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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
二章 取り戻すために

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第70話 凱旋

 あの女性(ひと)が僕の前から姿を消した、あの日。

 それから、ずっと思っていた。

 僕がこの世界で、心の底から、本当に喜べる日が来るとするならば。それは、アンリエッタさんを取り戻した、その日からなのだ、と。


 でも、違ったんだ。アンリエッタさん。

 世界は、僕が思っていたよりも、ずっと温かいもので満ちていたらしい。

 こんな、どうしようもない僕の隣で、命を懸けて戦い、その勝利を涙を流して分かち合ってくれる、かけがえのない仲間がいる。

 その温もりが、今、ここにある。


 そこで僕は、気づいてしまう。

 僕の背にまだ、マリーさんの柔らかな感触と、温もりが、はっきりと残っていることに。

「……ところで、マリーさん?」

 照れ臭さと、高鳴る心臓の音を振り払うように、僕は敢えて、できるだけ事務的な口調で彼女に尋ねてみせた。顔を横へ向ければ、すぐそこに、彼女の大きな緑の瞳があるのだから。

 

「なあに? フェリクス君」

「討伐証明って、黒オーガの場合、どうすればいいんですかね?」


「う……」

 僕の唐突すぎた問いに、マリーさんが僅かに口元を押さえ、目を白黒とさせている。それから、まだ僕たちに触れていた体を、慌てて数歩引いた。

 彼女が、このような反応を見せるのは、とても珍しい。

 

「ま、まぁ……一般的には、やはり……その、く、首、じゃないかしら」

 

 まるで悍ましいものでも口にしたかのように、彼女は一度、ぶるっと身を震わせる。

 けれど、すぐに先達としての顔を取り戻し、努めて冷静に言葉を続けた。

「これほど高位で珍しい魔物となると、証明できる特徴的な部位がないと、信じてもらえないから。……あとは、もちろん魔石よ。きっと、大きいと思うわ」


「え、首……?」「ですか」

 僕とミゲルさんの声が、見事にハモった。

 僕たちは思わず、互いの顔を見合わせる。

 その視線だけで、言葉にならない会話が僕たちの間に交わされていたことを、彼女だけが知らない。

 

 首、ですって、ミゲルさん。

 ……ええ、首、でございますね、ご主君。

 これって、やっぱり、男の仕事……ですよね……?

 ……逃げられそうにありませぬ。

 ですよねぇ……。


 僕たちの雄弁な沈黙を、マリーさんが断ち切った。

 彼女は、ぷいと顔を背けると、きっぱりと言い放つんだ。

「言っておくけど、私は絶対に、嫌よ!」

 初めて見たかもしれない、マリーさんの子供のような、全力の『拒絶』。

 いつも頼れる年上の彼女が見せた、その、あまりにも素直な我儘が、どうしようもなく、僕の目には愛らしく映ったから。

 ……しょうがないなぁ。ここは、男二人で、快く引き受けてあげるとしようか。


「ふぅ、仕方がないですね」

「では、一体は私が。もう一体は、ご主君がお持ちください」

「ミゲルさん……! ありがとうございます、助かります」


「じゃ、そういうことで!」

 マリーさんは僕たちのそのやり取りを、これ幸いとばかりに話をまとめると、

「私は魔石を、きっちり回収してくるわね!」

 そう一方的に宣言するや、ピューッと、ウサギのように軽やかに、そそくさともう一体の黒オーガの亡骸へと駆け寄ってしまう。

 残された僕とミゲルさんは、お互い顔を見合わせ、苦笑するしかなかった。


「ちょっと、二人とも、これ見て!」

 離れた場所で、黒オーガの胸をナイフで探っていたマリーさんが、驚きと、困惑が入り混じったような、鋭い声を上げた。

「どうしました、マリーさん」

 僕たちが駆け寄ると、彼女はナイフの切っ先で、黒オーガの胸の中心を指し示している。

「これ、どう思う?」


「魔石までが……黒い?」

 その場所には──まるで、闇そのものが凝縮して、結晶化したかのような、不気味なほどに真っ黒な石が埋まっていた。

 禍々しい脈動を錯覚させる程に、それは異様な有様。

 

「ええ……。こんな色の魔石、見たことも、聞いたこともないわ……」

 マリーさんの声が、僅かに震えている。

 僕がミゲルさんへと視線を向けた。

「ミゲルさんは、何かご存知ですか?」

「いえ……。これほど不吉な輝きを放つ石は、私も初めて目にします……」

 

 冒険者ギルドで、誰よりも多くの魔物や素材の情報に触れてきたはずのマリーさんですら、知らない。元騎士見習いのミゲルさんも、見たことがないと言う。

 僕が、知る由もなかった。

 

「討伐も終えたことですし、このままギルドに持ち帰り、スクルさんに見てもらうのが良さそうですね。どっちみち、僕たちでは判断もつきませんし」

「そうね、そうしましょうか」

「良き、ご判断かと」


 こうして僕たちは、リヨンへの帰路につく。

 先を歩く僕とミゲルさん、その後ろをマリーさんが続く形で。

 僕たちの背中には、それぞれ、その存在感を隠しきれないグロテスクな『討伐の証』が、ずしりと重くぶら下がっている。

 それは、僕たちが成し遂げた偉業の証であると同時に、この森に潜む、得体の知れない闇の欠片でもあったのかもしれない。

 

 僕たちの後方を歩いていたはずのマリーさんが、ずんずんと、僕たちの横を追い抜いていく。抜きざまに僕の背負う『それ』を見て。彼女は心底嫌そうな顔で、わざとらしく、これみよがしに長い息を吐いてみせた。

「……やっぱり、私、先頭を行くわ」


 彼女は、僕たちの背に吊るされたものを見るのが、よほど嫌なのだろう。

「さあ、さっさとリヨンに戻って、今日の成果を報告するわよ! 私が先導するから、二人とも、遅れないでついてきて!」

 マリーさんは、そう一方的にまくし立てると、まるで僕たちの背中から逃げるように、森の道を行く。その後ろ姿は、いつになく必死に思えた。


 僕とミゲルさんは、顔を見合わせる。

 それから、どちらからともなく、小さな苦笑を漏らす。

「マリアンヌ殿は、こういうものは、苦手でいらっしゃるようで」

「はは、そうみたいだね。そもそも、首が好きな女性なんて、いないだろうけど」

「おっと、確かにそうでした。……さすがは、我がご主君です」

 

 先頭を時折、僕たちの様子を窺うように、ちらちらと振り返りながらも、決して歩みを緩めないマリーさんがいた。

 その、少しだけ必死な背中を、僕とミゲルさんが静かに、どこか温かい気持ちで見守りながら、歩き続ける。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 リヨンの西門をくぐり、僕たちがギルドの扉を押し開けると、それまでの喧騒が嘘のように、ぴたりと止んだ。

 嵐の前の静けさ、とは、まさしくこのことか。

 ギルドホールにいた全ての冒険者たちの視線が、僕たち三人……いや、違う。僕とミゲルさんが背負う、血の滴るグロテスクな荷物へと、突き刺さっていた。

 

 やがてその静寂は、ひそひそとした囁き声へと変わり、それから、抑えきれない興奮の波となって、ホール全体へと広がりを見せていく。

 雑多な人の波と声が、僕たちに押し寄せる。

 

「お、おい。領主様の緊急依頼、もうクリアしちまったのか!?」

「嘘だろ、先週貼られたばかりだぞ!」

「見ろよ、あの黒くてゴツイ首……間違いねえ、黒オーガだ」

「なんだありゃ、気味が悪いほど真っ黒じゃないか」

「ああ、奴ら、やりやがったのか……」

「クソーッ、俺達も狙ってたのによ!」


「おい、なんで、あのアンさんまで一緒にいるんだ?」

「まさか、あの金髪の小僧のパーティーに入ったとかじゃないよな?」

「なっ、嘘だろ!? 誰にもなびかなかった、あのアンさんがか!?」

「知らんのか? アンさんが最近、あの小僧に入れ揚げてるって、もっぱらの噂だぜ」

「マジかよ……」

「……気に入らねえな。今度、締めちまうか?」

「やめとけ、馬鹿。アイツら(黒いオーガ)を倒した連中だぞ」

「……ちっ、それもそうか」


 好奇と嫉妬、それに少しの畏怖が入り混じった視線の壁。

 居心地の悪い空気の中を、マリーさんは、まるで荒波を割って進む船のように、堂々と、掻き分けていく。

 そして、受付カウンターをバンッ、と叩かんばかりの勢いで、彼女は、その場にいる全ての者たちへ、高らかに、僕たちの勝利を宣言した。

 

「私たち三人が、領主様からの緊急依頼を達成してきたわよ! さあ、さっさとギルドマスターを呼んで頂戴!」


 彼女の張りのある、どこまでも誇らしげな声が、静まり返ったホール全体に響き渡った。

 僕は、そんな彼女が切り開いてくれた道を通るように、スクルさんが待つ査定窓口へと、ミゲルさんと共に進み出る。

 そこで背負っていた、ずしりと重い『討伐の証』を、カウンターの上へとドサリと置いた。禍々しい黒オーガの角と、その虚ろな双眸が、恨みがましくこちらを覗いているようで、僕は思わず、視線を逸らしてしまう。

 

 続けて、マリーさんがこの二日間で得た、こまごまとした戦利品と共に、あの、不気味な黒い魔石を、ゴトリ、とその首の隣に置く。


 査定窓口のスクルさんは、黒オーガの首を一瞥した時は、さすがにその眉を僅かに上げたものの、まだ、どこかに「お前たち、やりおったか」という、納得の表情を見せていたのに。

 けど、彼の視線が、その真っ黒な魔石へと移った瞬間。

 百戦錬磨のポーカーフェイスが凍り付き、破綻の表情へと様変わりする。

 

 ギルドの他の職員たちも、その、あまりにも不吉な色をした魔石に気づき、息を呑んでいるのが分かった。

 やはり、この黒すぎる魔石は異常で、異質なものなのだろう。

 もはや、聞くまでもないのかもしれない。けれども、僕は念のために聞いてみた。


「あの、スクルさん……この魔石について、何か、ご存知ですか?」

 僕が、おそるおそる尋ねると、彼は眉間の皺を更に深くし、まるで呪物でも見るかのように、ゆっくりと首を横に振った。

「……いや。こんな、光すら吸い込むかのような禍々しい色の魔石は、この俺も、見たことがない……」


「──騒がしいな。一体、何事だ」

 その時、二階へと続く階段の上から、低く、されど有無を言わさぬ、威厳に満ちた声が降ってきて驚く。

 声の主は、このリヨン冒険者ギルド支部を束ねる、ギルドマスターその人。

 その、歴戦の猛者のような鋭い視線が、まずホール全体を睥睨し、次にカウンターの上の惨状を一瞥する。

 それから僕、ミゲルさんと、順に値踏みするように見た後、最後に、マリーさんへと、その視線が注がれた。

 

 ほんの一瞬、鋼のようだったはずの彼の眼差しが僅かに、人の温かさを取り戻したのを、僕は見逃さなかった。それは、手に負えぬ娘の、無謀な帰還を目の当たりにした父親のような。呆れと、心配と、ほんの少しの安堵が入り混じった、非常に複雑な色をしていたように思う。


 だけど、それも本当に一瞬のこと。

 彼は再び、この場を支配する長としての仮面を被り直し、有無を言わせぬ迫力で告げた。

「……話の続きは、私の部屋で聞こう。ついてきなさい」

 彼の言葉は、その場にいる全員に向けられていたはずなのに、なぜか、その強い視線は僕一人にだけ、注がれているようだった。

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