第63話 前哨戦
──魔の大森林。
ここはその名が示す通りの、ただ木が連なるだけの場所ではなかった。
一歩足を踏み入れた瞬間から、空気が変わる。
ひんやりと重く、濃密な樹海の匂いが肌にまとわりつくように。まだ朝だというのに、幾重にも重なった木々の葉が太陽の光を遮り、森の中は常しえの薄闇に支配されている。
僕たちは、奴の気配を追い、求め。ただひたすらに森の深部を目指す。
僕を先頭に、マリーさん、ミゲルさんと続く、最も軽装なマリーさんの防御を重視した陣形で。そんな三人の間には、緊張の糸が張り詰めていた。
時折、木々の間を何かが通り過ぎる気配や、遠くで聞こえる名も知れぬ魔獣の咆哮が、僕たちの警戒心を殊更に高めていく。
不意に、先頭を歩いていた僕の鼻が、ツンと鼻を突く独特の腐臭を捉えた。
「……待ってください。何か、います」
僕の制止の声に、二人が即座に武器を構える。
僕たちは匂いの元へと、慎重に、そして音もなく近づいていく。
やがて、僕たちが目にしたのは、無残な魔物の死骸だった。
「これは……ジャイアントスパイダー……?」
マリーさんが、眉をひそめて呟く。
その巨大な蜘蛛の魔物は、頭胸部が抉り取られ、体液をあたりに撒き散らして絶命していた。僕たちの視線は抉られた頭胸部の中心、あるべきはずのものが無い、不可解な一点に集中する。
「……また、か」
僕の口から、思わず忌々しげな声が漏れた。
「ええ……。やっぱり、おかしいわ。ここ最近の魔の森は」
マリーさんもまた、僕と同じものを見て、同じ結論に達したみたい。
その顔には、隠しようのない気味の悪さが浮かんでいる。
「ご主君、マリー殿、これは一体どういうことで……?」
ミゲルさんが、困惑した声で僕たちに問いかける。
「魔物の死骸から、魔石だけが綺麗に抜き取られているんです。以前、オークの集落でも、僕たちは同じ光景を目にしました」
僕の説明に、ミゲルさんの顔がさらに険しくなる。
「ほう。魔石だけ、ですか? 牙や爪、肉といった、他の金銭に変えられそうな素材は全て残して?」
「そうなんです。騎士団でこの件について、何か噂のような話とかありませんでしたか?」
「いえ……。私は騎士団の一員として、何度かこの森の中ほどまでは立ち入ったことがありますが、そのような話は、一度も聞いたことがありません」
僕たち三人の間に、重い沈黙が落ちる。
黒オーガという、明確な脅威。
そして、この森を静かに蝕む、正体不明の『何か』
僕たちの知らないところで、この森の、あるい理そのものが、何かに歪められ始めているのかもしれない。
森の奥深くへと進むにつれ、魔物の気配はより濃密に、そして凶暴になっていく。
僕たちは言葉を交わすことなく、ただ互いの気配と、森が発する微かな音に全神経を集中させていた。
そんな中を、森の奥から木々がへし折られるような、メキメキ、という破壊音が響いてくる。続いて、腹の底に響くような唸り声が複数。
気取られないよう細心の注意を払い、そっと様子を窺った。
そこにいたのは三体ものオーガだった。一体一体が、僕が以前戦った個体よりも、さらに大柄で、見るからに屈強そう。
「……オーガか。丁度いいかもしれません、本番前の良い練習になりそうです」
僕は、二人に囁くように指示を出す。
「僕とミゲルさんが前衛を引き受けます、マリーさんは後ろから援護射撃を。ミゲルさん、早速ですが、パーティーの『盾』役、お願いできますか?」
「お任せください、ご主君」
ミゲルさんの声には、恐怖よりも、与えられた役割への誇りが滲んでいる。
「僕は遊撃役として、マリーさんに敵が向かわないよう常に注意を払います。万が一の時はフォローしますから、安心してください」
「頼りにしてるわよ、二人とも」
マリーさんはそう言うと、静かに、淀みない動作で漆黒の弓を構える。
かつて見た、「格好いい」と眺めた横顔が、そこにはあった。
まだ出来たばかりの即席パーティー。
さっき森の浅部で試したゴブリンの群れでは、弱すぎて連携の練習にもならなかった。だが、こいつら相手なら──!
マリーさんが、そっと息を吐く。
放たれた矢は一条の黒い閃光と化し、迫るオーガの太い首筋へと、吸い込まれるように突き刺さった。
「グルオオオオオッ!」
甲高い咆哮と共に、矢を受けたオーガではなく、その両脇にいた二体が僕たちの元へと一直線に突進してくる。狙いは、最初に矢を放った後衛のマリーさんだろう。
「ミゲルさん! 後ろへは行かせませんよ!」
「お任せを、ご主君!」
僕の叫びに、ミゲルさんが即座に反応する。彼はマリーさんへ至る動線に立ちはだかるや、白銀の盾を構え、迫りくる一体のオーガを真正面から迎え撃つ。
彼はもう、あの日のように吹き飛ばされはしない。
僕の教え通り、盾を僅かに傾け、オーガの巨大な棍棒が振り下ろされるその瞬間に、力を加えて、衝撃を側面へと逸らすのだ。
ドゴォォンッ!
肉を打つにしてはあまりに硬質な音が轟き、ミゲルさんの盾を滑ったオーガの一撃が、彼の足元の地面を大きく抉った。
「ぐっ……おおおおっ!」
ミゲルさんは、凄まじい衝撃に体勢を崩されよろめきながらも、その反動を利用して、渾身の力でオーガの太腿へと長剣を薙ぎ払う。
だが、厚い皮と、鉄のように硬い筋肉に阻まれ、剣は浅くその肉を切り裂くだけに留まった。
「くっ、浅いか……!」
ミゲルさんの舌打ちと、ほぼ同時。
彼の頭上を、ヒュッ、と鋭い風切り音と共に二射目の矢が通り過ぎた。
緑風が舞うように放つ彼女の一矢が、ミゲルさんの一撃に気を取られたオーガの胸を、寸分違わず正確に貫く。
「ギッ……!?」
巨体が、一瞬だけ、動きを止めた。
僕は、その光景を横目で流し見る。
見事な防御からの、即座の反撃。そして、その隙を逃さない、完璧な援護射撃。……二人なら大丈夫だ。その想いは、自信から確信へと変わる。
二人への確かな信頼を胸に、僕はもう一体、彼女へと向かって突進してくるオーガへと、その切っ先を向けた。
「──さあ、お前の相手は、僕だ」
地面を強く、強く蹴る。
鍛え抜かれた肉体が、爆発するかの如く。
僕が全速で駆けるそのすぐ脇を、ヒュヒュンッ、と二条の矢が追い抜いていった。
見えざる後方から、音も無く放たれる矢。
普通なら、恐怖で足が竦むかもしれない。だけど、今の僕には、その甲高い風切り音はむしろ、背中を預けるマリーさんからの、力強いエールのように聞こえる。
その音は、僕たちの間に生まれた強固な結びつきを示す証。心地よくさえあった。
オーガが、その巨大な棍棒を僕めがけて振りかぶった、まさにその瞬間。
僕を追い越した二条の矢が、僕をその一撃から守るかのように、奴の太く逞しい右腕に、深々と突き刺さる。
「ギ、ギアアアアアッ!?」
深々と貫かれた激痛に、オーガの初撃は固まり、止まる。
そんな、彼女が創り出してくれた、コンマ数秒の好機を、僕が見逃すはずもない。
僕は、最大限の速度のまま奴の懐へと一気に肉薄すると、がら空きになった脇腹へ向けて、父さんの魂が宿る刀を、深々と、水平に切り裂いた。
ザシュッ、と肉を断つ生々しい感触が、確かに、僕の手に伝わる。
脇腹を深く切り裂かれたオーガは、凄まじい絶叫を上げながら、無様に前へとよろめいていた。
駆け抜けた勢いを殺すため、僕は両足にありったけの力を込めて、大地を強く踏みしめる。ザザザッ、とブーツの底が地面を削り、土を激しく蹴り上げた。
前へ、前へと行こうとする体を、慣性を、強引にねじ伏せるようにして急停止し、流れるように反転。オーガの背後を取った。
僕の目の前には、苦悶に大きく歪む、がら空きの巨大な背中がある。
「──もらった!」
その無防備な背中めがけて、深く、低く、体勢を沈み込ませる。
そして、地面を蹴る力と腰の回転、その全てを乗せた渾身の一撃を、父さんの刀で、奴の背骨に沿って、下から上へと、一気に切り上げた。
ゴリ、ゴリ、という硬い骨を断つおぞましい感触が、柄を握る僕の手にまで伝わってくる。
背中を縦に両断されたオーガは、もはや悲鳴すら上げることなく、ただ、その巨体を、地響きを立てて、ゆっくりと前方へと倒れさせていく。
地響きと共に、二体目のオーガが沈む。
辺りに、血と獣の生臭い匂いを無残にまき散らして。
僕は短く、鋭く息を吐く。父さんの刀を握る手は、まだ骨を断った感触を覚えていたけど、その切っ先は、すでに次なる敵へと向けられていた。
視線を上げると、少し離れた場所で、一体目のオーガに止めを刺したばかりのマリーさんとミゲルさんの姿が見える。
マリーさんの目は、油断なく残る一体へと向けられていた。その額には汗が光っているけど、呼吸はほとんど乱れていない。
彼女の前方では、ミゲルさんが盾を構え直し、どっしりと大地に根を張るように立っている。荒い息をしていたのは一瞬のこと。
今はもう、その呼吸も落ち着きを取り戻していた。
一瞬の静寂。
僕たち三人の間に、勝利への安堵ではなく、次なる一手に備える、研ぎ澄まされた空気が流れる。
その静寂を切り裂いたのは、残る一体──最初にマリーさんの矢を受けたオーガの、仲間を殺された怒りと憎しみに満ちた、天を衝くような咆哮だった。
その咆哮を合図にしたかのように、僕たちは敵を囲むように陣形を組む。
僕の刀、マリーさんの矢、そしてミゲルさんの盾。
三つの意志が、いま再び、一つになる。




