第49話 今度こそ間違えない
◆ ◆ ◆ ─ Marianne side ─
冒険者ギルドの喧騒は、今日も変わらない。
新たな冒険へと旅立つ者、昨夜の酒の匂いを微かに漂わせながら、今日の依頼を吟味する者。
様々な人間の思惑と熱気が渦巻くこの場所で、私はいつものように受付カウンターの内側に立ち、開店準備と並行して、早くも訪れる冒険者たちの対応に追われ始めていた。
だけど、私の心の大部分は、今朝になってもまだこの場に姿を現さない、一人の少年のことで占められている。
「フェリクス君……遅いわね……」
カウンターの端に積まれた書類に視線を落とすふりをしながら、私は何度目になるかわからないため息を、胸の奥でそっと吐き出す。
彼が一人で魔の大森林へと向かってから丸一日が過ぎ、新しい一日が始まろうとしていた。
今まで、彼が日を跨いで依頼から戻らなかったことなど、ただの一度もない。ましてや、あれほど『一人での野営は絶対にやめて』と、きつく念を押したというのに。どんな依頼であっても、彼は必ず、日暮れ前にはこのギルドに顔を出し、少し照れくさそうに成果を報告してくれていたから。
「あら、アンちゃん。また例のお気に入りの子のことでも考えていたの?」
隣のカウンターで手際よく仕事をこなしていた受付仲間のシモーヌさんが、私の沈んだ独り言が聞こえていたのだろう、悪戯っぽい笑みを隠さずに声をかけてくる。
「お気に入りだなんて……そんな、でも、その彼が、まだ戻らないものですから」
「あらあら。まだ丸一日と少し経ったくらいでしょう? 大丈夫よ、きっと。若い男の子なんだもの、たまにはどこかで羽を伸ばしているんじゃないかしら」
シモーヌさんの、あっけらかんとした慰めの言葉。
それは、普通の冒険者相手なら、きっと正論なのだろう。
何かの事情でリヨンを離れているのかもしれない。あるいは、少し背伸びした依頼に手間取っているだけなのかも……そう割り切れれば、どれほど気が楽になるか。
待って、羽を伸ばす、ですって?
あー……えっと、男の人が夜に息抜きに行く、そういうお店へ行ったということ? 無い無い。それだけは天地がひっくり返ってもあり得ないわ。
なるほど、確かにシモーヌさんが言う通り。たった一日彼が戻らないくらいで、私がここまで気を揉むのは、少し過保護すぎるのかもしれないわね。
そう自分に言い聞かせながらも、ギルドの扉が開くたびに、無意識のうちに視線がそちらへ吸い寄せられてしまう。そして、そこに彼の姿がないことを確認するたびに、胸の奥がチクリと痛むのだ。
あの子の真っ直ぐすぎる瞳と、どこか危うさを秘めた決意の強さを思い出す。
アンリエッタさんという、彼にとって何よりも大切な女性を取り戻すためならば、彼はきっと、どんな危険も顧みないだろう。それが、今の私には痛いほどわかっているからこそ、心配でならない。
そして、二日目の夕刻。
ギルドの終業時刻が迫り、喧騒もようやく落ち着きを見せ始めた頃になっても、ついにフェリクス君は姿を現さなかった。
もう、我慢の限界だった。
「ごめんなさい、シモーヌさん。少し席を外します!」
私は隣のシモーヌさんにそう告げると、椅子を蹴立てるようにして立ち上がり、早足でギルドマスターの執務室へと向かう。胸の奥では、言いようのない焦燥感が吹き荒れていた。
「アンです。至急、お話したいことがございます!」
執務室の重厚な扉を叩くのももどかしく、私は返事を待つ前に、半ば乱暴に扉を開けて踏み込んでいた。 叱られるのは承知の上よ。
部屋の中央、大きな執務机の向こうで、壮年の、けれどその双眸には未だ猛禽のような鋭い光を宿すギルドマスターが、山と積まれた書類の山からゆっくりと顔を上げる。私のただならぬ様子に、僅かにその厳つい眉をひそめていた。
「アンか。どうした、そんなに血相を変えて。何か緊急の問題でも起きたのか?」
その声には、私の焦りとは裏腹な、どこまでも冷静な響きがあった。
「 昨日の朝から、魔の大森林での依頼に出ているフェリクス・コンスタンツェ君が戻りません。 彼が何一つ連絡もなしに戻らないのは、これが初めてのことです。何か、深刻な不測の事態に巻き込まれた可能性が、極めて高いと思われます」
私の必死の訴えも、ギルドマスターの表情は変わらない様子。
「それで? 私にどうしろと?」
短く、そしてあまりにも事務的なその問いが、私の心に冷水を浴びせかける。
「……捜索隊を、彼の捜索隊を出すわけにはいきませんでしょうか!?」
私は、ほとんど懇願するように、声を振り絞った。
「ギルドに現れなくなって、たったの二日でか? それは無理な相談というものだ」
マスターはまるで子供の我儘を諭すかのように、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで私の願いを切り捨てる。
たった……二日……?
そのあまりにも冷徹な、そして痛いほど現実的な言葉に、私は一瞬、言葉を失い、目の前が暗くなるような感覚に襲われる。
同時に怒りと、どうしようもない無力感がお腹の底から込み上げてきた。
「しかし、彼は……フェリクス君は、まだ若いですが、類まれな素晴らしい才能を持っています。これからこのリヨン支部にとっても、いえ、王国全体のギルドにとっても、間違いなく得難い貴重な人物となるはずです! 」
なおも食い下がる私にマスターは、今度は明確な、冷ややかなかたちで、諭すように、しかしその実、突き放すように言い放つ。
「アン、お前のその若い冒険者への個人的な肩入れは、ギルド職員としての立場を考えれば看過できんが、まあ、分からなくもない。だがな、冒険者とは、そもそもそういうものだ。己の力を過信し、分不相応な危険に身を投じれば、その結果は、良くも悪くも全て自分自身に返ってくる。それは、彼とて例外ではない」
「それは、そうですが……しかし、彼はまだ若く、経験も浅いのです! 誰かが教え、導いてあげなければなりません」
私の必死の反論も、ギルドマスターの固く閉ざされた心には届かない。
「ギルドは、個々の冒険者の個人的な判断ミスや、お前のような感情的な行動にまでいちいち付き合ってはいられん。そんなことをしていては、このリヨン支部、いや、王国全体のギルド組織そのものが成り立たんのだ」
「それでは……それでは、ただ見殺しにしろと、そう仰るのですか!」
思わず、声が震える。
怒りと、絶望と、それから込み上げてくる涙で、目の前が滲んだ。
「彼が自分で選んだ道だ。我々は見守ることしかできん。……それに、まだ二日だ。お前のその過剰な心配をよそに、明日あたり、何食わぬ顔でひょっこり帰ってくるかもしれん」
マスターの言葉は、どこまでも正論だった。
組織の長として、それはあまりにも合理的で、揺るぎない判断なのだろう。
だけど……当事者にとってはそれは、どこまでも冷酷で非情に聞こえてしまう。
彼のその判断は、決して間違ってはいないのかもしれない。だけど、今の、フェリクス君の身を案じるこの私には、納得することなど到底できなかった。
あの子は……フェリクス君は、ただ自分の力を試したいだけの無謀な若者なんかじゃない。私達とは違う。彼には、命を懸けてでも守りたい、取り戻したいものがあって、そのために、ただひたすらに、必死になっているだけなのに。
どうして、その純粋な想いが、あなたには分からないの?
言えないもどかしさが辛く、悲しい。
悔しさに俯く私に、ギルドマスターは、もはや何の感情も介在させない最後の言葉を告げる。
「これ以上、私に何か言っても無駄だ。下がりなさい、アン。そして、自分の仕事に戻れ。お前にはまだ、受付としての職務が残っているはずだ」
私は、何も言い返すことができなかった。
ただ、重い足取りで執務室の扉へと向かう。項垂れたまま扉に手をかけ、最後に一度だけ振り返ったけれど、ギルドマスターは既に私を見ていない。
彼は再び、山積みの書類へと視線を戻していた。
受付カウンターへと戻る道すがら、窓の外に広がる赤い夕焼け空が、何だか今日は不吉なほどに禍々しく見えてしまう。
無力な私は、彼の無事を祈ることしかできないのだろうか。
同時に、このあまりにも非情な現実に対して、結局何もできない自分自身に対して、どうしようもないほどの激しい憤りを覚えていた。
このままでは、あの子は……フェリクス君は、本当に、帰ってこないかもしれない……。その考えが頭をよぎった瞬間、全身の血が凍りつくような悪寒が走る。
あなたはそれでいいの?
本当に、それで後悔しないと言い切れるの? マリアンヌ。
自問自答する。
答えは、もうずっと前から出ていたように思う。
「そうね……いつか、あの子に言ったわよね『考えていることがある』って。その“考え”を、今こそ実行に移す時なのかもしれないわ……」
私は一度固く目を閉じ、そしてゆっくりと開くと、踵を返し、再びギルドマスターの執務室へと、今度は迷いのない確かな足取りで向かった。
「マスター、何度も申し訳ございません。もう少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
先ほどとは打って変わった、私の落ち着いた、しかしどこか有無を言わせぬ響きを帯びた声に、ギルドマスターは訝しげに顔を上げる。
「まだ何かあるのか? アン。先ほどの話であれば、もう結論は出ているはずだが」
「はい。ですので、別の提案をさせていただきたく参りました」
「ほう、どんな?」
「私が、一人で彼の捜索に向かうことにしました。これなら、誰にも迷惑をかけることもございません。何一つ、文句はないでしょう?」
私の言葉に、ギルドマスターの眉間の皺がさらに深くなる。
「……お前にはギルド職員としての仕事があるだろう。一体、何を言っているんだ、アン。正気になれ」
「私は至って正気です。ですから、以前よりお話させて頂いておりましたが、本日をもって、このリヨン支部の職員を辞めさせていただきます。これなら問題はないはずです」
私のあまりにも突飛な、されど真剣な申し出に、さすがのギルドマスターも目を見開き、言葉を失っている。
「ううむ……そこまで、してか? たかが一介の新人冒険者のために、お前は勤めたこのギルドを辞めると、そう言うのか?」
その声には純粋な驚きと、はっきりとした困惑の色が滲んでいる。
「はい。彼にとっては、私は『たかがギルドの受付嬢』の一人かもしれません。ですが、私にとってあの子は……もう、放っておけない、大事な子なんです」
私の瞳には、もう何の迷いもないわ。
フェリクス君。あなたのその真っ直ぐな想いを、あなた自身のことを、今度こそ私が必ず守ってみせるから。待ってて。




