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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
二章 取り戻すために

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第50話 空を舞う緑風

 翌朝。東の空がようやく白み始めた夜明けの空の下、私はリヨンを後にした。

 ギルド職員としてのささやかな給金で買い揃えた回復薬を、革のポーチ一杯に詰め込んで。昨日までの日常とは決別を告げるように、魔の大森林行きの乗合馬車の停留所へと一人向かう。

 ギルドマスターの、どこか父親のような響きすらあった引き留める声を振り切り、長年勤めた冒険者ギルドの職員という身分を捨てたことにも、不思議と後悔はなかった。

 あるのはただ、一刻も早くフェリクス君の元へ辿り着かなければという焦燥感と、彼の無事を願う切なる想いだけ。


「……本当に、馬鹿な女よね、私って」

 停留所で馬車を待つ間、思わず自嘲の笑みが漏れる。

 たかが一人の、それも知り合ってまだ日の浅い少年のために、安定した職を捨て、危険な森へと単身向かおうとしているのだから。

 他の誰かが聞いたら、正気を疑うかもしれないわ。

 実際、ギルドマスターには疑われたものね。

 

 けれど、私にはどうしても、あの子を見捨てることなどできなかった。

 ……彼のあの真っ直ぐな瞳。アンリエッタさんという女性へのひたむきな想い。それに、時折見せる、どこかガラス細工のように脆く、寂しげな横顔。

 それら全てが、私の心の奥底に沈んだ、決して忘れることのできない古い傷を、少し優しく、時に痛悲しく、けれど確かに刺激してしまう。


 夢と希望を胸に抱き、幼馴染たちと、たった一人の可愛い弟を連れて、このリヨンの町へやってきた。今はもう遠き過去の物語。

 ほんの僅かな慢心と油断──そう、あの不気味な森の奥深く。古代遺跡へと向かう途中で出会った、得体の知れないあの男を疑わなかったことが、私の全てを奪うことになるなんて。

 大切な仲間たちは無惨に散りゆき、愛する弟は二度と、二度と私の名を優しく呼ぶことはない。

 あの時、私がもっと強ければ……。

 もっと、もっとしっかりしていれば。そんな後悔と自責の念が、ずっと私の心を縛り続けていた。

 

 ダメな私の、誰にも打ち明けられなかった暗い過去を、フェリクス君は黙って聞いてくれた。そして、温かい言葉と、不器用だけれど優しい抱擁で、まるごと私を包み込んでくれたわ。

 あの日を境に、止まり続けた私の時は、ようやく動き始めたのだと思う。

『マリーさんが、大切な姉さんが、ずっと過去の出来事に囚われて自分を責め続けている姿なんて、僕が彼らの立場だったら絶対に見たくない。誰よりもきっと、マリーさんが過去を乗り越えて、幸せになることを強く願っているはず。そうは、思いませんか?』

 あの子の言葉は、温かい陽だまりのようだったから。

 本当に、かけがえの無い人たちだったからこそ、彼の言葉がすとんと、腑に落ちたのだと思う。自然とそう思えたのね。

 

 私はもう二度と、あんな悲劇を繰り返したくない。

 目の前で、希望に満ちた若い才能が、久しく出来なかった、心許せる仲間が理不尽に散っていくのを、黙って見ていることなど絶対にできない。

 フェリクス君は、私の弟とは違う。それは分かっている。

 けれど、彼を見ていると、どうしてもあの子の面影が重なってしまうのも、偽らざる事実なの。彼には、あの子の分まで幸せになってほしいと、心の底から願ってしまう。

 だから、私は行くわ。

 たとえ彼に、重くて面倒くさい女と思われたって、構わない。

 

 やがてやって来た、リヨン冒険者ギルドの紋章が描かれた乗合馬車は、早すぎる朝ということもあって、まだ乗客もまばらだった。

 見知った御者に銅貨を支払い、揺れの少ない前方の席にそっと腰を下ろす。

 ぎしり、と軋む音を立てて車輪が回り始めると、見慣れたリヨンの街並みが、ゆっくりと後ろへと流れ去っていった。

 

 彼の強さは、何度も間近で見てきたつもりよ。

 鉄級冒険者の中でも、その実力は間違いなく抜きん出ていると思う。いずれは彼の強さに見合うランクへ、駆け足のように上がっていくでしょうね。だけど、魔の大森林の奥深くは、そんな彼の若さと、時に危ういほどの勇猛さをもってしても危険すぎる場所なの。

 ましてや、今の彼は、アンリエッタさんのことで冷静さを欠き、無謀な行動に走っているかもしれないから余計に危うい。

 どうか、取り返しのつかないことになっていませんように……。


 馬車は、鬱蒼とした木々が天を衝く巨大な柱のごとく連なる、魔の大森林の入り口近くで、その古びた車輪を止めた。

 扉が開くと、ひんやりとした森の濃い空気が流れ込み、私の肌を少し粟立たせる。既に数人の歴戦の勇士といった風貌の冒険者たちが、覚悟を決めた面持ちで武装を整え、次々と森の奥へと吸い込まれて行った。

 

 一歩、森へと足を踏み入れると、どこか原始的な匂いがする濃密な森の空気が、私の全身を包み込む。

 太陽の光は、天高く伸びる木々の葉に幾重にも遮られ、昼間だというのに森の中は薄暗く、湿った土と堆積した腐葉土の独特の匂いが、鼻腔を強く刺激する。これこそまさに、この広大無辺な魔の大森林のみが持つ、独特の雰囲気といえよう。

 ザッ、ザッ、と落ち葉を踏みしめる自分の足音だけが、この不気味なほどの静寂の中で、やけに大きく、そしてどこか心細く聞こえる。

 ここからは、もう本当に私一人。助けてくれる者は、誰もいない。

 慎重に、けれど大胆に行かないと。


「さてと……まずはどこから探すべきか。フェリクス君、キミなら、どこへ……」

 私は背負っていた、手によく馴染んだ弓を手に取り、矢筒から数本の矢を引き抜いた。元白鋼級冒険者とはいえど、この広大な魔の森をたった一人で探索するというのは、初めてのこと。

 大丈夫よ、マリアンヌ。あなたは、まだ戦える。

 そして、必ずあの子を見つけ出すのよ。今度こそ、仲間を失ったりしない。

「そうよね、リュカ……」

 自分自身に強くそう言い聞かせ、私は意識を集中させた。

 

 フェリクス君が最後に受けていた依頼の内容。

 それと彼のこれまでの行動パターンに性格、そして何よりも、彼が抱える焦燥感。それら全てをパズルのピースのように頭の中で組み合わせ、彼が向かいそうな場所を慎重に、そして論理的に推測していく。

 そうして、最も可能性の高そうな森の奥地へと、私は静かに、迷いのない足取りでその身を進めていった。


 どれほどの時間、森の中を歩き続けたのだろうか。

 太陽は間もなく中天に差し掛かろうとしている。

「早く見つけないと……今日中に戻れなくなってしまう」

 集中力を維持し、周囲の僅かな物音や気配にも、絶えず神経を張り巡らせて進むのは想像以上に体力と精神力をすり減らす。それは、同時に私から、貴重な時間までを容赦なく奪っていった。

 

 その時だった。

 ガサッ! バキッ!

 前方の茂みが大きく揺れる。そこから、鋭い牙を剥き出しにした数頭のダイアウルフが、涎を垂らしながら飛び出してきた。

「くっ、こんな所で手間は取られたくないのだけれど……」

 私は咄嗟に弓を構え、しなやかな動きで矢を番える。

 ダイアウルフは、熟練の冒険者にとってそう厄介な魔物ではない。

 けれど今の私は一人。盾となってくれる頼もしい仲間はいない。軽装が主体の弓術士(アーチャー)にとって、懐に潜り込まれ組み伏せられれば、それで終わってしまう。


 先頭の一頭が、私を目掛けて一直線に跳びかかって来た。その鋭い爪が、私の喉笛を寸分違わず狙っているのが見て取れる。

 私は冷静に、しかし電光石火の速さで矢を放つ。

 ヒュンッ! と空気を切り裂く鋭い音と共に、矢は寸分の狂いもなくダイアウルフの頭部を射抜き、獣は断末魔の呻き一つ上げる間もなく、どうと地面に崩れ落ちた。

 俊敏な魔獣相手だもの、外せば次はない。

 たった一人で矢を放つことの、この身の竦むような孤独と重圧。

 どちらにしても、安堵している暇はなかった。


 なぜなら、残りの数頭が仲間の死に逆上したのか、あるいは獲物への執着か、牙を剥き涎を垂らしながら、さらに勢いを増して私へ襲いかかってくるから。

 私は、かつて冒険者として培った経験と勘を頼りに、風魔法の力も借りて木々を縫い、素早く立ち位置を変えながら、息継ぎのような速さで次々と矢を放つ。

 一射必中。その矢は確実にダイアウルフの急所を捉え、一頭、また一頭と、その数を減らしていく。


 ついに最後の二頭が、私を挟み撃ちにせんと前後から同時に迫ってきた。

「まずいわね……」

 私は咄嗟に地面を蹴って横方向へ低く飛び込み、滑るようにして前から襲い来る一頭の牙と爪を紙一重で躱す。

 体勢を立て直す間もなく、その魔獣は恐るべき野生の速さで身を翻すや、そのまま立ち上がりかけた私にのしかかり、喉笛を狙って大きく(あぎと)が開けられた。

 

 晒される私の命に肌が粟立ち、戦慄が背筋を駆け上る。 

 まだ、死ね訳にはいかない、のに……。

 反応する間もなく、両肩に稲妻のような痛みが走った。

 柔肌に食い込む、ダイアウルフの尖爪が痛い。

  

 私は躊躇することなく、その魔獣のがら空きの首筋へ、腰の鞘から抜き放った短刀を逆手に深々と突き立てた!

 熱い血飛沫を浴びるのも構わず亡骸を払いのけ転がり、瞬時に体勢を立て直す。

 まさにその刹那、最後の一頭が獰猛な牙を剥き出しにして、空中より私に襲い掛かってきていた。咄嗟に放った速射は、よりによって肝心なところで狙いを外す。

 その一矢は、獣の頬をわずかに掠めただけだった。

 

「外したの!? ちっ」

 迫る牙、唸る爪先。

 絶体絶命の窮地に追い込まれた私は、傍らの大木の幹を強く蹴り上げ、風のように高く舞い上がる。そして、空中で華麗に身を翻し狙いを定めると、ありったけの力を込めて最後の一矢を解き放つ。

「お願い、当たって!」

 

「はぁ……はぁ……っ。なんとか、なった?」

 全てのダイアウルフが地に伏したのを確認し、私はようやく安堵の息を漏らす。額には玉のような汗が滲み、肩で大きく息をしていた。

「一人って、こんなに大変なのね」と、仲間がいることの有難みを改めて痛感しながらも、私は気を取り直し、再びフェリクス君の痕跡を探し始める。


「なに、これ……?」

 そこから、さらに森の奥へと進んだ先で、私は信じがたい光景に息を呑む。

 そこには数多(あまた)の、それも多種多様な魔物の死骸が、まるで暴虐の旋風が過ぎ去ったかのように、広範囲に渡って散乱していたから。

 オークにバグベア、無数のダイアウルフ。中にはジャイアントスパイダーと思しき大きな残骸までもが転がっている。

 そのどれもが、尋常ならざる鋭利な刃の一閃か、あるいは圧倒的な魔法によって、ほぼ一撃のもとに屠り去られていた。

 これだけの数の魔物を……たった一人で?

 まさか、フェリクス君がこれを!?

 そのあまりにも凄惨でありながら、同時に底知れぬ強さを感じさせる光景に、私は言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 仮に、これが彼の仕業だとして、なら……彼は一体、どこへ行ったというの?


 そこから少し離れた場所に、あの『イグニスフィア』が大地を深く抉った跡と、その傍らに夥しい血で赤黒く染まった地を、私はついに見つけてしまう。

 

 そこからは、点々と血痕が続いていたけど……幸いにして、それは森のさらに深部ではなく、西部からやや出口を示唆する方角へと伸びていた。

 この絶望的な状況の中で、それだけが唯一の、か細い光明のように思えた。

 けれど、その血痕のすぐ側に、見覚えのある革製の水袋が──彼がいつも腰に下げていたそれが、まるで獣にでも噛み千切られたかのように無残な姿で転がっている。

 よく見れば、戦利品を入れるための革袋までもが、中身をぶちまけたように散乱しているじゃ……ない、の。


「フェリクス君……っ!!」

 私の喉から、絞り出すような悲痛な叫びが迸った。

 赤黒い血痕は、彼が辿ったであろう想像を絶する苦難の道筋を冷酷に物語っているみたいで胸が締め付けられるけど、その一条の赤は、彼の元へ引かれた(しるべ)のようでもあったのよ。

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