第7話 医療と魔法が合わされば、それは最早奇跡
突如始まった。知らない世界での新しい生活は、子供からという波乱含みのスタートでしたね(笑)。
さてさて、この世界。皆が想像しているよりもずっと食事は美味しいのだけど、いかんせん味のバリエーションが少なすぎる。基本は塩味か、香草による香り付け程度なのだから。素材が良いだけに何とも惜しい。
前世で、塩で頂くのを好んでいた僕は全く問題ないけれど、ソースやマヨネーズが無いと食事が進まないような人達には、この世界は厳しいだろう。女性には特に厳しい環境かもしれない。甘味のない世界、あなたは耐えられるだろうか?
我が家は騎士爵で、こう見えても平民よりはずっと裕福なのだが、甘い物など唯の一度も食卓に並んだことがない。もっと高位の貴族なら違うのかもしれないけどね。異世界転生とは、皆が思ってるよりずっとハードなものなんだ。
現世に嫌気がさしたからトラックに突っ込み、いざ異世界へ。なんて甘い考えは捨てるべきで、それは小説に影響されすぎている。ふふん、僕は優しいから忠告してあげる。
◇ ◇ ◇
朝食に、ほんのりと土の香りがする根菜スープと、ライ麦パンのようにずっしりとした硬いパン。香草と塩でシンプルに味付けされた鶏肉を頂いたら、剣術の稽古を始めよう。今日は久しぶりに父さんがいるから、見てもらえるかも。
ちなみに父さんは名をアドリアンといい、当然コンスタンツェ家の家長だ。
僕からすれば、突然始まった親子関係だけれど、共に過ごすうちに情が湧くのは自然な流れだと思う。
落馬で頭を強く打ち、連日に渡って意識不明だった僕は、目覚めれば記憶が無いという設定にも拘わらず、いつも優しく育んでくれた両親だから、父や母と呼ぶことにもう何の抵抗もなかった。むしろ感謝すらしているし、何なら愛しさすら感じているよ。
「はっ」「やっ」
掛け声と共に父へ斬撃を見舞うが、いとも簡単にいなされた。
相手は現役の騎士。子供相手にわざと隙を見せて、攻撃を誘う必要もなければ、動作に虚実を織り交ぜる理由もない。駆け引きの一切が必要なく、ただ放たれる子供の斬撃を苦もなく受け止めては、容易く払いのける。
向かい合う親子の間には、圧倒的技量と膂力の差が厳然として存在していた。
「父さんは強いなぁ、歯が立たないや」
「わはは、フェリクスも強くなっているぞ?」
父さんは快活に笑いながら励ましてくれる。
「そうかな、相手が強すぎて、全然実感が湧かないんだよね」
「村でお前の相手を出来るような子は、おらんしなぁ……」
本当は同程度か、僅かに勝る程度の稽古相手がほしいところ。それが最も効率的で上達も早く、モチベーションの維持も楽だから。父さんもそれはわかっているのだろうけれど、こんな辺境の小さな村では、望むべくもないことだった。
「さぁ、もう一度だ。来なさい」
父さんは僕と手合わせ出来るのが、嬉しくて仕方がない様子。
あの日死んでいたかも知れない息子と、こうして剣を交え、その成長を実感できることが堪らなく幸せなのだろう。良い人達に恵まれた第二の人生だと思う、本当に。
父さんとの剣の訓練を終えると、そう、午後はあのアンリエッタさんとの至福の時がやってくる。ちなみに、未だ例の公式を崩せた者はいないのが残念。
「あらあら、頑張るのは良いのですが、これは少し痛そうですね」
毎日の素振りで、マメと傷だらけだった僕の手のひらを見たアンリエッタさんが、心配そうに眉を寄せ呟いた。
「……では、今日は趣向を変えて、治癒魔法の練習を始めてみましょうか」
「治癒って、まさか、これを魔法で治すの?」
「ええ、見ててくださいね」
彼女は僕の傷ついた手のひらに、そっと自分の手を翳すと、柔らかな雰囲気を纏った声で何やら言葉を唱え始めた。そう、これは魔法の詠唱だ。
「森の恵みよ、傷を癒したまえ 【シルウァヒール】」
彼女の魅力的な唇から紡がれた言葉と共に、アンリエッタさんの手から淡く清らかな緑色の光が溢れ出して、僕の手のひらを優しく包み込んでいく。
温かいような、それでいて清涼なような不思議な感覚。すると、ゆっくりながらも赤く腫れていた創部の熱が引いて、破れた皮や擦り傷が塞がっていく。気が付けば痛みも嘘のように消え去っていた。
これは余談だけど、治癒魔法の淡い光をキラキラと反射した、彼女の真剣な蒼玉の瞳は本当に美しかった。見惚れてしまう、とはこのことか。
「す、すごい、すごいよアンリエッタさん。手が痛くない」
嘘だろう? 初めて炎の魔法を見た時は、それはもう感動したけれど、治癒魔法のインパクトはそれを軽く上回る。元現代人からすれば、これはもう神の御業、奇跡としか例えようがない。
「まるで、黒曜の女神様じゃないか……」
思わず、そんな言葉が口をついて出てしまう。するとアンリエッタさんは一瞬きょとんとした後、頬を薄っすらと赤く染め、照れたように視線を背けてしまった。
彼女のこんな初々しい姿、初めて見たかもしれない。もちろん、魔法を褒めた時のみ見せる、得意げな表情も見逃してはいませんけどね。
「……っ、そんな。ま、まま、魔法封じのせいで、効果が弱くてご、ごめんなさい」
照れを隠すためなのか、首元に今もあるであろう魔封じの輪を服越しに弄るアンリエッタさん。その仕草が、その場所が、『神域』事件を鮮明に蘇らせる。思い出すだけで恥ずかしいやら、また見たいやら。
女性に負けず劣らず男心だって複雑なのさ。
「ささっ、今見たのをイメージしながら、左手は自分で治してみてください」
妙に早口なアンリエッタさん。
「僕が自分で? って、もう?」
「ええ、やってみましょう。もし出来なければ私が治しますから」
「さすがに、早くないかな?」
フルフルと首を振るアンリエッタさんが可愛い。けど、その動きに合わせるように、小ぶりな『神域』が少し揺れて、存在を主張しておられますよ!
大丈夫です! 僕だけは、そこにおられるの存じ上げてますからね!
ぱんぱんと、思わず拝みそうになるけど我慢我慢。
むう。アンリエッタさんのせいで思い出しちゃったじゃないか……。一度思い出すと、脳から追い払うの大変なんだぞ。思春期なんだから配慮してよね。
それはそうと『見てすぐにやれ』
だなんて、ああ見えて意外とスパルタさんなんだ。
「わかった、頑張ってみるよ」
「粘り強く頑張れば、いつか出来るようになりますから。ぼっちゃまなら猶更です」
今日まで彼女に教わり、ひたすら続けてきた魔法の基礎。それは、まず自分自身の体内にある魔力の流れを知り、その存在を常に意識すること。それからは、その流れを意識的に操り、魔法を行使したい体の部位、あるいは体外へと正確に放出する。
それらが安定して行えるようになれば、次は、炎を大きくしたり小さくしたり、形を変えたりしながら、長時間維持し続けるという、大変地味な訓練の繰り返しだった。
アンリエッタさん曰く『魔力をただ瞬間的に、大雑把に放出するだけなら誰にでも出来ます。けれど、それでは実戦で役に立ちません。時と場所に応じて、放出する魔力を精密に制御し安定させることこそ、一番に習得を目指すべき、最も重要で最も難しい技術なのです』と教わってきたんだ。
加えて魔法のコツは、具体的なイメージを強く持つことだそう。
例えば炎の大きさや、治癒前後を鮮明に思い描くことが重要で、そのイメージと連動させるように魔力を調節し、放出する。まあ、中には精霊に愛されて、その力を借りて魔法を使うなんて例もあるそうだけど、僕にはまだ縁が無く、よく分からない。
言っておくが、イメージさえ出来ればどんな事柄でも行使可能な訳じゃない。魔法とはそこまで万能では無いようで、術者が抱くイメージと世の理が合致して初めて魔法として現象化するのだそう。だから、地水火風雷光闇以外の、例えば時を遡るなんてことは、どれだけ強くイメージしても不可能らしいよ。
じゃあ、僕はどうやってこの世界に来たのだろう。という、根本的な疑問は残るけど、まあ、それはそれとして。これは美しいアンリエッタ大先生からの受け売りだから、皆、心して聞くように。
──何よりもイメージが必要かぁ。
うーん、別に馬鹿にする訳ではないけれど、この時代の教育レベルはお世辞にも高いとは言えない。おそらく庶民の家には本など殆ど無くて、知識を得る手段は口伝くらいしかないはず。生まれた村から一度も出ることなく、生涯を終える人だって少なくなさそう。
そんな人達がイメージできる範囲は、どうしても限界があるのではないだろうか。その点、僕は違う(キリッ)。前世では最高の教育を受けてきたし、本やテレビ、動画配信やネットなど、イメージを構築するツールに事欠かない世の中だった。
そして何より、僕の前職は『医師』だ。
こと人体の構造や機能、正確なイメージに関しては、この世界の誰よりも鮮明で、正確なものを持っている自信がある!
改めて、左手をジッと見つめてみる。
傷ついた毛細血管や組織が修復され、炎症が鎮静して行く様を。それに同調するかのように真皮や表皮が再生されていくイメージを丁寧に作り上げていく。
言葉に出すことでより強くイメージしやすいなら、僕ならこんな感じだろうか。
「生命の輝き、再生の光よ疾くあらん【ファストヒール】」
前世で言う応急処置と、アンリエッタさんの治癒を混ぜてみた。治癒力と即効性に主眼を置いたオリジナル治癒魔法。
患部から淡く輝く魔法の光が失われた時、僕の治療は完了していた。
うん、完全に元通りだね。
「え? ええっ?」
素っ頓狂な声と共に、アンリエッタさんが突如僕の左手を両手で掴んでは、表や裏に、それこそ側面まで何度も念入りに確かめている。
「えええー? すごーい」
アンリエッタさんにガバッと抱き上げられ、その場でくるくると回る二人。
は、は、初めて頬に触れるアンリエッタさんの双丘に、僕はどうにかなってしまいそう。しかも密着だよ。あ、だめ、幸せで死んじゃう。
みんな、さようならぁぁ~。




