第53話 この世界で恵まれたもの
時にマリーさんの背中を必死に追い、また別の場面では、険しい道や、足を取られるぬかるみで互いの体を支え合いながら、僕たちはひたすらにリヨンを目指し続けた。
けれども、傷と疲労を抱えた僕たちの歩みは想像していたよりずっと遅くて、陽が落ちる迄に森を抜けること能わず。
森の比較的浅い場所で、一夜を明かすことになってしまった。
近くにあった樫の木に似た太い幹へ二人で背中を預け、マリーさんが分けてくれた干し肉を、ひとかけらずつ、ゆっくりと時間をかけて噛みしめる。
噛むほどに広がる、塩味の効いた肉の旨味が、疲れた体に染み渡った。
僕も何かお返ししたかったけど、革袋に残っていたのは、岩窪でも食べた例の乾燥しきったパンだけという。
……こんな物を、彼女に差し出してもいいものか。
正直、気が引けたけど、悩んだところで手持ちが増えるわけもない。僕は顔を赤らめながら、おずおずとそのパンを彼女に差し出した。
マリーさんはそれを受け取ると、あえて何も言わずに、小さな口で一口かじる。
「ふふっ、これは……歯が鍛えられそうね。でも、嬉しいわ。ありがとう」
少し困ったような、それでいて僕を気遣う優しい眼差しで、彼女は、柔らかく苦笑う。
彼女に救われっ放しの僕。こんなものしか渡せなかった自分の準備不足が、猛烈に恥ずかしくて、情けなかった。
……これからは、絶対に、もう少しちゃんとした携帯食料を用意しよう。
今回の道程で骨身に染みた多くの反省点に、また一つ、新たな項目が、深く、深く、胸に刻まれた夜だった。
それからは交代で短い仮眠を取り、互いの存在をすぐそばに感じながら、どうにか夜を明かしたけれど、絶えず森の奥から聞こえる獣の遠吠えや、風が木々を揺らす不気味な音に神経を尖らせ、心の休まる暇は片時もなかった。
それは、およそ野営とも、ましてや休息とも呼べないような、ただ、心身を削るだけの過酷な一夜だったと思う。
そんな夜を乗り越え、どうにかこうにか、僕たちは魔の大森林の入り口、ギルドの乗合馬車停留所へと、命からがら辿り着いた。
やがて太陽が、その巨大な赤い輪郭を、遠く西の稜線にまさに飲み込ませようとする、そんな黄昏時──ようやく僕たちは、見慣れたリヨンの城門をくぐることが出来たんだ。
長く、そして、あまりにも過酷すぎた、悪夢のような旅路の終着点だった。
喧騒に満ちたリヨンの町へと、足を踏み入れる。
土と乾いた血の匂いが染み付いた僕たちとは対照的な、活気に満ちた人々の声、石畳を叩く荷馬車の音、漂う香ばしいパンや、肉の焼ける匂い。
それら全てが、まるで別世界のように感じられたよ。
道行く人が、僕たちのあまりにも酷い有様に驚き、あるいは憐れむような同情の視線を向けてくるのが分かる。
けれど、今の僕たちには、そんな周囲の目を気にする余裕などない。ただ、このまま倒れ込んでしまいたいという強烈な欲求と戦うだけで、精一杯だった。
「マリーさん、まずは、ギルドの救護室へ向かいませんか?」
僕もそうだけど、彼女も傷を負っている。
あの岩窪を脱してから、時折『ファストヒール』を唱えることはあっても、じっくりと回復に専念する暇も、魔力の余裕もなかった。森の浅部でさえ、僕たちの酷い血の匂いを嗅ぎつけたのか、魔物の追撃を受け続けたのだから。
「ううん、フェリクス君」
マリーさんは静かに、しかし、はっきりとした口調で首を横に振る。
「どうしてですか? マリーさんの傷だって、決して浅くはないはずです」
「キミのその深い傷、ちゃんと治すなら……あの魔法が必要になるのでしょう?」
マリーさんは僕の瞳を、何かを見定めるよう、にじっと見つめてくる。その大きな緑色の瞳には、深い疲労の色と共に、僕の身を案じる切実な懸念が、痛いほど浮かんでいた。
「『ルクス・リヴァイヴ』ですか? ええ、この傷の深さを考えると、使わざるを得ないと思います。これまでは、万全の状態で使えるような機会も、そのための魔力の余裕もありませんでしたから」
僕の言葉に嘘はなかった。
一度目の『ルクス・リヴァイヴ』は、あの岩窪で意識が朦朧とする中、文字通り最後の力を振り絞って唱えたもの。二度目に至っては、目覚めた直後ではあっても殆どガス欠みたいなものだったしね。
あんな不完全な状態では、治るものも治らないだろう。
「あの黄金色の光は、眩すぎるの。それに、あまりにも規格外なのよ。あれほどの強力な治癒魔法は、人を狂わせるかもしれない。今はまだギルドにだって知られない方がいい。これは、長年ギルドに籍を置いてきた元職員としての、私の、偽らざる直感であり、本音よ」
彼女の言葉は、僕の身を案じる真摯な響きに満ちていて、僕の心に深く染み入るようだった。その、温かい気持ちに浸っていたい僕の思考が、ふと、彼女の言葉の一片に強く引き戻される。
……いま『元、職員』って言った?
「あのぅ、マリーさん」
僕は、恐る恐る口を開く。
胸が、嫌な音を立て始めたのを感じながら。
「さっき、『元職員』って言いましたよね? それって、一体どういう……ことなんですか?」
僕の問いかけに、マリーさんは一瞬だけ、その大きな緑色の瞳を揺らめかせた。けど、すぐに穏やかな、それでいてどこか吹っ切れたような、静かな微笑みを浮かべて頷く。
「あのね、ギルドは……辞めてきちゃったの」
その一言の重みに、僕は息を呑む。
「辞めたって、そんな。もしかして、僕を探しに来るために、ですか……?」
思わず、問いかける声が上ずってしまう。
彼女は困ったように、それから、どこか慈しむような眼差しで、僕を見つめ返した。
その、肯定を含んだ優しい眼差しが、逆に僕の胸を鋭く抉る。
だって、そんなことが……あっていいはずがないじゃないか。
「キミを探しに行くには、どうしても、必要なことだったのよ。ギルド職員の職務を放棄して、あの森へ向かうのは、到底、許されることではなかったから」
彼女は努めて淡々と、事実を告げる。
泥と血で塗れたはずなのに、柔和な微笑みを湛えた佇まいは、どこまでも美しく、そこに後悔の色など微塵も感じさせない。
それが余計に、僕の罪悪感を深く、深く、抉るんだ。
なんてことをさせてしまったんだ……と。
「でもね、フェリクス君。これは、キミが背負い込むようなことではないのよ」
僕の表情から苦悩を読み取ったのか、マリーさんは包み込むような、優しい声で言葉を続けてくれる。
「確かに、キミを探しに行くと決めたことが、直接のきっかけではあったけれど……これはね、私が以前から、心のどこかで考えていたことでもあるの。ほら、前に……『考えてることがある』って、話したこと、覚えてる?」
「ええ、それは、覚えています」
あの言葉の裏に、これほどの意味が隠されていたなんて……。
「だから、これはこれで、私にとっては新しい道への、大切な第一歩なの。一つの、大きな区切りでもあるわね。だから、キミは何も負い目に感じる必要なんてないから。……そうね、もし、キミが何か私にしてあげたいと、そう思ってくれるのなら……ふふっ」
マリーさんはそこで一度言葉を切り、今度は、どこか期待に胸を躍らせるような、輝く瞳で、僕を真っ直ぐに見つめた。
「思ってるなら……?」
僕は固唾を飲んで、彼女の次の言葉を待つ。
「私を、あなたの正式な仲間として、隣に置いてくれないかな? 責任とってよ。ふふっ」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで、温かくて……でも、少しの茶目っ気を孕んでいて……。
僕の心の奥底に、静かに、じんわりと広がっていく。
何だか、泣いてしまいそうなほどに。
僕は、つくづく、本当に幸せな男だと思う。
こんなにも僕を信じ、支えようとしてくれる人が、この世界に、二人もいるのだから。
アンリエッタさん──
僕がこの世界で初めて出会った時から、この年齢に至るまでの毎日を、まるで陽だまりのように温かく包み込み、慈しんでくれた、かけがえのない女性。
前世では、ただひたすらに孤独だった僕に、生まれて初めて本当の『人の温もり』というものを教えてくれたのは、紛れもなく貴女でした。
字だって、魔法だって。僕の殆どは、貴女に教わったものばかり。いまや、彼女の存在そのものが、僕にとっての光であり、この世界で生きる、揺るぎない希望なんだ。
そして、マリーさん。
貴女は、僕のどこか危ういほどの真っ直ぐさや、時に無謀とも言える行動を、本当の姉のように見守り、そして正しい道へと導こうとしてくれるよね。
……ほんの少し前までは、本当にそう思っていた。
でも、どうやらそれだけじゃあ、もう言い表せない気がするんだ。近頃の彼女からは……不思議と、アンリエッタさんにも通じるような、大きな包容力とでも言うべき雰囲気を感じ始めている。そう、どこまでも僕を信じ、支え、全てを受け入れてくれるような、あの深く、限りなく優しい眼差し……。
彼女の存在は、アンリエッタさんとはまた違う形で、僕の心の、大きな拠り所となりつつある。
アンリエッタさんが、僕にとって何を置いても「取り戻したい」と強く願う、魂の片割れのような存在だとするならば。
マリーさんは、今の僕にとって、どういう存在なのだろう。
今はまだ、僕にはわからない。明確な答えが出せない。自分の気持ちに、うまく名前がつけられないんだ。
だけど、これだけは、はっきりと言える。
僕はこの二人の、あまりにも大きな情と信頼に、一体、どうやって報いていけばいいのだろう。今の僕には、ただ、この二人の大切な女性に、心の底からの感謝を捧げることしか出来ない。
どうしようもなく込み上げてくる感謝の念と、彼女の真っ直ぐな申し出に対する緊張とで、僕の口から飛び出したのは、何とも古風で、少し的外れな言葉だったよ。
ああ、思い出すだけでも、恥ずかしい……。
「ふ、不束者ではございますが、こちらこそ、よろしくお願いします」
僕が深々と頭を下げると、マリーさんは一瞬きょとんとした後、こらえきれないといった風に、「ぷっ」と柔らかく吹き出す。
「なあにそれ、どういう口上なのよ」
そう言って楽しそうに笑う彼女の顔は、泥と血に汚れていても、やっぱり綺麗だと……本当にそう思った。
あとがき
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──神崎 水花




