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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
二章 取り戻すために

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第55話 苛立ち

「こっちで、あってますよね? マリーさん」

「ええ、たぶん……。ごめんなさい、この辺りは私もあまり足を踏み入れたことがないから、少し自信がないのよね……」

 マリーさんの少し不安げな声に、地図を持つ手に知らず知らず力が入る。

 

 カッ、カッ、カッ──

 古びた石畳を、僕たちの靴底だけが規則的に叩く。

 乾いたその音は、人影も見えぬ寂れた路地に虚しく反響し、打ち捨てられたかのような静けさには、言いようのない寂寥(せきりょう)感が色濃くまとわりついている。

 ここはリヨンでも一際古い家々が、息を潜めるように密集する(ひな)びた一角。

 陽の光さえ、ためらいがちに落ちてくるのか、昼間だというのに辺り全体が薄暗く沈んでいた。


 シモーヌさんから預かった地図をもう一度広げ、掠れた頼りない線を、再び目で追う。線が指し示す先は、何度見直しても、この辺りに思える。

「あ、あそこじゃないですか? 目印の、崩れかけた古い井戸がありますし、ほら、あの家です」

 僕が指差したのは、この界隈でもことさらにみすぼらしく、忘れられたように日陰に沈む、小さな古い家だった。

 

「う……」

 一目で、胸の奥が、小さく粟立つのを感じる。

 壁の漆喰はそこかしこで剥がれ落ち、雨風に長年晒されたであろう屋根は心なしか歪んでいるような……。

 およそ、人の住まう気配というものが、奇妙なほど希薄な家が、そこにあった。

 

「おかしいですね。彼とは父が存命の時に一度だけ手合わせをしたことがあるんですけど、その時は騎士見習いだったはずで……もっと、こう……何というか」

 僕の言葉に、マリーさんも静かに柳眉を寄せ、憂いを帯びた表情で小さく頷いた。

「ええ、フェリクス君の言いたいことは分かるわ。確かに……騎士を目指そうという子が、こういう場所に住んでいるのは、少し不自然よね」

 彼女の落ち着いた声にも、隠せない懸念の色が滲む。

 僕が胸中で感じていた言いようのない不安は、どうやらマリーさんも共有しているらしい。陽の光さえ避けるかのようなその家は、あまりに質素で、騎士見習いの住まいとしては不釣り合いに過ぎたから。

 

 コンコン、と控えめに古びた木の扉を叩いてみる。

 家の中からは何の反応もなく、ただただ息の詰まるような寂然が、僕たちの間に重く漂うばかりだ。

 もう一度ノックすべきか、マリーさんと顔を見合わせる。──その時だった。

「はい……どなた、ですか」

 扉の向こうから細く、うなされているかのような、男性の苦しげな声が届いた。

 僕とマリーさんは思わず、再び顔を見合わせてしまう。

 

 おおっとマリーさん、こんな時でも随分とお綺麗なことで。

 いやいや、今はそんなことを考えている場合じゃない。


「ミゲルさん? フェリクスです。冒険者ギルドのシモーヌさんからお話を伺って参りました」

「フェリクス君か……! すまない、扉に鍵はかかっていない……そのまま、開けて入ってきてくれないだろうか」

 そう言われ扉を開けて中へ入ると、ミゲルさんは寝台から、丁度起き上がろうと、その身をなんとか起こそうとしているところだった。

 

「わざわざ、すまないな」

 その声は弱々しく、顔色も、土気色のように悪い。

「いえ。ミゲルさん、一体どうされたんですか? それに、そのお体……」

「僕は……君に謝らなければならない。そして、恥を忍んで頼みたいことがある」

「謝る? いったい、何をです?」

 僕がそう問いかけると、ミゲルさんはおもむろに、寝台の傍らに立てかけてあった古びた杖に手を伸ばした。

 

 それから、軋む寝台に手をつき、杖を支えにしてどうにか立ち上がる。そして、その、およそ言うことを聞かない体で、懸命に、僕へ頭を下げようとしていた。

 右腕は、見るからに関節が固まってしまったように不自然に強張り、ぴくりとも動かない。左足も床を擦るだけで、まともに体重を支えられていないのが明らか。

 無理に体を折り曲げようとする彼の全身が、抗うように細かく、痛々しく震えている。

 なぜ、こんな姿に……?

 一体何が起これば、以前手合わせした時の、あの彼が、ここまで変わり果ててしまうというのだろう?

 僕の脳裏に、ベルガーさんから聞いた父の最期と、あの黒いオーガの禍々しい姿が重なり、背筋に冷たいものが走る。

 まさ、か……。

 

「君の父上……アドリアンさんと私は、あの夜、共に戦っていた」

 彼の絞り出すような声が、胸の内で燻っていた不吉な予感を、確信へと変えた。

「あの夜、とは……父さんが亡くなった日のこと、ですか?」

「あぁ。……忌まわしき、あの黒い悪鬼と戦った、あの日のことだ」

 ミゲルさんの瞳が、遠い悪夢を映すかのように、痛々しく揺れていた。


「村の療養所と化していた建物を守るため、必死に抗った。だが、奴は……あまりにも強すぎたんだ。私は為す術もなく重傷を負い、結果、アドリアンさんを一人で戦わせてしまう羽目に。彼が……彼が、あんなことになるだなんて……本当に、申し訳ない……っ。私のせいだっ」

 ミゲルさんの言葉はそこで途切れ、堰を切ったように嗚咽が漏れ始める。肩を細かく震わせ、次の言葉を必死で絞り出していた。

「心の底から、君に謝罪したいと思っていた。ずっと……ずっと、その機会を待っていたんだ。本当に……申し訳ない」


 この話のあらましは、ベルガーさんが我が家を訪ねて来たあの日、父の死の経緯と共に説明を受けていたから、知ってはいる。

 ……どれほど日が経とうと、父を失った深い嘆きが癒えるはずもない。ベルガーさんの言葉を思い返すだけで……今も、どれだけ胸が締め付けられるか……。

 これは、到底「わかった」と、ただ許せるような、軽い話じゃあない。


 けれど……目の前の、この痛々しいまでの姿を、絞り出すような言葉を前にして、どうして彼一人だけ責めることができようか。

 まだ一介の見習い騎士に過ぎなかった彼に、父やベルガーさんでさえどうにもならなかった絶望的な状況で、一体、何ができたというのだろう。

 彼とて、あの黒い悪鬼の圧倒的な力の前に、九死に一生を得た、被害者の一人に過ぎないのではないか?

 逆に、よく生き残ったと、言ってやるべきなのでは……。


 頭では分かっている。分かってはいるんだ。

 それでも、この心の奥底で今もなお燻り続ける、行き場のない憤りはどうすればいい? この怒りの矛先は、一体どこへ。誰へ向ければいいというんだ?

 あの忌まわしき黒い悪鬼へか? 

 それとも、父を、僕たち家族の幸せを奪った、この理不尽な運命そのものに、向けろとでも言うのか?

 

「ミゲルさん、僕は、貴方が望む返事はできません。『許す』などという言葉を、僕が軽々しく口にすることはできないんです」

 僕の率直な言葉に、ミゲルさんは「ああ……」と力なく頷き、痛みに歪む顔をさらに深く伏せた。

 彼の絶望と悔恨が、この薄暗く、埃臭い部屋の空気を一層重くする。

「ですが……それでも、あの痛ましい出来事は、決して貴方だけの責任じゃあない。それだけは、はっきりと言えます。だって……当時、ただの見習い騎士に過ぎなかった貴方に、あの状況で、一体何が出来たと言うんですか。僕だって、それくらいのことは分かります」


 僕がそう告げると、それまで黙って隣で僕たちのやり取りを見守っていたマリーさんが、不意に僕の肩へ、そっと右手を回し、労わるように軽く引き寄せてくれた。

 マリーさん……。

 言葉には出さない。けれど、その無言の優しさが、強張る僕の心にじんわりと沁みて、素直に嬉しかった。

 

「君は……優しいんだな、フェリクス君。その言葉だけで、十分すぎるほどだよ。だが、私は……それだけじゃあ、済まないんだ。あの時、何もできずに、ただ打ちのめされていただけだった自分が、今も許せないんだ」

 ミゲルさんの声は、深い後悔と、自己への嫌悪で震えている。

「……そんなのは、僕の知ったことではありませんよ」

 僕は突き放すように、彼の目を真っ直ぐに見据えて言った。彼の言葉は、僕の心の奥底にある、整理のつかない感情を波立たせる。


 自分一人だけを責め続けて、それで悲劇の責任を一身に引き受けたつもりか?  向き合うべき現実から、目を逸らしているだけじゃないのか? と。

「無力だった自身を許せないと言うのなら、それは、あの場にいた誰もが同じはず。父だって、あるいは……生き残った他の誰かだって、僕やアンリエッタさんだって! 何のために日々修練をッ!」

 

 僕の熱のこもった言葉は、静まり返った部屋を鋭く貫いた。

 ミゲルさんはハッとしたように顔を上げ、その瞳には驚きと戸惑いの色が浮かんでいる。

 しばしの沈黙が、僕たちの間に重く垂れ込めた。

 

 やがて彼は力なく首を振ると、自分自身に言い聞かせるように、絞り出すような声でぽつりと言葉を吐く。

「……君の、言う通りだな。私は……ただ、自分だけを責めることで、何かから……本当に向き合うべき辛さから、逃げていただけ、なのかもしれない……」


「もう、いいですよ」

 僕は彼の言葉を遮るように、少しだけ強い口調で言う。

 これ以上、こんな話を続けるのは苦痛だったし、僕自身も父の記憶が蘇り、平静ではいられなくなりそうだったから。

「それよりも、先ほど言っていた『願い』というやつを聞かせてください」

 

「分かった……。その、願いなんだが……」

 彼の視線は、僕の、そして僕の隣で静かに佇むマリーさんの間をためらうように動いた後、意を決したように、まっすぐに僕の目へと注がれる。

「君に、頼みごとを言えるような立場ではないことは、重々分かっている。それでも……もし、万に一つでも可能ならば……僕の、この、もうどうしようもなくなった体を……少しでも、ほんの少しでもいい、治してはもらえないだろうか?」

 彼の声は、最後の望みを託すかのように、か細く震えていた。


「……なぜ、僕なんです? 城館には、数は少なくとも、治癒魔法の心得のある方が他にもいるでしょうに」

 僕の問いに、ミゲルさんは力なく首を振るばかり。

「領主様お抱えの治癒魔法使いには診てもらった。その結果が。これだ。皆、口を揃えて『これが精一杯だ』『骨がどうにか付いただけでも喜べ』……感謝しろ、と」

 彼の言葉には、深い絶望と、やり場のない怒りが滲んでいる。


「くっ……こんな、自分の体一つ満足に動かせない有様では、もう誰も守ることなどできない。それどころか、日々の糧を得るために働くことすら叶いやしない。こんな体で、一体誰が私を雇ってくれる? 今はまだ僅かな蓄えがあるが、それが尽きたら……もう、餓死するしかないじゃないか」

 彼の悲痛な叫びに、僕は思わず言葉を挟む。

「餓死だなんて……それは、あまりに大袈裟では?」

「大袈裟じゃない!」

 ミゲルさんは、これまで見せなかったような激しい剣幕で、僕の言葉を遮る。

 

「怪我がこれほど酷いと分かった時点で、僕は騎士団を罷免された。君の父、アドリアンさんのように……! 僕は、もう、騎士見習いですらない……収入の宛ては完全に断たれてしまったんだ」

 彼の目からは、大粒の涙が、止めどなく溢れていた。

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