第69話 奪われた二人に
地に伏した僕の上に、覆いかぶさるように抱きつくマリーさんがいる。
あちこちを強く打ちつけ、軋むように痛む体に、それでも、彼女の重さと温もりが心地よかった。
彼女も、ミゲルさんも生きている。
その事実が、心の底から嬉しかったんだ。
だけど、その束の間の多幸感を切り裂くように、二つの咆哮が、同時に轟いた。
一つは両腕を失い、血の憤怒に燃える黒オーガの絶叫。
そしてもう一つは、僕が水の檻に囚えていたはずの、もう一体の黒オーガ。奴の復活を告げる凄絶な雄叫びだった。
……ちっ、さすがに水球程度で倒せるほど甘くはないか。
僕たちに有利な状況とはいえ、強敵が二体とも健在である事実に変わりはない。
「起きないと……!」
マリーさんはハッとして、慌てて僕の上から飛びのくようにして身を起こす。
「フェリクス君、立てる!?」
彼女が僕の腕を掴み、力強く引き起こしてくれようとする。
その、体を起こす動作が引き金になったのだろう。僕の脇腹に、息が詰まるほどの鋭い痛みが走った。
「ぐっ……」
まずいな。肋骨に、ヒビでも入ったかもしれない……。
散々に打ち付けられたものな。
どうにか立ち上がったものの、足に力が入らず、体がぐらりと傾いてしまう。
「危ない!」
よろけた僕の体を、今度はマリーさんが、その上半身で必死に支えてくれた。
僕の体重を支え、すぐ間近にある彼女の整った顔。
その顔は熟れた果実のように真っ赤で、瞳は、僕が今まで見たこともないほど、熱っぽく潤んでいた。
なんだろう、このマリーさんの表情……。ああ、そうか。
彼女はまさに、九死に一生を得たばかりなのだ。
極度の緊張状態からの解放。こんな熱っぽい表情になるのも、無理がないのかもしれない。
「くっ、すみません。治癒魔法をかけ終わるまで、このまま、少しだけもたれさせてください」
「……うん」
僅かに、僕を支える彼女の腕に、力がこもった気がしたのは、気のせいだろうか。
「生命の輝き、再生の光よ疾くあらん【ファストヒール】」
淡い緑の光が、激突の衝撃で軋んでいた僕の体を、急速に癒していく。
やがて光が収まり、脇腹を走っていた鋭い痛みが、随分とましになっていた。僕は彼女の肩から、そっと体を離す。
もう、支えてもらわなくても、大丈夫だろう。
「あっ……」
僕が離れた、その瞬間。
マリーさんから、声にならない、小さな、小さな吐息が漏れた気がした。
だけど僕の意識は、その音の意味を深く考えるよりも先に、自分の体の回復を確かめ、それからすぐに目の前の彼女の安否へと向かう。
僕は改めて彼女へと向き直る。
気付けば無意識のうちに、彼女の両肩を今度は僕が、彼女を支えるかのように強く掴んでしまっていた。
「マリーさん、貴女こそ、かなり危ない状況でした。どこか怪我はありませんか!? 痛むところがあれば、すぐに言ってください」
僕の目が、彼女の頭の先から足の爪先までを、異常がないか確かめるように何度も往復する。
──顔は? その端正な顔立ちに、傷でもできたらどうする。
──次に上半身。ここは致命傷になりかねない、胸や、腹は?
──最後に下半身。脚に動きを妨げるような、大きな怪我はないだろうか? 腿には大きな血管もある。
あまりにも真剣で、ちょっぴり行き過ぎた僕の視線と行動(?)に、マリーさんの顔が、先ほどよりもさらに赤く染まってしまう。
「だ、大丈夫……だから、そんなに近くで、じろじろと、見ないで……よ」
その声は、いつもの頼れるお姉さんのものではなく、か細く恥じらう、一人の女性のものだったと思う。
何がそんなに恥ずかしいのやら。僕はただ、元医師として、彼女の怪我の具合を心配しているだけなのに。
僕が彼女の変調に戸惑っていると、ミゲルさんの叫び声が、黒オーガたちの地を揺るがすような雄叫びと木霊した。ハッとして僕たちは、腕を失った黒オーガと対峙する彼の元へと視線を向けた。
「ミゲルさん、いま行きます!」
僕とマリーさんは、目だけで互いの意思を確認する。
──援護に向かう!
僕は父さんの刀をもう一度、強く握りしめる。
脇腹の痛みを奥歯を噛み締めて捻じ伏せ、仲間を守るために、再び走り始めた。
ミゲルさんの元へと駆けつける。その僅かな時間で、僕は戦況を冷静に分析し、決断を下す。
「マリーさん」
隣を走る彼女に、僕は叫んだ。
「ミゲルさんと共に、両腕を失った方のオーガに、とどめをお願いします!」
「分かったわ! でも、フェリクス君は?」
「僕はもう一体を。奴が、あの強力な大戦斧を、再び手にすることだけは、絶対に阻止しなければ」
「……無茶、しないでね」
その声に込められた、いつもとは違う響き。心が揺さぶられるけど、今は、それどころではなかった。
僕の意図を即座に理解したマリーさんは、ミゲルさんの元へと合流し、僕はそのまま、水の檻から解放された黒オーガの元へと駆け寄る。
見れば奴は、地面に突き刺さったままの相棒の大戦斧へと、今まさに駆けだそうとしているところだった。
「させるか!」
僕は奴が戦斧にたどり着く、その導線を断ち切るように、鋭く回り込み、その巨体へと斬りかかった。
その頃、反対側では──。
「ミゲル君、援護するわ。待たせてごめんなさいね」
「マリアンヌ殿、ご無事でなによりです。ご主君も」
互いの無事を確認したミゲルさんが、再び闘志を奮い立たせる。
両腕を失った黒オーガは、もはやマリーさんの漆黒の矢から逃れる術を持たない。
だが、その巨大な体躯から繰り出される体当たりや、鉄槌のような蹴りは依然として脅威だ。まともに食らえば、大惨事となるは必定。
まだまだ、油断できそうにない。
「グルアアッ……!」
腕を失い、最大の攻撃手段を失った黒オーガは、ただ憎しみに任せ、ミゲルさんを踏み潰そうと、その巨大な足を振り上げる。
だが、ミゲルさんは、もはやただの『壁』ではなかった。
彼は、戦斧ではない蹴りであろうと、その一撃を盾で巧みにいなし、衝撃を逃がしながら懐へと潜り込む。そして、体勢を崩した黒オーガの懐で長剣を巧みに使い、切りつけていく。
敵の動きを少しずつ、確実に、削いでいく。
マリーさんは後方で、ミゲルさんが創り出す一瞬の隙を、ひたすら待ち続けていた。黒オーガが、ミゲルさんの執拗な斬撃に苛立ち、気を取られ、その意識から完全にマリーさんへの警戒を解いた瞬間。
「──今よ!」
彼女の瞳が、先達者のそれへと変わる。
放たれた一矢は寸分の狂いもなく、両腕を失いし黒オーガの眼球を深々と貫いた。
「グ、ルァ………………」
奴の最後の、声にならない絶叫。
眼球ごと脳を貫かれた巨体は、大きな地響きと共にゆっくりと、その場に崩れ落ちていった。
一体目の黒オーガが完全に沈黙した、そのあと。
残されたもう一体の黒オーガが、片割れの死を悼むかのような、悲しみに満ちた咆哮を上げた。僕たちの胸に、何も響かない叫びが……。
すると意外なことに、奴は僕たちに背を向け、森の奥深くへと逃走の体勢に入ったのだ。
「逃がす訳がない!」
「そんなこと、させないわ!」
片割れを倒したマリーさんとミゲルさんが、即座に反応する。
二人は、すかさずその後方へと回り込み、奴の逃げ道を挟み撃ちにするようにして、完全に塞いでくれていた。
(……くっ、体が、重い……!)
僕も、とどめを刺すべく、奴の背から斬りかかる。
以前よりは確かに深く、奴の身を刻むことができてはいる。けれども、どういう訳か……自分の体が、まるで鉛の衣でも纏っているかのように、ひどく重いのだ。
あの、蒼き閃光と化した神速の一撃。
その代償として、僕の肉体は、まだ悲鳴を上げ続けているのかもしれない。あるいは、あの二つの扉の解放による、著しい消耗か……。
僕が自らの体の異変に戸惑っている、その隙を、奴は見逃さなかった。
退路を断たれるなか、僕の追撃が鈍っていることに気づいたのだろう。
黒オーガは再び、その血のように赤い双眸に憎悪と殺意の炎を滾らせ、僕を正面から迎え撃つべく、その体勢を立て直す。
「まさか……後ろの二人より僕を選んだ? はは、上等じゃないか。今度こそ決着をつけてやる」
僕は内なる歓喜を懸命に抑え。刀を構え直す。
その後方でマリーさんが再び漆黒の弓に矢を番え、ミゲルさんが傷だらけの白銀の盾を、固く構え直すのが見えた。
僕と黒オーガの、一対一の死闘が始まった。
重い体を引きずりながらも僕は、奴の、ただ力任せなだけの、しかし、一撃でも受ければ重傷は免れない大振りの攻撃を見切り、躱し続ける。
鉄槌のような一撃が、僕の鼻先を掠める。
轟音と共に大地が深く抉られ、爆ぜた岩の破片が礫となって散った。そのうちの一片が、僕の頬を浅く切り裂く。じくり、と熱い痛みが走り、一筋の血が顎へと伝う。
そんな僕と宿敵の、一進一退の攻防の僅かな隙間を縫うようにして、マリーさんの矢が的確にオーガの背中や脚の関節へと突き刺さっていく。
それは致命傷にはならずとも、確実に奴の体勢を崩し、その動きを僅かずつでも鈍らせていた。
その間近でミゲルさんが、マリーさんを守る最後の砦として、どっしりと盾を構えて立ってくれている。その存在が有り難かった。
マリーさんに一切の憂いなく、弓を引き絞ることを可能にさせていたから。
やがて、彼女の一矢がついに、悪鬼の膝裏を綺麗に捉えた!
「グ、ガァッ!?」
巨体が、初めて明確にバランスを崩す。
片膝を付き、眼前へ降りてくる奴の急所。
前のめりになった体勢で、がら空きになった太い首。
──今だ、父さんッ!
僕は残された最後の力を、父さんの刀へと注ぎ込むように握りしめる。
体は、変わらず重い。
今は光らない、右手に宿る蒼き聖痕への、感謝の想いをも乗せて。
軋む体で、奴の、隙だらけの太い首筋へと、深々と刃を突き立てた。
ズブリ、と、肉を貫く鈍い感触。
僕の刃と、刺された首の間から、鮮血が紅い花びらのように、鈍色の空へと舞い上がった。
時が、止まる……。
黒き宿敵の血走った赤い双眸から、生命の光が急速に失われていく、万感の刻。忌むべき巨体は、悔恨尽きぬ宿敵は、僕の目の前で、ただの巨大な肉塊となって……地響きを立てながら崩れ落ちていった。
「終わった、のか……?」
僕のか細い呟きが、静まり返った森に、ぽつんと小さく鳴った。
手の内に残る、肉を断った生々しい感触。父の形見であるこの刀が確かに、宿願を果たしたのだ。
「父さん……やったよ。ようやく、父さんの無念を、この手で……」
その想いが胸を満たすと同時に、どうしようもない虚しさが心を蝕んでいく。
大好きだった父はもう、この世のどこにもいない。
……ううん、違う。まだ、終わりじゃない。
この勝利の先に、僕が本当に取り戻したかった、温かい光がある。
アンリエッタさん……。
これで、やっと……。貴女の元へ、帰れるんだ。
溢れ出した万感の想いに、僕の全身を支えていた最後の緊張の糸が、ぷつりと、音を立てて切れてしまった。
父さんの刀が、カラン、と乾いた音を立てて地面に転がる。
僕だけじゃあない。
少し離れた場所で、ミゲルさんもまた盾と剣を投げ出し、天を仰いでいた。その肩が大きく、そして、ゆっくりと上下しているのが見える。
それは、言葉にならない雄叫びだったと思う。
一人は、幼少から愚直なまでに努力を続けるも、騎士への道を理不尽に断たれ、その体と心を深く傷つけられた男。
もう一人は、この世界に来て、初めて得たはずの温かい家族を、その父を、愛しき人を理不尽に奪われた少年。
出自も、育ちも、その性格も──
何一つとして重なり合うことのない、二人。
けれど、その胸の奥底に刻まれた理不尽に、大切なものを奪われた、その痛みの形だけは。驚くほどに、よく似ていたんだ。
そんな、似るはずもない二人の、これまでの長き日々の全ての想いが、声にならない叫びとなって、鈍色の森の空に響き渡っていた。
やがて、僕たちは、どちらからともなく、よろよろとお互いの方へ歩み寄る。
そうして互いの健闘を称え、その傷ついた体を支え合うように、強く、強く、抱き合った。
「ミゲル、さんっ……」
「ご、主君……ううっ」
そんな僕たちをマリーさんが、後ろから、その両腕で全てを包み込むように、優しく抱きしめてくれた。
「二人とも、本当によく頑張ったわね。……あなたたちは、私の、誇りよ」
「マリーさん……」「マリアンヌ殿……」
三人の頭が、こつん、と、優しくぶつかる。
それは心地よい、そして、どうしようもなく温かい痛みだった。




