第72話 後日譚
重厚な扉がゆっくりと、閉ざされた。
僕たちの視界から、不器用で、情深き男の背中が見えなくなる。
階下へと続く廊下を歩むその間、僕たち三人は誰一人として、口を開かなかった。
それぞれが先ほどの、温かくも重いやり取りの意味を、自らの胸の中で、ただ、黙々と反芻しているかのように。
一階の、いつもの喧騒が、再び僕たちの体を包み込んだ時。
それまで、黙って歩いていたはずのマリーさんが、突然その肩を、くすくすと震わせ始めた。
「ぷっ……あははっ」
ついに、堪えきれなくなったのだろう。彼女は、その場に立ち止まると、お腹を抱えて、楽しそうに笑い出す。
「え……?」
僕とミゲルさんが呆気にとられて、その姿を見つめていると、彼女は、涙を拭いながら、僕たちを指差して言った。
「だ、だって、改めて見ると、私たち三人とも本当に、ひどい格好じゃない? 汗と泥に、オーガの返り血まみれで……」
彼女はそこで一度、言葉を切ると、信じられないとでも言うように、呆れた声で続けた。
「……よくもまあ、マスターは、こんな血達磨の私たちを、自分の部屋に上げたものよね」
彼女のその言葉を受け、僕は、そこで初めて、自らの姿を顧みた。
これは……確かに、ひどい。
鎧は傷だらけ。ところどころ服は破れ、全身が、乾いた血と、得体のしれない汚れでまだらに汚れている。
「僕たち、せめて水浴びでも済ませてから、伺うべきだったのかもしれませんね……」
僕が真剣な顔で、そう省みると、
「いえ、ご主君。何をなされたところで、あの『討伐の証』をここまで運ぶだけで、再び汚れてしまっていたかと存じます」
ミゲルさんから、どこまでも実直で、的確な答えが返ってくる。
「うんうん、まあ、もう過ぎた話だし、いいんじゃない?」
マリーさんはそう言うと、悪戯っぽく、くいっと顎をしゃくって、受付カウンターの方を示した。
「ただ……あとで、シモーヌさんあたりから、床やソファーの掃除について、恨み言の一つや二つは、言われそうだけどね」
そこで彼女は、気持ちを切り替えるように、パンッ、と軽快に手を叩く。
「という訳で、決まりね! まずは水浴びよ、水浴び! その後、何か、好きな食材でも持ち寄って、私の家でささやかだけど、打ち上げなんてどう?」
「マリーさんの、家で、ですか……?」
その、戸惑うほどに予想外で、どうしようもなく温かい響きを持つ提案に、、僕は一瞬、言葉を失ってしまう。
……家。
皆が知る通り、ほら、僕の前の世界での「家」は、ただ、眠るためだけの、冷たい箱でしかなかったから。誰かと食卓を囲むことも、招かれることもない、ただ、無機質な空間がそこにあるだけ。
僕が戸惑っていると、隣でミゲルさんが、さらに困惑したような、申し訳なさそうな顔で口を開く。
「ですが、マリアンヌ殿。私のような者が、ご自宅にお邪魔するなど、あまりにも、もったいないお言葉……」
彼は、判断を僕に委ねるように、僕の顔色を窺っている。
……彼も、さすがに学習した、ということか。
かつての、あの気まずいやり取り。そう、例の『奥方様』や『同衾』といった、地雷ワードを避け、最大限、遠回しな表現を選んだ結果がこれなのかもしれない。
僕が、どうしたものかと、言葉を探していると──。
「……そういうところ、男の子って本当に、面倒くさいわよね。ごちゃごちゃ言わずに、来ればいいのよ」
僕たちの似通った躊躇いを、マリーさんが呆れたように、しかし、どこまでも涼やかに、断ち切った。
「いい? 私たちはね、たった三人で、あの黒オーガを二体も倒したの。誰一人、欠けることなく、ね。……こんな奇跡みたいな夜に、お祝いしないで、一体、いつするっていうの」
彼女の、太陽のような明るい言葉。
それが、僕たちの最後の躊躇いを、綺麗さっぱり消し去ってくれた。
マリーさんの提案通り、僕たちは一度、解散することになった。
さて、ギルドの裏手にある井戸で、まずは、この、血と泥にまみれた体を洗い流すとしようか。
僕は、誰もいない井戸のほとりで、ゆっくりと魔力を練り上げる。
そうして、以前、マルタンさんの店の井戸掃除でやってみせたように、洗うのに丁度よい大きさの水を一つの塊として、井戸の底から、ゆっくりと浮かべてみせた。
井戸の奥深くから、大きな水の球体が表面を僅かに波立たせながら、ゆっくりとせり上がってくる。それを程よい高さに調節して、宙に浮かぶ、巨大な水の宝石へと。
僕は、おそるおそる足から入り、身を沈めてみせた。
水の膜が、まるで透明なゼリーのように、ちゃぽん、と僕の体を受け入れ、再び、その表面を閉じていく。
気づけば巨大な水球の中に、僕の体がすっぽりと収まり、首から上と、くるぶしから下だけが外に出ている、という……。
我ながら、何とも奇妙奇天烈な格好になっていた。
「さ、さむっ……!」
井戸から汲み上げたばかりの水は、キンと冷えていて。その、心臓が跳ねるような冷たさに、僕は、ぶるっと体を震わせる。
浮かべたまま、この水を温める方法を考えないと……冬場は厳しいかもしれない。そんなことを考えながらも、僕は一度、大きく息を吸い込み、そのまま水球の中へと、頭を沈めてみる。
じゃぽん、と水面が波打つ、軽い音。
水の柔らかな抵抗が、僕のくるぶしから下以外のすべてを包み込む。
僕はその中で、指を使ってごしごしと、血で固まった髪を解きほぐし、体中の汚れを洗い流していく。
「……ぷはっ!」
呼吸の限界を迎えた僕は、再び、水球から顔を出した。
冷たすぎる、清冽な水で洗われた頭も顔も、驚くほど、すっきりとしている。
僕はもう一度だけ、綺麗な水の球体を作り出し、それで丁寧に、体の隅々までを洗い流すと、最後に魔法を解いた。
背嚢から、着替えの簡素なシャツとズボンを取り出し、手早く袖を通す。
血と泥の匂いが消え、清潔な衣服に身を包むと、心なしか、体の重さも、少しだけ軽くなったような気がした。
それにしても、この魔法の応用……我ながら、なかなかの発明かもしれない。
これがあれば、今後の野営で、わざわざ水場を探す必要もなくなるのだ。うん、これは、かなり大きいぞ。
特に女性である、マリーさんや……アンリエッタさんは、きっと、喜んでくれるに違いない。ふふ、僕のこの、ささやかな「ひらめき」が、いつか、彼女たちの笑顔に繋がる。……そう思うと、何だか、悪くない気分。
「さて、と。ミゲルさんを、待たせすぎても悪いな」
僕は一人、そう呟くと、待ち合わせ場所である市場へと、少しだけ、軽やかになった足取りで歩き始めるのだ。
夕暮れ時の市場は、一日の仕事を終えた人々で、ごった返していた。
威勢のいい商人の声、香ばしい肉の焼ける匂い、それから、見たこともない色とりどりの野菜や果物(?)たちの姿。
活気に満ちた光景は、つい先ほどまで僕たちがいた、あの、死の匂いが満ちた森とは、まったくの別世界だったよ。
市場の中ほどにある腰掛けには、既に、同じように身を整えたミゲルさんが、背筋を伸ばして座り、僕を待っている。
「お待たせしました、ミゲルさん」
「いえ、私も今しがた、着いたところです」
僕たちは早速、今夜のささやかな打ち上げの食材を探して、活気のある市場の中を歩き始める。
「ご主君、あちらから、良い匂いが」
どこか弾んだ声に振り返れば、ミゲルさんが、くんくんと鼻をひくつかせている。彼が指差した先には、威勢のいい髭面の店主が、巨大な鉄板で、分厚い肉の塊を、ジュウジュウと豪快に焼いている屋台があった。
「に、肉にしませんか、ご主君。やはり、体を動かした後は、肉が一番かと」
彼の、実直すぎる肉への渇望。
やはり、騎士や冒険者といった、体を動かすことを生業にする者たちにとって、肉は、何よりのご馳走なのだろうと思う。彼が初めて見せた、年相応な素直な欲求が、どうしようもなく、僕の目には微笑ましく映った。
僕たちはまず、ミゲルさん必涎の巨大なボア肉の串焼きを、人数分より多めに。それから、紫色の蕪によく似た根菜と、手のひらほどの大きさがある、肉厚な茶色いキノコの焼き物を。
最後に立ち寄ったパン屋では、ずっしりと重い大きなパンを一つ。ヤギの乳で作ったというチーズを、たっぷりとかけて焼いてもらったものだ。それから、マリーさんが好みそうな甘口の果実酒も、忘れずに数本買い込んだ。
「……ご主君」
買い物を終え、マリーさんの家へと向かおうとした、その時。
ミゲルさんが、何か儀式でも見届けた証人のように、改まった、どこか晴れやかな表情で、僕へと向き直る。
「本日こうして、晴れて、マリアンヌ殿と、ご婚約がお決まりになりましたこと。このミゲル、心より、お祝い申し上げます」
「ええええええええっ!? こ、婚約ぅ!?」
僕の素っ頓狂な叫び声が、市場の喧騒の中を、訳の分からない勢いで駆け抜けたのは間違いない。
そんな僕の、あまりの驚きように、ミゲルさんは心底、不思議そうに首を傾げた。
「? ……ご主君、何を、それほど驚かれておりますか。先ほど、ギルドマスター殿も、仰っていたではございませんか。『必ず、アンを、幸せにしろ』と。あれは事実上、お二人のご婚約が許されたということ。そして、ご主君も、確かに『誓います』と、我々の眼前でお答えになられた。……違いましたか?」
ち、違う、違う、違う! 断じて、違う!
僕の頭の中で警報が、けたたましく鳴り響く。
あの、ベルナールさんの言葉は、そういう、恋愛的な意味合いでは、断じてないはずだ。……じゃあ、あの時の、マリーさんの顔を真っ赤にした、あの反応は……?
いやいやいや、ないないない!
あれは、ベルナールさんの父親的な想いを知った彼女が、感動して顔を染めただけのこと。
そうに決まってる!
え? まさかマリーさんも、そんな風に思ってたりしないよね?
市場の真ん中で、その、あまりにも複雑な男女間の機微と、元上司と部下の、不器用な親心にも似たアレコレを、一体、どう説明すればいいというんだ!?
僕の実直すぎる、勘違い騎士に!
僕が、反論する言葉も、気力も見つけられず、ただ、口をパクパクさせていると、ミゲルさんがさらに、言葉を続けた。
「つきましては、ご婚約、最初の贈り物として、ささやかながら花の一輪でも、お持ちするのが、よろしいかと。騎士の嗜みとして、父から、そう、教わりましたので」
あとがき
黒オーガとの死闘から、ギルドマスターとのぶつかり合いという、激しい「嵐」の後の「凪の」エピソードとなりましたね。
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──神崎 水花




