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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
二章 取り戻すために

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第58話 動き出す歯車

 一昨日の、激しい消耗が嘘のように、朝の目覚めは存外にすっきりとしている。

前回のミゲルさんの足の治療においても、僕は最後まで意識を失うことはなかった。

 ……やはり、一度魔力を完全に使い果たした後の回復は、魔力の総量を増やす効果があるのかもしれないな。激しい筋力トレーニングの後に、筋肉がより強く再生されるように。

 もしそうなら、あの地獄のような夜も、決して無駄ではなかったということか。


 身支度を整え、さて、今日の依頼はどうしようかと考えながら、僕はギルドの二階に借りた部屋の、古びた木の扉を開ける。

 そして、目の前の光景に、完全に思考が停止してしまうのだ。


 扉のすぐ脇に一人の男が、石像のように、微動だにせず直立していたから。

 治療前とは打って変わり、その顔には健康的な血色が戻っている。

 ぴんと伸ばされた背筋と、揺るぎない立ち姿は、紛れもなく実直な元騎士そのものに見えた。

 なぜミゲルさんがここに? 一体いつから?

 

 僕が扉を開けたのを察すると、彼は完璧な角度で、深々と(こうべ)を垂れた。

「おはようございます。我が主君」

「え、え、え!? な、なんでここにいるんですか、ミゲルさん!?」

 僕は思わず、裏返ったような大声を上げてしまう。

「まさか……一晩中、ずっとそこにいた、とか?」

 僕の恐る恐るの問いに、ミゲルさんはきょとんとした顔で、しかしどこか誇らしげに頷いた。

「いえ。ご主君が朝、およそ何時頃から行動を開始されるのか、昨日のうちに聞きそびれておりましたので! なるほど、大体これくらいの時間なのですね。勉強になります」

 彼は一人で何度も頷き、まるで重要な情報を書き留めるかのように、真剣な眼差しで僕を見つめている。

 

 やばい。この人、本気だ……。

 本気で僕を『主君』とやらだと思い定めて、家来の務めとやらを果たそうとしている!? いや、嬉しいとかそういうのじゃなくて、困る!

 ものすごく困るんですけど!?

「それと、ご主君。今後私のことは『ミゲル』とお呼び捨てください」

「そんな訳にはいきませんよ。ミゲルさん、年上じゃないですか」

 僕が弱々しく抵抗すると、ミゲルさんはきっぱりとした、しかしどこまでも敬意に満ちた涼やかな声で、静かに首を横に振るじゃないか。

 

「そうはいきません。主君に『さん』付けで呼ばれる家臣など、どこにおりましょうか。あり得ぬことです。どうか、これよりはミゲルと」

 だめだ、話が全く通じない!

 完全に、彼の頭の中は忠実な騎士モードに入ってしまっている。

 

 僕が内心で頭を抱えていると、彼はさらに畳み掛けるように続けた。

「それと、ご主君。このミゲル、微力ながらも貴方様の身辺警護を務めさせていただきます。まずはお部屋の掃除からでも!」

「いや、掃除は自分でしますから! 大丈夫ですから! あの、せめてしばらくは、対等な『仲間』という形でお願いできませんか?」

 僕が必死に提案するも、ミゲルさんは「いえ、そのような雑務、ご主君の手を煩わせるわけにはまいりません!」と一歩も引かない。このままでは、僕の着替えや寝台の世話までされかねない勢いだ。

 

 どうしよう、この状況……。

 マリーさん、助けてぇぇ。

 僕が心の中で半ば本気で助けを求めた、その時だった。

「あら、二人とも。朝から廊下で随分と賑やかじゃないの」

 聞き慣れた快活な声がして、階段を上がってきたばかりのマリーさんが、ひょっこりと顔を覗かせた。

「マリーさぁん!」

 この有難すぎる援軍の登場は、僕にとってはまさに、地獄の戦場に舞い降りた救いの女神そのものと言ってよかった。

「おはよう、フェリクス君、ミゲル君。それで二人は、一体何をそんなに朝から熱くなっているの?」

 マリーさんは、僕と、僕の前でなぜか居住まいを正しているミゲルさんを交互に見て、不思議そうに首を傾げる。その問いかけに、ミゲルさんが真顔で、しかし何かを深く納得したように口を開いた。


「マリアンヌ殿、おはようございます。なるほど、昨日の今日で、まだ奥方様では無かったのですね。失礼いたしました。まさか、ご主君とは同衾すらなされていないとは……迂闊でした」

「同衾!? ちょっ、朝から、あなた一体何てことを言ってるのよ!」

 マリーさんの顔がぼっと音を立て、熟れたトマトのように真っ赤に染まっていく。


『同衾!?』『迂闊でした!?』

 僕の人生、いまだ彼女すらできたこともないというのに!

 どういう風に迷走したら、そんなとんでもない結論にたどり着くんだ!?

 僕の頭の中は、もはや驚きを通り越して混乱の極みにあった。


「やだ、もう。何なのよ!? そ、そんなことより、早く下に降りてらっしゃい。とんでもないことになったわよ!」

 マリーさんは、まだ頬を赤らめたまま、しかしその声には隠しきれない切迫感を滲ませて、僕たちを強く促す。

「とんでもないこと?」「ほう」

 ミゲルさんと顔を見合わせるも、マリーさんは説明する時間すら惜しいといった様子で、さっさと階段を駆け下りていってしまう。


 なんだろう?

 僕たちも急いでその背中を負い、ギルドホールへ降りると、そこは朝とは思えないほどの熱気と、ざわめきとも怒号ともつかない喧騒に包まれていた。

 特に依頼貼り出し用の掲示板の周りは酷く、何重もの人垣でごった返している。冒険者たちの誰もが、普段の軽口など忘れたかのように、真剣な、あるいは恐怖に引きつったような顔で掲示板の一点を食い入るように見つめている。


「おい、見たかよ、あれ……信じられねえ」

「黒オーガ、だと……? 冗談じゃねえぞ、騎士団の部隊が壊滅させられたっていう、例の化け物だろ?」

 その忌むべき単語を聞いた、その時、僕の隣を歩いていたミゲルさんの足がぴたりと、縫い付けられたように止まった。

 彼の顔からさっと血の気が引き、再生したばかりのその体は、まるで再びあの日の悪夢に囚われたかのように、小刻みに震えているのが分かった。


 僕は、そんな彼の様子に気づかないふりをしながら、ほとんど無意識に、人垣をかき分けるようにして前へと進む。

 人垣の隙間から僕の目に飛び込んできたのは、ひときわ大きく、それから血のような赤いインクで「緊急」と殴り書きされた一枚の依頼書だった。

 そこに記された討伐対象の名に、僕は言葉を失う。


 ──【緊急依頼:討伐対象、黒きオーガ】


 父さんの、仇……。

 そして、先日僕に、死の淵を彷徨うほどの重傷を負わせた、二体の悪鬼。

 こんな形で、再びその名を目にするなんて……。

 僕の周りの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように、すうっと音を立てて引いていくのを感じる。


「黒オーガか、なあ、どうする? お前ら行くのか?」

「報酬は破格だが、命あっての物種だからな……」

「ちげえねえ。誰が行くってんだ、死にに行くようなもんだぜ」

 ざわめきの中から漏れ聞こえてくる不吉な単語の一つ一つが、僕の心臓を直接掴むかのように、どくんと大きく脈打たせる。


「フェリクス君」

 不意に、いつの間にか隣に来ていたマリーさんが、僕の袖を強く、強く引いた。

「マリーさん?」

「……金額のところを見なさい。いい? 落ち着いて、よく見るのよ」

 彼女の声は、僅かに震えている。けれど、その瞳はまっすぐに依頼書の報酬欄だけを捉えていた。僕も、導かれるようにその視線を追う。

「金額、ですか……」

 そこに記された数字に、僕は我が目を疑ったよ。呼吸が一瞬、止まるほどにね。

「き、金貨……ろ、六十枚!?」

「そうよ、ご領主様からの依頼よ」

 マリーさんは僕を見つめて、きっぱりと言い放つ。

「キミが、私たちが、喉から手が出るほど欲しかった金額。これで、アンリエッタさんに手が届くわ。これは天が与えた好機よ……やるしかない。そうは思わない?」

 彼女の大きな緑の瞳には、恐怖の色も、迷いの色もない。

 ただ、どこまでも透き通るような瞳と声で、今日も僕を導く。


 マリーさんの導くような言葉の背後で、震えていたはずのミゲルさんまでもが、力強い一歩を踏み出し、僕の隣に並び立つ。

「……ご主君。この、貴方様に再生していただいたこの肉体、父君と、皆の無念を晴らすために使わせていただきたく……このミゲル、覚悟はできております」

 彼の静かな、しかし何よりも固く揺るぎない覚悟もまた、僕自身の迷いを断ち切り、決意をさらに固めさせるのだ。


 父さん……母さん、アンリエッタさん。

 そうだ、僕はもう、一人じゃない。


「……ここじゃ、うるさくて話になりませんね。狭いですが、僕の部屋で改めて話しませんか?」

 僕は、目の前の依頼書から視線を外し、二人へと向き直る。


 ギルドの二階にある、僕の殺風景な部屋。

 扉を閉めると、ホールの喧騒は嘘のように遠ざかる。僕は寝台へと腰掛け、マリーさんとミゲルさんは、部屋の中央にある小さな木製のテーブルを挟んで、椅子に腰かけていた。

 部屋には、誰もがこれから話すべき言葉の重さを計りかねているような、張り詰めた沈黙が流れている。あの血のように赤い「緊急」の文字が、まだ瞼の裏に焼き付いているかのように。


 最初にその沈黙を破るのは、僕であるべきだ。

「まず、僕から話させてください。先日、僕が一人で森の奥へ向かい、そこで何があったのかを」

 二人は、黙って僕の言葉を待っている。

「単身、森の奥深くへ向かい、そこで夜を明かすことになったのは、僕の焦りと慢心が招いた完全な判断ミスです。その結果、マリーさんには多大な心配と迷惑をかけてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」

 僕はまず、マリーさんに向かって深く頭を下げた。

 彼女は「もういいのに」とでも言うように、静かに首を横に振る。


「僕はその日の夜、父さんの仇である『黒いオーガ』に遭遇したのです」

「あの依頼状の?」ミゲルさんが、固唾を飲んでいる。

「ええ。最初は、僕の剣も、魔法も、奴にはほとんど通じなかった。けれど……それでも、戦いの中で活路を見出し、あと一歩のところまで追い詰めた、はずでした。倒せると……そう、確信した瞬間があったんです」


 僕の言葉に、二人は固唾を飲んで聞き入っている。

 

「だけど……奴は、一体じゃなかった」

 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が、さらに張り詰めたものに変わるのが分かる。マリーさんの目が驚きに見開かれ、ミゲルさんの顔から血の気が引いていく。

「もう一体……全く同じ姿の、黒いオーガが、僕の死角に潜んでいたんです。一体目のオーガに全神経を集中させていた僕は、その存在に全く気づけなかった。そして、不意を突かれ、致命的な一撃を……」


「死にかけた僕を……職を辞してまで助けに来てくれたのが、マリーさんだったんです」

 僕の告白に、部屋は再び重い沈黙が包んでいく。

 やがて、僕は顔を上げ、二人の目を真っ直ぐに見据える。

「冷静な事実として、伝えなければならないことがあります。奴らの攻撃は、あまりにも強力無比すぎる。まともに一撃を受ければ、死に至る可能性がある。そして、並大抵の攻撃は、あの鉄のような毛と、巨大な戦斧に阻まれて通用しません」


 絶望的な戦力差。その事実を、僕は敢えて淡々と告げた。

 告げねば、ならないのだ。

「このまま、三人で挑めば、仮に僕が一体を引き受けたとしても……マリーさんとミゲルさんの二人で、もう一体を相手取る必要があります。結果は同じか、あるいは、さらに悪くなるかもしれない。だから……」

 僕はそこで一度言葉を切り、決意を込めて続ける。

 

「幸い、まだ、あと一か月と少しあります。十日、いや、一週間だけでもいい。僕に時間をください。その一週間で、マリーさんとミゲルさん、あなた方を、あの黒いオーガと十分に渡り合えるレベルまで、僕が押し上げてみせます」


 僕の唐突な宣言に、マリーさんが少し意地悪く、しかしどこか嬉しそうに微笑む。

「あら? てっきり私はもう、フェリクス君の正式な『仲間』として、この話に参加しているつもりだったのだけれど?」

「い、命が掛かってるんですよ? マリーさん……」

 僕が彼女の軽口に戸惑っていると、ミゲルさんが厳かに口を開く。

「ご主君の仰せのままに。このミゲル、貴方様の向かうところが如何なる死地であろうとも、共にと誓いました」

 彼もまた、揺るぎない忠誠(?)をその目に宿し、深々と頭を下げている。

「ですから、どのような訓練であろうと、この身命を賭してやり遂げる所存」 

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