第61話 雨、あがりて
特訓の最終日を無事終えた僕たちは、ギルドホールの一角で、いつものようにテーブルを囲んでいた。
卓上には、大皿に盛られた骨付き肉のローストや、湯気の立つ野兎の煮込み、それから、ちぎって分け合うための硬い黒パンとチーズが、これまでの労をねぎらうかのように並んでいる。
けれど、僕たちの誰も、それに手を付けようとはしなかった。
やりきったという安堵感と、骨の髄まで染み渡ったような深い疲労感が、三人の間に重く漂っていたから。
本当に、辛く、厳しい日々だったと思う。
僕は二人に向かって、深く、深く頭を下げる。
「お二人とも、この数日、本当にお疲れ様でした。そして……一番年下の僕が、今日までずっと偉そうな口を利いて、本当にすみませんでした」
突然の僕の謝罪に、マリーさんが困ったように、けれど優しく微笑む。
「いいの、いいの。私たちに『もしも』がないように、キミが考え抜いた末の厳しさだってこと、ちゃんと分かってるから、気にしないで。それに、ああいうフェリクス君も、なんだか新鮮で……頼もしかったわよ?」
「私は、そもそもご主君を、我が主と見定めた身です。どのようなお言葉であろうと、なんら問題はありません。むしろ、ご主君の期待に応えきれなかった、不甲斐ない自分に恥じ入るばかりの数日間でした」
ミゲルさんもまた、疲れた顔の中にも、まっすぐな忠誠心をその瞳に宿して言う。
いや、その忠誠とやらが、そもそも僕が望んでいないものなんだけどね……。
まいったな。
二人の温かい言葉に、僕は胸が熱くなるばかり。
「……ありがとうございます。明日一日、十分に心と体を休めたら、明後日の朝、いよいよ出発する予定です。今日は思う存分飲んで、食べて、英気を養ってください」
僕のその言葉を合図にしたかのように、マリーさんは目の前の、なみなみと注がれたエールの樽ジョッキに手を伸ばしかけた。けど、そのずっしりと重いジョッキを、彼女の腕は持ち上げることすら拒否する。
指先が、樽ジョッキの取っ手に触れただけで、力なくテーブルの淵へと戻っていってしまった。
「くぅ……っ。この私が、目の前のエールに手が伸びないだなんて。生まれて初めての経験だわっ……」
彼女は、まるで長年の宿敵にでも敗れたかのように、本気で悔しそうに唸る。
その姿に、思わず苦笑が漏れた。
「同じですね……。肉の焼ける良い匂いがするのに、なんだかもう、食欲というものが、どこかへ去ってしまったようで……ふう。なんたる未熟か」
ミゲルさんもまた、目の前の豪勢な食事を前にして、力なく微笑むだけだった。その背筋は、疲労困憊のはずなのに、それでも騎士を目指した男らしく、ぴんと伸びてはいる。
僕は、そんな二人の様子を見て、静かに口を開いた。
「お二人のその状態、おそらく、僕の魔法の限界なんだと思います」
僕の唐突な言葉に、マリーさんとミゲルさんが不思議そうに顔を上げる。
「僕の『インターヴェンション』は、魔力で肉体を強化する際に疲労を取り除くことができます。ですが、極限まで酷使されたことによる、精神の疲労だけは、どうにもできないようで」
「精神の、疲労……ね」
マリーさんが、僕の言葉を繰り返す。
「はい。僕も、子供の頃に試したことがあるんです。この魔法を掛け続ければ、ひたすらに剣の稽古が可能なのでは、などと……馬鹿なことを考えた時期が」
僕は、少しだけ自嘲気味に笑う。
「でも、結果は違いました。体は動くはずなのに、心が鉛のように重くなって、最後には剣を握ることすら億劫になってしまう。……そうして、動けなくなるんです」
「なるほどね、わかる気もするわ……」
「幼少時から切磋琢磨されていたとは……さすがです、ご主君」
僕の告白に、二人はそれぞれ納得したように頷くと、無言のまま、ゆっくりと食事を再開した。
とはいえ、それは英気を養うための、いわば『作業』に近い気がする。
マリーさんはエールのジョッキを、ミゲルさんは肉の煮込みを、義務のように、少しずつ、時間をかけて口へと運んでいく。
その顔に、食事を楽しむような色はない。
しばらくそんな時間が流れた後、不意に、マリーさんが僕へと視線を向けた。
「そういえば、フェリクス君。一つ、確認してもいい?」
「はい、何でしょう?」
「例の話よ。私たちが、どうして金貨百枚……ううん、この黒オーガの依頼を受けようとしているのか。その一番大事な理由、まだミゲル君には、ちゃんと話していないんじゃない?」
マリーさんの言葉に、ミゲルさんが驚いたように僕とマリーさんを交互に見やる。
僕が口を開こうとした、その時だった。それまで黙って聞いていたミゲルさんが、何かを確信したように、ぽつりと呟やき始める。
「……失礼ながら、その話とは。もしや……いつも、ご主君の側にいらっしゃった、あの美しい女性のことでございますか?」
彼の言葉に、僕は衝撃を受けた。
心の、最も柔らかな部分を、鷲掴みにされたような一言。
彼が、アンリエッタさんのことを覚えていてくれたことに……そして、僕たちの会話の断片から、的確にその核心を突き止めたことにも。
「……ええ、そうです。彼女の名は、アンリエッタさん。その彼女は今、商人ギルドで売られる日々を待つばかり……。彼女を解放するためには、金貨百枚が必要になる。この黒オーガ討伐の報奨金、金貨六十枚が僕に残された、最後の希望なんです」
僕の告白に、ミゲルさんは全てを理解したように、一度、固く目を閉じた。
「承知いたしました。ご主君にとってこの戦いは、父君の無念を晴らすだけでなく、アンリエッタ殿を救い出すための戦いでもある、と。このミゲル、必ずや、お役に立って見せます」
ミゲルさんの、あまりにも真っすぐな物言いに、僕もマリーさんも、ただ黙って頷き返すことしかできなかった。
いま、僕たちの目的は、一つになる。
その、新たなる決意が、僕たちの疲弊しきった体に、わずかな活力を与えてくれたのかもしれない。マリーさんが今度こそ、と、エールのジョッキを手に取り、ゆっくりと掲げ、口へと運ぶ。
僕とミゲルさんも、ただそれに倣う。
音のない、とても静かな乾杯だった。
「いや、それにしても、さすがは我がご主君」
彼は、僕とマリーさんを交互に見比べると、一人勝手に頷いている。
「私よりもお若いというのに、すでに奥方様候補を二人もお持ちとは。このミゲル、感服いたしました」
ブフォッ!
ゲホッ、ゴホッ!
僕の正面に座っていたマリーさんが、口に含んだばかりのエールを、見事なまでに僕めがけて噴き出した。
「ちょっ、マリーさん!?」
「ご、ごめ……ゲホッ、あなた、あなたねぇ! いきなり、何を言い出すのよ!?」
エールまみれの僕が叫び、マリーさんが涙目で咳き込みながら、その怒りの矛先をミゲルさんへと向ける構図だ。
当のミゲルさんはというと、なぜマリーさんがこれほど取り乱しているのか、全く理解できないといった顔で、ただきょとんと首を傾げている。
ミゲルさんの、あまりにも斜め上を行く勘違いによって、僕たちの打ち上げは、なんとも言えない奇妙な空気のまま、お開きとなった。
忠誠に燃えるミゲルさんと別れを告げ、僕はマリーさんと二人、夜のギルドホールを出る。
「マリーさん、家まで送りますよ」
「いつもいつも、悪いわ……」
「元・ギルドのナンバーワン受付嬢さんは、今でも色々と面倒なファン(?)に追い回されているかもしれませんからね」
僕が少し意地悪く笑うと、マリーさんは「もう、その話はいいの!」と頬を膨らませる。
「……でも、ありがとう。お願いしようかしら」
彼女は、小さくそう言って、僕の少し後ろを歩き始めた。
リヨンの夜は、穏やかだった。
先ほどまで降っていた雨はすっかりと上がり、澄んだ夜気が心地よい。
雨に洗われたリヨンの夜は、まるで光と水の別世界のよう。濡れた石畳はどこまでも続く一枚の黒い鏡となりて、天上の星々ならぬ、地上の光を映し込んでいる。
家々の窓から漏れる暖かな橙色の光と、魔道具の街灯が放つ柔らかな光。それらが無数の金の雫となって、黒い鏡の上に散りばめられていた。
一歩、足を踏み出すごとに、足元の光の世界に、柔らかな波紋が広がる。
「……綺麗ね」
マリーさんが、石畳に映る光の饗宴を見つめながら、ぽつりと呟いた。そして少しの間を置いて、僕の方を見ずに、静かに切り出す。
「ねえ、フェリクス君。……もしも、の話よ? もし、無事に、アンリエッタさんを取り戻せたら……その後は、どうするつもり?」
その声は彼女にしては珍しく、夜の静寂に吸い込まれてしまいそうなほどに、か細く頼りないものだった。
そのあとは……?
僕はアンリエッタさんを救うこと、仇である黒オーガを討つこと。
ただそれだけを考えて、ここまでがむしゃらに走ってきたんだ。その先の未来なんて、考えたこともない。
彼女の問いには、僕自身の未来を問う以上の響きがある。
それは、僕たち皆の、これからの関係を問う、彼女の不安そのものなのだろう。
「……正直に言って、まだ、何も考えていませんでした」
僕の素直な言葉に、マリーさんの肩が、ほんの少しだけ落ちたように見えた。
「今はただ、アンリエッタさんを取り戻すこと、そして、そのためにも黒オーガを討つこと。それしか、頭になくて……。その先のことは、本当に……」
言葉に詰まる僕を、彼女は遮らない。
ただ、じっと、僕が次の言葉を探すのを見守っている。健気に。
やがて、彼女はふっと、自嘲するように小さく微笑んだ。
「……そう。そう、よね。ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」
彼女は一度、空に浮かぶ月を見上げる。
「ただ……最近、昔のことをよく思い出すの。冒険者だった頃のことよ。毎日が必死で、危険で……でも、信頼できる仲間がいて、すごく、充実していたわ」
彼女の視線が、再び僕へと戻る。その大きな緑の瞳は、街灯の光を映して、少しだけ潤んでいるように見えた。
「マリーさん……」
「あなたたちといると、あの頃を思い出すの。ううん、あの頃よりも、もっと、ね。毎日がこんなにも必死で、大変で……。でも、こんなにも充実して、楽しい日々は、本当に久しぶりなのよ……」
だから、終わってほしくないの。
そう、彼女の瞳が、はっきりと語っていた。
「マリーさん。貴女が心配しているようなことには、絶対になりません。僕は、まだこの世界でやりたいことが、たくさんあります。四人で一緒に見てみたい景色が、僕には、まだまだあるんです」
僕の、偽りのない言葉。
それに、彼女がどう答えたのか。それは、また、別の話だ。




