第68話 瞬間、蒼く輝いて
薄闇の森に木霊する、甲高い金属音。
僕の目前で、あの巨大な大戦斧の刃が割れ落ちた。
いくつもの破片となって。
その光景は僕が相対す悪鬼だけでなく、もう一体の悪鬼の注意すらも、こちらへと引き付ける。それほどに衝撃的な瞬間だった。
──その、数秒にも満たない好機を、彼女が見逃すはずもない。
「貫いてッ!」
マリーさんの鋭い声と、矢を放つ音はほぼ同時。
漆黒の愛弓から放たれた一矢が、甲高い風切り音を立てて宙を駆ける。
これまでの牽制射ではない。あの特訓で高められた彼女の渾身の一箭が、沢山の想いを載せて飛翔する。
もう一体の異変に気を取られ、無防備を晒した愚かな黒オーガへ。
彼女の矢は、その油断しきった胸のど真ん中へ、吸い込まれるように深々と突き刺さった。
「グギャアアアアアッ!」
それまでの唸り声とは質の違う、明確な苦痛と、燃え上がるような憤怒に満ちた咆哮が、森全体を震わせた。
黒オーガの双眸から、理性の光が消え失せる。
それまで、ミゲルさんの盾術を試すように続けていた、どこか、遊戯にも似た小競り合いの時間は、終わりを告げた。
血のように赤いその瞳は、今や、ただ一人だけを映している。
自らの胸に矢を突き立てた、あの、涼やかな緑風が美しい彼女だけを。
「くっ、こっちを向け、この化け物が!」
ガンッとミゲルさんが盾を激しく打ち鳴らし、奴の注意を必死に引こうと叫んだ。
だが、黒オーガはもはや彼の存在など意にも介さない。
その巨躯は完全にミゲルさんを無視し、マリーさんだけを見据え、一歩、また一歩と地響きを立てて距離を詰めていく。
後衛の弓術士であるマリーさんにとって、その歩みは死の宣告にも等しかった。
「行かせるかぁっ!」
ミゲルさんが盾を投げ捨てる勢いで、黒オーガの足元へと飛び込む。
彼の長剣が、奴の太い脚や振り下ろされようとする腕を、何度も何度も懸命に切りつけた。だが、その刃はまるで分厚い岩盤を叩いているかのようだ。
浅い切り傷から血が滲み、ぶつかり火花が迸っても、黒オーガの猛進は一歩たりとも止まらない。止められない。
彼の渾身の、一撃一撃が。
まるで、児戯のように、いなされていく。
くそっ、どうすればいい!
僕の眼前では、武器を失ったはずの悪鬼が、その拳を巨大な槌のように振りかぶり、次なる攻撃の体勢に入っている。
マリーさんの元へ助けに向かえば、僕自身が致命的な隙を晒すことになる。その果てに待つのは、二体の悪鬼との絶望的な乱戦だ。
そんな僕の逡巡を、嘲笑うかのように。
マリーさんの顔から、恐怖の色がすうっと消えた。
そんな彼女の瞳に宿ったのは。
この、血と、怒号に満ちた戦場には、あまりにも似つかわしくない。
どこまでも静かで、そして、穏やかな、光だった。
彼女は手に持っていた愛弓を、そっと背中に回す。
その白い手が迷いなく、僕が渡した腰の小剣の柄を握りしめる。
シュッと、革の鞘から抜き放たれた刃が、鈍い銀色の光を放った。
その姿は、後衛たる弓術士が、死を覚悟して近接戦闘に臨むという、あまりにも、悲壮な決意の表れのようで。僕の心に、強烈な焦燥感を生む。
まずいぞ、このままではマリーさんが……!
僕の思考が焦りで、焼き切れそうになった時。
ふと脳裏に、アンリエッタさんの悪戯っぽい笑みと声が、天啓のように蘇る。
『力の制限がなかったら……もーっと大きな水球で、誰かの頭をすっぽりと覆えてしまえますもの』
──そうだ、その手があったか!
いまや眼前に迫らんとす、黒オーガの槌のような拳。
それを後方へ鮮やかに躱すと、僕は急いで左手を突き出す。
掌へ、この一瞬に込められるだけの魔力を注いで──!
僕の手から放たれた水の塊が、黒オーガの頭部全体を完璧な球体となって覆い尽くしていく。
それは呼吸の隙間さえ与えない、玲瓏たる水の牢獄。
「ゴボッ、グブッ……!?」
息もできず視界も奪われ、悪鬼が苦悶の声を上げた。
これなら、僕も救出に向かえる!
水牢に囚われた悪鬼を、僕は背中で感じながら。
今は振り返らない。
視線の先、ただ一点だけを目指して全速力で駆けた。
マリーさんは死を覚悟した瞳で、振り下ろされる大戦斧の軌道を見据えている。
その刃が彼女の華奢な体に届く寸前、彼女は体の捻りを最大限に使い、僕が渡した小剣の腹でその無慈悲な一撃を側面へと、鮮やかに受け流したのだ。
それはまさしく、神の業だったと思う。
けれど──身を襲う想像を絶する衝撃に、彼女の軽い体は木の葉のように宙を舞い、後方へと吹き飛ばされてしまう。
「きゃっ!?」
受け身を取り損ね、地面に叩きつけられた彼女の直上へ、悪鬼が勝利を確信したかのように、無慈悲な大戦斧を高々と振り上げた。
「やめろッ!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫が、森に木霊する。
「その女を殺すな!! こっちを向けえええええっ!!」
だが、奴は僕の懇願を嘲笑うかのように止まらない。
その刃がゆっくりと振り下ろされていく光景が、僕の目には永遠のように引き伸ばされて見えた。
「マリィィィィィィッ!!」
大戦斧が今まさに、彼女の命を絶たんと振り下ろされる。
そんな永遠にも思える、時の止まった世界で。
僕とマリーさんの視線は、確かに交わった。
彼女は、笑っていたよ。
絶望でも、諦めでもない。
全てを許すかのような、あまりにも穏やかで、優しい笑みで。
なぜ、笑うんだ。
なんで、そんな顔ができる。
死ぬ、死んでしまう。貴女の生命が終わってしまう。
なのに、どうして笑えるんだよ……ッ!
最後に、僕の記憶に残る自分の姿だけは、どうか、美しいものであってほしいと願うように……。
嫌だ、そんな風に笑わないでくれッ!
僕の思考が、絶望に黒く塗りつぶされようとしたその時。
ガチャン!
と、硬い金属が石畳に打ち付けられるような、甲高い音が耳に届いた。
視界の端に、信じられない光景が映る。
ミゲルさん!?
彼は自らの命綱であるはずの、剣も兜も、あの白銀の盾さえも全て、かなぐり捨てて。ただ一歩でも速く彼女の元へ、たどり着くために。
たった一つの身だけを持って──飛んだ。
大戦斧が振り下ろされる、その、死の軌道上へと。
無防備なマリーさんの上に、自らの体を覆いかぶせる、その一心で。
この世は地獄か?
あまりにも、救いが無いではないか。
残酷すぎる光景が、悪夢のような現実が、僕の目には、時が引き伸ばされたかのように、ゆっくりと写っている。
宙を舞う、ミゲルさんの覚悟を決めた横顔。
その、彼を見た、マリーさんの驚きに見開かれた瞳。
二人の命を絶たんと、無慈悲に振り下ろされる巨大な戦斧。
死の光を宿した、鋼の刃という名の……幕が下りる、その刹那。
永遠にも思える、時の監獄の中で。
軋み、悲鳴をあげる僕の魂。
……間に合わないのか。どんなに想っても、悔いても、もう……。
激情が、冷たい諦観に変わる。
全てが、終わるのか、嘆く悲しみの奥底で──
僕の心に、あの愛しき女性の声が、まるで神の言葉が如く、厳かな重みを伴って響き渡る。
『汝、清き憤怒にその身を焦がす者よ。
汝、何物をも恐れぬ、清廉なる勇気を持つ者なれば──今こそ、扉は開かれん』
それが告げられるや、僕の精神の内側に、壮麗な五枚の扉が幻のように浮かび上がる。すると、そのうちの二枚が重々しい音を立てて……ゆっくりと、内側から開かれていくではないか……。
開かれた扉から迸る蒼い光が、僕の存在そのものへと注ぎ込まれてゆく。
その光に呼応するように、僕の右手の甲──父から託された一角獣の聖痕が、鮮やかな蒼光を放ち始めた。
──僕の世界から、音が消失した。
マリーさんの補助魔法『風の寵愛』と、内側から溢れ出す僕自身の力が合わさり、未知の加速が生まれる。
それはもはや速度という概念を超えた。神速。
ミゲルさんが空を舞う、永遠にも思える刹那。僕の体は一筋の蒼い閃光となりて、その間隙を駆け抜けた。
蒼く煌めく聖痕の光が父さんの刀へと伝い、波紋を宿す鋼の刀身を。
蒼い光の刃へと変える。
僕はその蒼刃を、悪鬼が戦斧を振り下ろしきる寸前で、振り払った。
けれど、その神速に迫る勢いは、今の僕が使いこなせる代物ではなかった。
止まれない!
思考とは裏腹に、僕の体は蒼い光の尾を引きながら、ただ前へ前へと突き進む。
まずい、力が……聖痕の光が、消える……!
開かれた二枚の扉が、早くも閉じようとしているのか。
蒼光が完全に失われた時、体を支えていた全ての力が抜け落ちた。
ただの慣性の塊となった僕は、凄まじい勢いのまま、まず地面に叩きつけられる。
「ぐ、あ……っ!」
けれど勢いは死なず、跳ね返った体は次々と木々の幹へと激突し、最後にはごろごろと無様に地面を転がった。
散々に木々に打ち付けられ地を転がる、その光景とほぼ同時。
遅れてやってきた、斬撃の結果が戦場に現れる。
蒼い閃光が一筋、悪鬼の両腕をなぞった、かと思うと。
その手にした、大戦斧ごと。
ずぶり、と根元から滑り落ち、おびただしい量の血を噴き上げながら、地へと落ちた。
「……!」
断たれた腕から血飛沫が舞う、凄惨な光景。
それを、目の当たりにしたマリーさんが、すかさず立ち上がった。
彼女は漆黒の弓を手に取ると。腕を失い、呆然と立ち尽くす黒オーガへと、二射、三射と、立て続けに矢を撃ち込む。
ミゲルさんもまた、無事だったマリーさんの姿に安堵の息を漏らすと、慌てて自分がかなぐり捨てた、白銀の盾と剣を拾い上げた。
「ミゲル君お願い! 少しだけ、持たせて!」
マリーさんはそう、叫ぶと。
矢を番えるのももどかしく、地面に倒れる僕の元へと駆けつけた。
そして、泥だらけでボロ屑のようになった僕の上に、そのまま覆いかぶさるようにして。
その柔らかな体で、きつく、きつく、僕を抱きしめる。
「フェリクス君、フェリクス君、フェリ、クス……くん、うう」
ああ、よかった。マリーさんが生きている……。
朦朧とする、意識の中で。
彼女の生きた証である、震える声が。
温かい体の感触が。
僕の心をどうしようもなく、満たしていく。
それは、あまりにも心地よいもの。




