第59話 特訓開始
ギルドの裏手にある、広い訓練スペース。
二体の黒オーガ討伐という、あまりにも無謀な挑戦への第一歩は、まず、僕たちの装備を根本から見直すことから始まった。
「マリーさん、その弓を、少し見せてもらえませんか?」
ずしりと重い白木の弓。彼女の長年の相棒なのだろう。その表面は滑らかに、使い込まれている。
「素晴らしい弓ですが、この弓では、あの黒オーガには力不足かもしれません」
「……私の腕が、足りないってこと?」
彼女の声が、少しだけ硬くなる。
「いえ! 決して、そういうことではありません! マリーさんの腕前が素晴らしいことは、僕が、一番知っています」
僕は慌てて、首を横に振る。
「問題は、弓そのものの威力です。マリーさんさえよければ、僕の魔法で、この弓を創り変えさせてもらえませんか? 父さんの剣にしたように。今よりもずっと強く、扱いやすい弓にできる、はずなんです」
「創り変える……この弓、を?」
マリーさんは不安げに、僕の手の中にある、自らの愛弓へと、視線を落とした。
「……仮に、そうだとして。そんなことが、本当に、可能なの!?」
「あのね……フェリクス君」
彼女の声が、少しだけ、震える。
「今まで、キミを疑ったことは、一度もないわ。ない、けれど。その……失敗とか、そういう可能性は、ないのよね? ……この弓、私が現役だった頃に、必死で貯めたお金で、ようやく手に入れた、エルフの銘品なの。すごく大切な弓なの……」
語尾が、弱々しくなっていく、彼女の気持ち。
それは痛いほど、僕に伝わってきた。
これは、ただの武器じゃない。
冒険者としての、彼女の誇り。そして、今はもう失われてしまった、かつての仲間たちとの、思い出そのものなのだから。
……なんて、残酷なことを、僕は頼んでいるのだろう。
それでも、やらなければいけない。僕たちが生き残るために。
「大丈夫だと、思います。もし心配なら、これを見てください」
僕は腰の鞘から、いつも使っている解体用のナイフを抜き、彼女に手渡した。
「このナイフが、どうかした?」
「普段僕たちが使っているそのナイフも、実は、僕が魔法で強化したものです」
「ええっ!? 嘘!?」
マリーさんは、そのナイフの刃を光に翳し、まじまじと見つめている。ただの鉄のはずなのに、その刃はどこか青みがかった、妖しい光を放っている。
「ど、道理で……! 私のナイフも、ただの鉄製にしては、やけに、切れ味が良いと思っていたのよね……。あれも、フェリクス君が……」
マリーさんの大きな緑の瞳が、驚きと、僕への信頼の狭間で、揺れていた。
「……はぁ……」
彼女は一度、長く、息を吐く。
「……わ、分かったわ。やっちゃってよ、フェリクス君」
彼女は覚悟を決めたように、でも、その手はどこか名残惜しそうに、自らの愛弓をそっと撫でた後、僕へと差し出した。
「お、女は度胸って言うものね……!」
「では、お預かりします」
少しだけ上ずった声。無理に作られた、笑顔。
僕はその弓を、彼女の想いも逡巡も、まるごと受け取るように、恭しく両手で受け取った。
ちなみに、この間ミゲルさんは何をしていたかというと、打ち込み台に、ひたすら全力で剣を打ち続けてもらっていた。
彼もマリーさんも、これから特訓が終わるまでの期間、その身を限界まで酷使しては、僕の『インターヴェンション』で、より強靭な肉体へと強化される。
そんな、悪夢のような繰り返しは既に始まっていた。
あまりにもスパルタすぎやしないか、だって? とんでもない。
僕自身が、この身に受けたからこそ分かるんだ。
あの黒オーガの一撃は全てを粉砕する、理不尽なまでの破壊の奔流そのもの。
マリーさんとミゲルさん、二人の命が懸かっていると思えば……これでも、まだ足りないくらいさ。
さてと、今後の方針はひとまず置いて、いま取り掛かるべきはこの弓か。
材質だけじゃあない。より効率的に、より強力な力を矢に伝えるために、形状そのものから創り変えなければならない。
僕が知る、最も完成された弓の形の一つ、リカーブボウへと。
「マリーさん。この弓の弦を外してもらっていいですか? 僕、外したことがなくって」
「弦を? そうなのね。ふふ、分かったわ」
僕の言葉に、マリーさんは慣れた手つきで素早く弦を外す。張力を失い、本来の緩やかな曲線へと戻った弓を、僕は改めて彼女から受け取った。
そして、その弓全体に意識を集中させ、ゆっくりと魔力を流し始めた。
僕の魔力を受けた弓が、淡い光を帯びる。
ミシッ、パキッ、と、物質そのものが変質していくような不思議な音が鳴り、美しい弓の木目が、まるで黒いインクが滲むように、漆黒に塗りつぶされていく。
次いで、その表面は深い艶を抑えたマットな漆黒へと姿を変え、それと同時に弓全体がよりしなやかな曲線を描き始める。そこから、両端のリムだけが、射手とは逆の方向へと、確かな意志をもって反り返っていくのだった。
その姿は、もはや彼女が愛用していた「エルフの銘弓」ではなく、この世界では異質極まりない、けれど機能美に満ちた、全く新しい武具へと生まれ変わっていた。
光が収まる頃には、僕の手の中にあったはずの彼女の愛弓は、一本の流麗な黒い弓──両端が優美に反り返った、現代のリカーブボウへとその姿を変えている。
「……ふぅ、できました。持ってみてください」
僕から漆黒の弓を受け取ったマリーさんは、まず、そのあり得ないほどの軽さに目を見開く。
「か、軽っ!? 軽すぎない? これ……」
彼女は、生まれ変わった愛弓をまじまじと見つめ、その見慣れない流線形のフォルムと、弦を軽く引いただけでも分かる強い張力に、信じられないといったように何度も首を振る。
「全くの別物じゃない……な、何がどうなったら、こうなるのよ。こんなことあり得るの? いえ、あっていいことなの……?」
その口調は驚きを通り越して、もはや軽いパニックに陥っているようだった。
「まずは試しに、何射かしてみてください」
「随分と冷静なのね、もう。……分かったわ」
マリーさんは少し呆れたように息を吐き、すっと表情を消す。それから、迷いのない手つきで矢を番え、静かに構えた。
彼女の美しい射形からの、弦の解放。その瞬間──
これまで聞いたこともない甲高い風切り音が、耳を震わせる。放たれた矢は、目で追うことさえ難しい一条の黒閃と化した。
刹那、訓練場の分厚い巻藁に突き刺さると、矢柄は完全にその中に消え、ただ矢羽だけが外に残されている。
「……嘘でしょ……」
その、あまりの威力に、マリーさん自身もただ呆然と巻藁を見つめている。
やがて、震える声で呟いた。
「……あの、何重にも固く締められた巻藁の、奥深くまで……? あんなの、どうやって抜けばいいのよ……。信じられないわ……」
マリーさんは、まだ自身の愛弓が信じられないとばかりに、弓と的を交互に見つめている。そうして、彼女は感嘆とも呆れともつかない深いため息を漏らした。
「このギルドの巻藁に、矢柄の半分以上を沈めた人なんて、過去を含めてただの一人もいなかったのだけれど!? それを私が? しかも……矢羽までって……」
呆然と立ち尽くす彼女が、そこにいたよ。
「どうやら成功のようですね。よかった」
僕の言葉に、マリーさんはハッと我に返る。
それから、興奮に輝く瞳で漆黒の弓を見つめ返した。
「どうですか? もう少し強くしても引けそうですか?」
僕が問いかけると彼女は的へと向き直り、新しく生まれ変わった愛弓を、今度はその限界まで引き絞ってみせる。額に汗を滲ませながらも、その口元に挑戦的な笑みを浮かべて。
「ええ……まだ、いけそうよ」
「わかりました。では、もう一度弓を貸してください」
僕の手に再び渡された弓に、僕はさらに魔力を注ぎ込んでいく。
先ほどよりも強度が増すようカーボン化を推し進め、マリーさんに小まめに試してもらっては、彼女の筋力で引ける張力と、連射性能を損なわない速射性の、そのギリギリの均衡点を見極めていく。
この二人で、少しずつ限界点を探っていく作業の何が素晴らしいかと言うとだね、諸君。ちょっと語らせてくれたまえ。
僕の目の前で、マリーさんが弓を引き放つたびにだね、その……たわわ様が、ぐっと寄せられたかと思うと、力を緩めてふわりと開く……。時には、彼女の力強い動きに合わせてたゆんと揺れたりもしちゃうんだ。
この、筆舌に尽くしがたい至上の光景を、誰に咎められることもなく特等席で、心ゆくまで拝めることが出来るなんて今まであったかい? いや、あるはずがない!
世の男性諸君は皆、いつバレるやも、という多大なリスクに身を晒しながら、一瞬の隙を窺っているはずだ。違うかい?
「うん、いい感じになったみたい。あとは練習して命中精度を上げていくだけね。この弓、最高だわ。ありがとうフェリクス君」
「そうですか……それは、よかったですね」
僕のあまりにも素っ気ない返事に、マリーさんは不思議そうに小首を傾げるけど、今の僕にそれを気遣う余裕など、あろうはずもなかった。
だって、僕の至福の時間が、今、終わってしまったんだよ!?
あんなに熱く語ったばかりなのに。
こんなにも悲しいことが、あるだろうか。
嗚呼、たわわ様……。
幸せな時間というものは、なぜこうも、流れ星のように一瞬で過ぎ去ってしまうのでしょう……。
それからしばらく。
先ほどの切なる吐露が噓のように、木剣が激しく打ち合わされ、乾いた破壊音が訓練場に響き渡っていた。全快したとはいえ、ミゲルさんの動きにはまだ、長いブランクからくる僅かな硬さが見て取れる。
けれど、その瞳に宿る意志の光だけは本物。
彼は僕の打ち込みの一本一本に、食らいつくようにして打ち返してくる。
「遅い! もっと腰を入れて!」「その程度! 黒オーガは、そんな甘い太刀筋では捉えられない!」
僕は敢えて、厳しい言葉を浴びせ続けた。
彼を、そして僕自身をも鼓舞するために。
少し離れた場所では、マリーさんが黙々と矢を放ち続けている。
一本射るごとに、彼女の整った顔が、蓄積していく疲労と苦痛に僅かに歪む。見れば、弦を引く彼女の指先から、うっすらと血が滲んでいるのが見て取れた。
それでも彼女は、新しく生まれ変わった弓を、自身の体と感覚に必死で馴染ませようと、孤独な闘いを続けている。
その証拠に、巻藁の中心には既に無数の矢が、突き刺さっていた。
そして、太陽が中天に差し掛かる頃。
「一旦、休憩にしましょうか」
僕の声で、ミゲルさんはその場に崩れ落ちるようにして、ぜぇぜぇと荒い息を繰り返す。マリーさんもまた、弓を杖のようにして、かろうじて立っているのがやっとの様子。
二人とも、汗でぐっしょりと濡れ、もう指一本動かす気力も残っていないように見える。
僕はまず、弓を杖代わりに、かろうじて立つマリーさんの元へと歩み寄った。
「マリーさん、手を見せてください」
「……これくらい、平気よ」
強い弦を引く彼女の指先は、皮がめくれて赤く腫れ上がり、血が滲んでいる。
強がる彼女の言葉を無視して、僕はその指先にそっと手を翳した。
「生命の輝き、再生の光よ疾くあらん【ファストヒール】」
僕の掌から淡い緑色の光が溢れ、彼女の痛々しい指先を優しく包み込む。
赤く腫れていた皮膚は見る間に赤みを失い、捲れ血の滲む傷口は、まるで時を巻き戻すかのように、すうっと塞がっていく。
「……昔は、一日中矢を放ち続けても、平気だったのにね。ありがとう……」
マリーさんは、綺麗になった自分の指先と僕の顔を交互に見て、情けないやら、さりとてどこか嬉しそうに、複雑な笑みを浮かべる。
「ギルドの人気受付嬢様でしたからね、これから取り戻していけばいいんです」
「ん、もう……」
小さく唇を尖らせた彼女を尻目に、少し離れた場所で地面に座り込んでいるミゲルさんを見やった。
「ミゲルさん、すみませんが、マリーさんの傍まで来れますか」
僕の声に、ミゲルさんは一度頷くと、先ほどとは比べ物にならないほどしっかりとした足取りで立ち上がり、僕たちのいる場所まで寄ってくる。
僕は、そんな二人の前に立ち、両の手をかざす。
「二人とも本当によく耐えました。──では、始めます」
僕のそれぞれの掌から、二つの温かい再生の光が、それぞれマリーさんとミゲルさんへと向かって放たれる。
『インターヴェンション』──。
淡い光が、二人の疲弊しきった筋肉を、肉体を、前より少し強靭なものへと創り変えていく。あと何度繰り返せば、僕たちは黒い悪鬼に届くのだろう。




