はここに残れ。そして以後、ワシに仕えよ。いいな?」
戯言は、そこで終わった。
僕たちの思考が追いつくよりも早く、奴の分厚い手のひらが伸びる。それはマリーさんの胸の膨らみを柔らかに包み込むかと見せて、そのまま衣の隙間、胸の谷間へと、蛇が這うように侵入した。
「やっ……!」




