第70話 凱旋
あの女性が僕の前から姿を消した、あの日。
それから、ずっと思っていた。
僕がこの世界で、心の底から、本当に喜べる日が来るとするならば。それは、アンリエッタさんを取り戻した、その日からなのだ、と。
でも、違ったんだ。アンリエッタさん。
世界は、僕が思っていたよりも、ずっと温かいもので満ちていたらしい。
こんな、どうしようもない僕の隣で、命を懸けて戦い、その勝利を涙を流して分かち合ってくれる、かけがえのない仲間がいる。
その温もりが、今、ここにある。
そこで僕は、気づいてしまう。
僕の背にまだ、マリーさんの柔らかな感触と、温もりが、はっきりと残っていることに。
「……ところで、マリーさん?」
照れ臭さと、高鳴る心臓の音を振り払うように、僕は敢えて、できるだけ事務的な口調で彼女に尋ねてみせた。顔を横へ向ければ、すぐそこに、彼女の大きな緑の瞳があるのだから。
「なあに? フェリクス君」
「討伐証明って、黒オーガの場合、どうすればいいんですかね?」
「う……」
僕の唐突すぎた問いに、マリーさんが僅かに口元を押さえ、目を白黒とさせている。それから、まだ僕たちに触れていた体を、慌てて数歩引いた。
彼女が、このような反応を見せるのは、とても珍しい。
「ま、まぁ……一般的には、やはり……その、く、首、じゃないかしら」
まるで悍ましいものでも口にしたかのように、彼女は一度、ぶるっと身を震わせる。
けれど、すぐに先達としての顔を取り戻し、努めて冷静に言葉を続けた。
「これほど高位で珍しい魔物となると、証明できる特徴的な部位がないと、信じてもらえないから。……あとは、もちろん魔石よ。きっと、大きいと思うわ」
「え、首……?」「ですか」
僕とミゲルさんの声が、見事にハモった。
僕たちは思わず、互いの顔を見合わせる。
その視線だけで、言葉にならない会話が僕たちの間に交わされていたことを、彼女だけが知らない。
首、ですって、ミゲルさん。
……ええ、首、でございますね、ご主君。
これって、やっぱり、男の仕事……ですよね……?
……逃げられそうにありませぬ。
ですよねぇ……。
僕たちの雄弁な沈黙を、マリーさんが断ち切った。
彼女は、ぷいと顔を背けると、きっぱりと言い放つんだ。
「言っておくけど、私は絶対に、嫌よ!」
初めて見たかもしれない、マリーさんの子供のような、全力の『拒絶』。
いつも頼れる年上の彼女が見せた、その、あまりにも素直な我儘が、どうしようもなく、僕の目には愛らしく映ったから。
……しょうがないなぁ。ここは、男二人で、快く引き受けてあげるとしようか。
「ふぅ、仕方がないですね」
「では、一体は私が。もう一体は、ご主君がお持ちください」
「ミゲルさん……! ありがとうございます、助かります」
「じゃ、そういうことで!」
マリーさんは僕たちのそのやり取りを、これ幸いとばかりに話をまとめると、
「私は魔石を、きっちり回収してくるわね!」
そう一方的に宣言するや、ピューッと、ウサギのように軽やかに、そそくさともう一体の黒オーガの亡骸へと駆け寄ってしまう。
残された僕とミゲルさんは、お互い顔を見合わせ、苦笑するしかなかった。
「ちょっと、二人とも、これ見て!」
離れた場所で、黒オーガの胸をナイフで探っていたマリーさんが、驚きと、困惑が入り混じったような、鋭い声を上げた。
「どうしました、マリーさん」
僕たちが駆け寄ると、彼女はナイフの切っ先で、黒オーガの胸の中心を指し示している。
「これ、どう思う?」
「魔石までが……黒い?」
その場所には──まるで、闇そのものが凝縮して、結晶化したかのような、不気味なほどに真っ黒な石が埋まっていた。
禍々しい脈動を錯覚させる程に、それは異様な有様。
「ええ……。こんな色の魔石、見たことも、聞いたこともないわ……」
マリーさんの声が、僅かに震えている。
僕がミゲルさんへと視線を向けた。
「ミゲルさんは、何かご存知ですか?」
「いえ……。これほど不吉な輝きを放つ石は、私も初めて目にします……」
冒険者ギルドで、誰よりも多くの魔物や素材の情報に触れてきたはずのマリーさんですら、知らない。元騎士見習いのミゲルさんも、見たことがないと言う。
僕が、知る由もなかった。
「討伐も終えたことですし、このままギルドに持ち帰り、スクルさんに見てもらうのが良さそうですね。どっちみち、僕たちでは判断もつきませんし」
「そうね、そうしましょうか」
「良き、ご判断かと」
こうして僕たちは、リヨンへの帰路につく。
先を歩く僕とミゲルさん、その後ろをマリーさんが続く形で。
僕たちの背中には、それぞれ、その存在感を隠しきれないグロテスクな『討伐の証』が、ずしりと重くぶら下がっている。
それは、僕たちが成し遂げた偉業の証であると同時に、この森に潜む、得体の知れない闇の欠片でもあったのかもしれない。
僕たちの後方を歩いていたはずのマリーさんが、ずんずんと、僕たちの横を追い抜いていく。抜きざまに僕の背負う『それ』を見て。彼女は心底嫌そうな顔で、わざとらしく、これみよがしに長い息を吐いてみせた。
「……やっぱり、私、先頭を行くわ」
彼女は、僕たちの背に吊るされたものを見るのが、よほど嫌なのだろう。
「さあ、さっさとリヨンに戻って、今日の成果を報告するわよ! 私が先導するから、二人とも、遅れないでついてきて!」
マリーさんは、そう一方的にまくし立てると、まるで僕たちの背中から逃げるように、森の道を行く。その後ろ姿は、いつになく必死に思えた。
僕とミゲルさんは、顔を見合わせる。
それから、どちらからともなく、小さな苦笑を漏らす。
「マリアンヌ殿は、こういうものは、苦手でいらっしゃるようで」
「はは、そうみたいだね。そもそも、首が好きな女性なんて、いないだろうけど」
「おっと、確かにそうでした。……さすがは、我がご主君です」
先頭を時折、僕たちの様子を窺うように、ちらちらと振り返りながらも、決して歩みを緩めないマリーさんがいた。
その、少しだけ必死な背中を、僕とミゲルさんが静かに、どこか温かい気持ちで見守りながら、歩き続ける。
◆ ◆ ◆
リヨンの西門をくぐり、僕たちがギルドの扉を押し開けると、それまでの喧騒が嘘のように、ぴたりと止んだ。
嵐の前の静けさ、とは、まさしくこのことか。
ギルドホールにいた全ての冒険者たちの視線が、僕たち三人……いや、違う。僕とミゲルさんが背負う、血の滴るグロテスクな荷物へと、突き刺さっていた。
やがてその静寂は、ひそひそとした囁き声へと変わり、それから、抑えきれない興奮の波となって、ホール全体へと広がりを見せていく。
雑多な人の波と声が、僕たちに押し寄せる。
「お、おい。領主様の緊急依頼、もうクリアしちまったのか!?」
「嘘だろ、先週貼られたばかりだぞ!」
「見ろよ、あの黒くてゴツイ首……間違いねえ、黒オーガだ」
「なんだありゃ、気味が悪いほど真っ黒じゃないか」
「ああ、奴ら、やりやがったのか……」
「クソーッ、俺達も狙ってたのによ!」
「おい、なんで、あのアンさんまで一緒にいるんだ?」
「まさか、あの金髪の小僧のパーティーに入ったとかじゃないよな?」
「なっ、嘘だろ!? 誰にもなびかなかった、あのアンさんがか!?」
「知らんのか? アンさんが最近、あの小僧に入れ揚げてるって、もっぱらの噂だぜ」
「マジかよ……」
「……気に入らねえな。今度、締めちまうか?」
「やめとけ、馬鹿。アイツらを倒した連中だぞ」
「……ちっ、それもそうか」
好奇と嫉妬、それに少しの畏怖が入り混じった視線の壁。
居心地の悪い空気の中を、マリーさんは、まるで荒波を割って進む船のように、堂々と、掻き分けていく。
そして、受付カウンターをバンッ、と叩かんばかりの勢いで、彼女は、その場にいる全ての者たちへ、高らかに、僕たちの勝利を宣言した。
「私たち三人が、領主様からの緊急依頼を達成してきたわよ! さあ、さっさとギルドマスターを呼んで頂戴!」
彼女の張りのある、どこまでも誇らしげな声が、静まり返ったホール全体に響き渡った。
僕は、そんな彼女が切り開いてくれた道を通るように、スクルさんが待つ査定窓口へと、ミゲルさんと共に進み出る。
そこで背負っていた、ずしりと重い『討伐の証』を、カウンターの上へとドサリと置いた。禍々しい黒オーガの角と、その虚ろな双眸が、恨みがましくこちらを覗いているようで、僕は思わず、視線を逸らしてしまう。
続けて、マリーさんがこの二日間で得た、こまごまとした戦利品と共に、あの、不気味な黒い魔石を、ゴトリ、とその首の隣に置く。
査定窓口のスクルさんは、黒オーガの首を一瞥した時は、さすがにその眉を僅かに上げたものの、まだ、どこかに「お前たち、やりおったか」という、納得の表情を見せていたのに。
けど、彼の視線が、その真っ黒な魔石へと移った瞬間。
百戦錬磨のポーカーフェイスが凍り付き、破綻の表情へと様変わりする。
ギルドの他の職員たちも、その、あまりにも不吉な色をした魔石に気づき、息を呑んでいるのが分かった。
やはり、この黒すぎる魔石は異常で、異質なものなのだろう。
もはや、聞くまでもないのかもしれない。けれども、僕は念のために聞いてみた。
「あの、スクルさん……この魔石について、何か、ご存知ですか?」
僕が、おそるおそる尋ねると、彼は眉間の皺を更に深くし、まるで呪物でも見るかのように、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや。こんな、光すら吸い込むかのような禍々しい色の魔石は、この俺も、見たことがない……」
「──騒がしいな。一体、何事だ」
その時、二階へと続く階段の上から、低く、されど有無を言わさぬ、威厳に満ちた声が降ってきて驚く。
声の主は、このリヨン冒険者ギルド支部を束ねる、ギルドマスターその人。
その、歴戦の猛者のような鋭い視線が、まずホール全体を睥睨し、次にカウンターの上の惨状を一瞥する。
それから僕、ミゲルさんと、順に値踏みするように見た後、最後に、マリーさんへと、その視線が注がれた。
ほんの一瞬、鋼のようだったはずの彼の眼差しが僅かに、人の温かさを取り戻したのを、僕は見逃さなかった。それは、手に負えぬ娘の、無謀な帰還を目の当たりにした父親のような。呆れと、心配と、ほんの少しの安堵が入り混じった、非常に複雑な色をしていたように思う。
だけど、それも本当に一瞬のこと。
彼は再び、この場を支配する長としての仮面を被り直し、有無を言わせぬ迫力で告げた。
「……話の続きは、私の部屋で聞こう。ついてきなさい」
彼の言葉は、その場にいる全員に向けられていたはずなのに、なぜか、その強い視線は僕一人にだけ、注がれているようだった。




