第71話 見守り続けた男
ギルドマスターの部屋は、意外なほどに、質実剛健な場所だった。
華美な装飾は何一つなく、あるのは、使い込まれたであろう重厚な木の机と、壁一面を埋め尽くす地図の数々。
少し目を移せば、魔物に関するであろう膨大な数の資料が垣間見える。
この部屋の主が、ただの飾りではない実務家であることを、部屋の空気が物語っていた。
部屋の扉が、控えめにノックされる。
入ってきたのは、受付のシモーヌさんだった。
彼女は僕たち三人と、ギルドマスターの分の、湯気の立つお茶を手際よくテーブルに並べると、去り際にマリーさんをちらりと見て。
その唇を、声には出さずに、ほんの僅か動かしたように見えた。そう、音のない言葉を紡ぐように……。
後から思えば、きっと、彼女はこう言っていたのだろう。
「ごめんね」と。
その、秘密のやり取りのような仕草の意味するところは、もちろん、その時の僕には、まだ、分かるはずもない。
(……これから、一体、何が、始まるというのか……)
シモーヌさんが静かに部屋を去り、扉が閉められる。
その、乾いた音を合図にしたかのように、先ほどまでとは質の違う、重く、僕たちを圧迫するような沈黙が、この部屋を支配し始めた。
ギルドマスターは両肘を机につき、その指を固く組んだまま、僕たちのことを、まるで獲物を値踏みするかのような鋭い視線で、じっと、見つめている。
しばしの沈黙のあと、彼がその重い口を開いた
「初めまして、だな。私がこの冒険者ギルド、リヨン支部の長を務めている、ベルナールだ。以後、よろしく頼む」
「初めまして、フェリクス・コンスタンツェです」
「私は、マ……」
マリーさんが僕に続いて、自己紹介をしようと口を開いた、その時。
「アン、君はいい。ところで、そちらの君は?」
彼女の言葉を、まるで当たり前のように、しかし、有無を言わさぬ重さで遮った。
マリーさんは少しだけ、むっとしたような、拗ねたような表情を浮かべていた。
「私は、ミゲル・シュテルンと申す者。ご主君の、忠実な剣にございます」
「ほう? その物言い、ただの冒険者ではないな?」
ベルナールさんの目が、面白いものでも見つけたように、僅かに細められる。
ミゲルさんは、その鋭い視線を臆することなく真っ直ぐに受け止め、静かに、はっきりと答えた。
「今は、ただ、我が主君の剣。それ以上でも、それ以下でもございません」
その、一切の迷いなき言葉に、ベルナールさんは「ふん」と一度だけ鼻を鳴らす。
長い、息が詰まるような沈黙のなか、彼は、僕だけをその鋭い瞳で、真っ直ぐに射抜き続けていた。
やがて彼は、まるで長年考え抜いた結論を、ようやく口にするかのように言う。
「まあいい、単刀直入に言おう、フェリクス・コンスタンツェ君。私は君のことが、心底嫌いだ」
その、あまりにも唐突で、けれど、一切の敵意も、悪意も感じられない言葉。
ただ、純然たる事実として告げられたその響きに、僕も、ミゲルさんも、固まることしかできなかった。
その沈黙を破ったのは、マリーさんだった。
ガタンッと椅子を鳴らして、彼女は勢いよく立ち上がる。
「な、なんてことを仰るのですか、マスター! いえ、この場ではベルナールさんとお呼びすべきでしょうが……、彼が一体、何をしたというのです!?」
彼女の激しい抗議の言葉にも、ベルナールさんは表情一つ変えない。
彼は、組んでいた指をゆっくりと解くと、その理由を一つ、一つ、指を折りながら淡々と、有無を言わさぬ響きで語り始めた。
「二度は言わん。いいか、まずは一つ。君は、我がギルドにとって、最も優秀な人材の一人であったアンを、受付嬢という安定した職から引きずり出し、再び、危険な冒険者の道へと戻した」
「そ、それは……私が、自分で決めたことです……!」
「二つ。ふん、これでも私はな、この、生意気で、口うるさくて、それでいて、誰よりもギルドのことを考えてくれていた馬鹿娘のことを、それなりに、可愛がっていたつもりでな。その、大事なマリアンヌを、こともなげに貴様は死地へと連れ出した」
「マスター……」
気付けなかった彼の想いを聞いて、マリーさんの勢いが明らかに弱まる。
「そして、三つ目だ」
ベルナールさんの声の温度が、僅かに下がった。
「たかだか、冒険者になって数か月の君が、領主様からの緊急依頼を達成した、だと? 騎士団の一部隊でさえ、壊滅の憂き目にあったという、あの黒オーガをか? ……わけがわからん。貴様は、一体何者なのだ?」
彼はその鋭い視線で、僕という人間のその奥の、さらに奥底を、見定めようとしているかのように、じっと僕を、見つめていた。
それから、僕の覚悟を試すかのように、重々しい最後の言葉を告げる。
「……以上が、私が君を嫌う理由だ。どうだ、反論できまい。できるというなら、してみるがいい」
ベルナールさんの、挑発するような台詞。
僕が、それにどう答えてみせるのか。
マリーさんも、ミゲルさんも、そして、ベルナールさん自身すらも、固唾を飲んで僕の言葉を待っている。そんな気がする。
失敗は、できない。許されない。
言葉に出来ない絶対的な圧力が、この部屋を満たしていた。
僕は一度、ゆっくりと息を吸い込み、静かに口を開いた。
「まず、一点目と、二点目について。マリアンヌさんが、ギルドの職を辞するきっかけを作ったのが、僕の浅はかな行動であったことは事実です。その点については、弁解の言葉もありません」
「そ、それは違うわ、フェリクス君!」
僕の言葉を遮って、マリーさんが悲痛な声を上げる。
「それがあったことも、事実よ。でも、それだけじゃないわ。私が、一部の冒険者からの執拗な誘いに、ほとほと、疲れ果てていたというのも本当のことなの。知っているでしょう? キミとなら、そんな日常を変えていける。……そう、思ったからよ」
「……なに? どういうことだアン。執拗な誘い、だと?」
それまで、表情一つ変えなかったベルナールさんの眉が、ぴくり、と動く。
「……その話、後で、詳しく聞かせてもらおうか」
彼の低く、氷のように冷たい声に、マリーさんは、うっ、と息を呑んだ。
僕は、そんな二人のやり取りを、敢えて無視するように言葉を続ける。
「マリアンヌさんを、再び、危険な冒険者の道へと引きずり込んでしまったというご指摘も、否定はできません」
「……そうだろうな」
ベルナールさんの、短く、冷たい相槌。
「ですが」
僕は、それまでの、どこか申し訳なさそうな声色から一転、今度はベルナールさんの鋭い視線を、真っ直ぐに見つめ返した。
「先の二つのご指摘については、僕がその全ての責任を、これから負っていく覚悟です。──ですが三つ目の、この僕たちが黒オーガを討伐したという、その『事実』。これだけは、断じて、譲れません」
僕の強い言葉に、マリーさんとミゲルさんが、僕の横顔を見つめているのが気配で分かった。
「僕は胸を張って、宣言します。あの戦いにおいて、僕たちがしたことに、何一つ、恥じることなどない、と」
「フェリクス君……」
ミゲルさんも、ただ黙って頷いていた。
「……だから、何だと言うのだ」
ギルドマスター、ベルナールさんの声は、静かだった。
けれどその底には、抑えきれない苛立ちと、純粋な好奇が渦巻いている。
「その、あり得べからざる結果を出した貴様は、一体、何者なのだと聞いている」
その、根源的な問い。
僕という人間の本質を問う、彼の言葉。
それに対しての僕の答えは、もう、とうに決まっていた。
「僕は、リヨンの騎士、アドリアン・コンスタンツェが息子、フェリクス」
一切の迷いなく、そう告げる。
「それ以外の、何者でもありません」と。
僕のその答えに、ベルナールさんはぐっと、言葉を詰まらせた。
彼の鋭い視線が、確かに揺らいでいる。
彼は何かを、必死で、心の内に押し殺そうとしているようにも見えた。
長い、長い、沈黙。
やがて、彼は、それまで抑え込んでいたであろう全ての感情を、一気に吐き出すかのように、ドスの効いた低い声で僕にぶつける。
「……お前は知っているのか知らんがな。あの悲しい出来事で、この馬鹿娘がどれだけ心を痛めたか。……やっとだぞ。アンが、ようやく、屈託なく笑えるようになったのは。そんなアンに、もし、何かあってみろ。その時は代償として、お前の命で償ってもらう。──必ずアンを、幸せにすると、俺に誓えるか」
それは、ギルドマスターとしての言葉ではなかった。
僕が知る由もなかった、マリーさんの壮絶な過去。その全てを知り、ずっと見守ってきたであろう、一人の男の、心の叫び。
ただ一人の、傷ついた娘の幸せを、平穏を……不器用ながら心の底から願う、父親にも似た、切実な問いだったと思う。
僕は彼の言葉の本当の重みを、ようやく理解することができた。
「……はい。誓います」
伝え終えた彼は、僕たちに背を向けたまま──窓の外を眺め、ぽつりと業務連絡を告げる。
その声はもう、先ほどまでの激情の響きを、どこにも残してはいない。
「……今回の、緊急依頼の報酬だが。ギルドからの分は後ほど、正式に、スクルから渡させる。だが、ご領主様からの特別報酬については後日、城館からお前たちに使者が来るはずだ。……おそらく、ご領主様御自ら、お前たちへお渡しになるだろう。そのつもりで、いることだ」
「……話は、それだけだ。もう、行け」
彼のその言葉に、僕とミゲルさんは一度、深く頭を下げ、部屋を後にする。
だけどマリーさんだけが、扉の前で立ち止まっていた。
彼女は、僕たちに背を向けたままの……ギルドマスターのその、大きくて、どこか、寂しげにも見える背中に向かって。
誰に見せるでもない。本当に深々と、長い、お辞儀をしていた。
それはきっと……、ただの感謝でも、謝罪でもない。
長い年月、不器用な愛情で、自分を見守ってくれた一人の男に対する、彼女なりの、精一杯の、言葉にならない、想いの全てだったのかもしれない。




