第52話 赤い導の先に
ジャイアントスパイダー亜種は、私を威嚇するようにその牙門──おぞましい口の脇に覗く鋭利な鋏角をカチカチ、カチカチと不気味に打ち鳴らすと、その巨体からは到底想像もつかないほどの俊敏さで、一息に間合いを詰めてきた。
無数の多足が地を擦る乾いた音とは別に、奴の喉の奥からは、今にも粘つく絡めとる死の糸を吐き出さんとするかのように、絶えず何かがぶくぶくと泡立つ湿った音が聞こえ、私の背筋をぞわりと粟立たせる。
「ああっ、もうっ! そ、それでなくとも、蜘蛛っていう生き物自体、生理的に受け付けないのにっ!」
あのワサワサと蠢くおびただしい数の足も、どこを見ているのかわからない複数の複眼も、アイツの全てが私の神経を逆撫でし、全身の皮膚に粟を生じさせるほどの強烈な悪寒を走らせる。
化け蜘蛛が痺れを切らしたように、目にも止まらぬ速さでジグザグに地を蹴り、木の幹を跳ね、いよいよ私に跳びかからんばかりの距離まで迫る。
私は必死に冷静さを保ち、その不規則極まる三次元的な動きを捉えようと弓を引き絞るけど、矢の狙いは一向に定まらない。
苦し紛れに放った威嚇の矢は、アイツの鋼のような多足に弾かれるか、あるいは急所を大きく外れて掠めるだけで、致命傷には程遠い。それどころか、化け蜘蛛の爛々と輝く赤い複眼が、さらに凶暴な光を増していく始末。
俄かに、先ほどダイアウルフに負わされた肩の爪傷がズキリと疼き、熱い血がじわりと滲み出すのを感じた。弓を支える腕に、ズンと重い鈍痛が響く。
大丈夫よ。私はまだ戦えるわ。
「でも、何もかもが最悪ね」
私がそう毒づいた瞬間を皮切りに、化け蜘蛛の口から、粘つく白い糸の塊が数条、続けざまに吐き出された。咄嗟に横へ跳んで避けるも、背後の木々や地面に張り付いた糸が、私の逃げ道を確実に狭めていく。
「くっ……!」
まずい……このままじゃジリ貧だわ。
焦る思考だけが空回りし、有効な一手が見つけられない。
焦りは呼吸を浅くし、視界まで歪ませてしまうわ。落ち着くのよマリアンヌ。早く呼吸を整えなさい。そうして活路を見出すのよ。どんな状況であっても、諦めたらそこで終わりなのだから。
さりとて、このまま手をこまねいていては、嬲り殺されるのは時間の問題……。ならば、一か八か、最後の賭けに出てみるのも……でも……。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、ふっ、と自嘲にも似た乾いた笑いが唇から漏れ出す。私は今更何を、恐れているのだろうと。
そうよ、この命は先ほど『賭ける』と決めたはずじゃないの。
私は絶望的に不利な盤上をひっくり返すべく、大勝負に出ることにした。
弓矢を化け蜘蛛の頭上高く、その向こう側へと目掛けて力一杯放り投げるの。巨体がそれに気を取られ、赤い複眼が見上げた一瞬の隙を突き、背に差した二本の短剣を抜き放った。
「せあああッ!」
短い気合と共に、私は化け蜘蛛の巨体へと決死の覚悟で猛進する。
蜘蛛の剛毛に覆われた太い前腕が、私を捕らえ、切り刻まんと薙ぐように迫る。それが当たる瞬間、私は地面すれすれに身を投げ出し、仰向けに滑り込んだのだ。
頭上を凶器のような前腕が風を切って通り過ぎて行く。私はそのままの勢いで、化け蜘蛛の巨大な腹の真下を、凄まじい速度で滑り抜けた。
そうして通り過ぎる間際に、両の手に逆手に握った短剣を、眼前に晒された奴の柔らかな腹部へと、ありったけの力を込めて深々と突き立てる。
グシャリ、という肉を抉り割く感触と、甲高い苦悶の絶叫が頭上で交錯した。
恐るべき敵の下腹部を大胆に滑り抜けた私は、その勢いのまま立ち上がりざま、落下してくる愛用の弓の柄を見事に空中で掴み取る。
それから、間髪入れず矢を番えると、苦悶に身を捩る化け蜘蛛の、隙まみれの糸疣目掛けて渾身の一矢を放つ。『そこっ! 穿て、渾身の一箭』
「高くつくと言った!」
最後の一矢は、狙い過たずその急所を深々と貫き、化け蜘蛛の巨体を完全に沈黙させた、はずだった。
ドサリ、と巨体が大地を揺るがし、ようやくその動きを止める。張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、私はその場に力なくペタンと尻をつく。
「はぁ……はぁ……っ、終わった、のよね」
途切れがちな息を必死に整え、滲む汗を手の甲で乱暴に拭った。
全身を襲う鉛のような倦怠感。指一本動かすことすら億劫なほどの疲労が、一気に私を襲う。
だというのに。
まだ、この私に茨の道を歩めと、天は、神は宣うのね……。
ピクンッ──
絶命したはずの化け蜘蛛の、おぞましい節くれだった足の一本が、不自然に痙攣したのを、私は見逃さなかった。
「まさか……!?」
一度は安堵した心臓が、凍りつくような嫌な予感に鷲掴みにされる。冷たい汗が、首筋をたらりと流れ落ちた。
次の瞬間、ずるり、と粘つくような音を立てて化け蜘蛛の巨体が身じろぐ。そこから向きを変え、光を失い虚ろだったはずの禍々しい複眼が再び、憎悪と執念を煮詰めたような光を湛え、ねっとりと私を射抜いたのだ。
「まだ、生きているというの!?」
あの渾身の矢を受けて、腹には短剣が深々と突き立っているというのに?
「……だから……だから虫の類なんて大ッ嫌いなのよっ! しぶといにも程があるでしょうに」
悲鳴に近い悪態が、戦慄に震える唇から絞り出される。
化け蜘蛛は、腹部から夥しい体液を流し続け、明らかに深手を負っているはずだった。だというのに、その濁った複眼に宿る私への殺意は、微塵も揺らいでいない。
「アンタ、深手なら、退けばいいでしょうに。ほら、下がりなさいよ」
ギチギチ、と乾いた関節を軋ませながら、おぞましき蜘蛛はゆっくりと、鋭利な鎌のような足先で一歩、また一歩と踏み出してくる。
──まずい。どうすればいい。
あと、もう少しで倒せるというのに、矢は一本も残ってはいない。
頼みの綱だった短剣も、二本は奴の巨体に深々と突き立ったまま。残されたのは、腰の背に差した、最後の一本だけ……。
これが本当に最後の一本。
じり、じりと化け蜘蛛が間合いを詰めてくる。その一歩ごとに、心臓が恐怖に軋み、呼吸は浅く、速くなるばかりだった。
「そっか……とうとう私の番が来た、というわけね」
どこか腑に落ちるような感覚が胸に広がった。
脳裏をよぎるのは、短いけれど濃密だった日々。
忌むべき、決して忘れ得ぬ過去に枕を濡らし、涙に暮れた夜は数えきれない。でもね、最後に、あの真っ直ぐで優しい子と出会えたから。私のささくれ立った人生も決して悪いものではなかったと、今なら思える。
ならば、これが私にできる最後の務め。
このおぞましい化け蜘蛛を、一歩でも、一瞬でも長く、あの子から引き離す。
『リュカ……もう少しだけ待っていてちょうだいね。もうすぐ姉さんも、あなたのいる、そちら側へ行くから』
覚悟は、できた。さあ、最後の一歩を踏み出そう。
まさにその瞬間だった。
「諦めるなマリィ! 右だ、右に飛べッ! 大きく! 急げェェッ!」
岩窪の奥から、それは驚くほどにしゃがれていたけれど、聞き間違えようのない──少年の切羽詰まった声が、私の耳に鋭く響き渡った。
──フェリクス君!?
思考が追いつくよりも早く、彼の必死な叫びに呼応するかのように、体が衝動的に動いていたの。最後の力を振り絞り、彼の声の指示通りに、ただ一心に右へと身を投げ出した。今できる最大限に遠く、低く、早くッ!
「空渡る風の囁きが刃の歌へと変わる時、風舞いて万象を断て【ウィンヴェルド】
渾身の力を込めたであろうその声と共に、岩窪の入り口付近で凄まじい風切り音が発生した。それは暴風のうねりを巻き起こし、暴虐たる不可視の刃となって化け蜘蛛の巨体に次々と襲い掛かる。
ギシャアアアアアアアッッ!
先ほどまでの魔威はどこへやら。
化け蜘蛛は甲高い、耳を劈くような絶叫を上げ、その巨体を激しく痙攣させた。緑色の粘り気のある体液を四方に撒き散らしながら、何本もの多足が鋭利な風の刃に断たれ宙を舞う。
荒れ狂う風の刃は、その鋼のような外殻さえも容赦なく切り裂き、化け蜘蛛の命脈を確実に、そして無慈悲に絶っていった。
私は、もう、戻れないかもしれない……。
◆ ◆ ◆ ─ Felix side ─
「……マリー……さん……?」
しゃがれた声で、僕はその名を呼んだ。
悪夢のようなおぞましい気配に、意識を無理やり引きずり上げられる。すると、岩窪の先でマリーさんが、巨大な蜘蛛の牙の前に、絶体絶命の窮地に立たされているのが見えたから。
どうしてマリーさんがこんな場所に?
まさか、僕を……僕なんかのために、ここまで?
けど、そんな疑問は一瞬で焦燥に塗りつぶされる。今はただ一つ、彼女を失うわけには、絶対に、いかないんだ。
魔法だ、一刻も早く打て!
しかしだ、このままでは彼女を巻き込んでしまう!
「諦めるなマリィ! 右だ、右に飛べッ! 大きく! 急げェェッ!」
湧き上がる激情と焦燥感のままに、喉が張り裂けんばかりに彼女へ叫ぶ。
彼女が飛んだ一瞬に合わせて、その刹那に注ぎ込められるだけの魔力を注いで『ウィンヴェルド』が空を舞う。
「フェリクス……君」
地面に倒れ伏していたはずのマリーさんが、思い出したかのようにゆっくりと顔を上げる。その無事な姿を視界に捉えた瞬間、張り詰めていたものが切れ、安堵で全身から力が抜けそうになった。
彼女の整った顔は泥と汗に塗れ、大きな緑色の瞳には涙の雫が溢れんばかりに湛えられていた。
「だ、大丈夫ですか!? マリーさん怪我は、ひどいんじゃ」
彼女の元へ駆け寄ろうとした途端、傷口が灼けるように疼いて、思わず膝が折れそうになる。どうやら、走るのはまだ無理らしい。
「フェリクス君、あなたこそ、そんな体で無理しちゃダメよ! もう」
彼女は僕を見つめながら、泣き出しそうでありながらも、どこか叱るような、でもでも、その奥には深い優しさ感じさせる、とっても複雑な表情を浮かべていた。
「ところで……さっき、私のこと、呼び捨てにしなかった?」
マリーさんが顔をほんのり赤らめ、長いまつ毛を伏せてぽつりと言った。その声は先ほどまでの響きとは打って変わって、少し甘えたような?
とにかく、僕の知らない色を帯びている。
「えっ? 僕がですか?」
虚を突かれて間抜けな声を上げる僕に、マリーさんはこくりと頷く。
「……私のこと、マリーって呼んだでしょう? 『諦めるなマリーッ!』って、すごく大きな声で」
あー、言われてみれば、確かに。
切羽詰まった状況で、僕は無我夢中で叫んでいたのは覚えている。
「あ、いや、それは、緊急事態というか、早く逃げないと魔法に巻き込まれると焦っていて」
本当に、あの時はただ必死だったんだ。しどろもどろに言い訳を重ねる僕に、マリーさんは悪戯っぽく唇の端をきゅっと上げた。
「別に、呼び捨てでも、私は構わないのだけれど?」
え、と再び思考が停止する僕に、彼女は楽しそうに言葉を続ける。
「むしろ、そっちの方が……なんだか、嬉しいかも。ほ、ほら、いつまでも弟みたいに接するのも、キミにし、失礼だし?」
「いや、別に失礼じゃありませんよ?」
僕が少し困惑しながらも正直にそう答えると、マリーさんの頬が、期待していた反応と違ったせいか、ぷっくりと膨らんだ。
今まで見たことのない仕草と、地面に伏したまま泥だらけの彼女が、顔を赤らめて一生懸命しどろもどろ訴えている光景が、なんだか無性におかしくて。
「ぷっ、あはは」
僕は、こらえきれずに笑ってしまっていた。
緊張の糸がようやく切れたのかもしれない。
「ちょ、ちょっとフェリクス君。 何がおかしいのよ! ひ、人が真剣に……」
マリーさんが潤んだ瞳で、本気でむくれたように僕を睨みつける。
その表情もまた、僕が今まで見たことのないものだったから。
「だって、マリーさん……そんな風に全身泥だらけで、地面に寝そべったまま頬を膨らまされても……ぷっ」
僕が涙目になりながらも説明すると、マリーさんはきょとんとした顔で数秒固まり、それから自分の姿を見渡して……。
「ああっ!?」
彼女は素っ頓狂な声を上げると、慌てて立ち上がり、必死に泥だらけの服を手で払ったり、顔の汚れを気にしたりと大わらわだった。
「も、もういいわっ。とにかく早く帰りましょ。もう歩けるんでしょう?」
耳まで真っ赤にして、彼女は少し乱暴そうに言う。
「はい、走るのはまだ厳しいですけど、歩く程度なら、なんとか」
「そ、そう。それならいいわ」
少しぶっきらぼうに返事をしながらも、彼女は僕がゆっくりと立ち上がるのを、心配そうに横目で見守ってくれている。
「マリーさんこそ、肩の傷大丈夫なんですか?」
「ええ、これくらい平気よ。……それより、一刻も早くリヨンへ戻りましょう。あなたのその酷い傷の方が心配だもの。落ち着いた環境でしっかり治療しないと」
そう言って僕を促す彼女の声は、もういつもの落ち着いたものに戻っていて、少し残念。
僕たちは互いの体を支え合うようにして、ようやくあの岩窪を後にした。
夜通しの死闘、まさに悪夢としか言いようのない数日間。身も心も擦り切れるような経験だったけれど、不思議と心は凪いでいる。
再会を願っていたマリーさんに、ここでこうして会えたのだから。
強く願えば叶うとするならば、アンリエッタさんにも、きっとまた会えるはず。
僕は、そう信じている。
リヨンまでの道のりは、まだ遠い。
今の僕たちの体力では、決して楽な旅路ではないだろう。
けれど、マリーさんと二人ならきっと乗り越えられる。今回の道程で改めて、彼女の強さと優しさを知ることが出来たから。
僕たちは言葉少なに、ただ時折視線を合わせ、互いの存在と無事を確かめ合うように。
木漏れ日がまだらに差し込む静寂の森を、一歩、また一歩と歩み続ける。




