第48話 継承
何もない、ただただ果てしなく広がる、無。
音もなく、色もなく、冷たい虚無だけが、この世界を静かに支配していた。
僕は延々と目の前に広がる、乾いた砂利がどこまでも敷き詰められた地を、たった一人で歩いている。
気が付けば、そこに水の一滴すら存在しない、枯れ果てた河原。
僕は、そのあまりにも物悲しく、寂しい灰色の景色の中に、ぽつんと、本当にただ一人で立っていたんだ。
本当に、何もなかった。
生命の息吹も──
頬を撫でる風の音も──
生きとし生けるものを育む光の温もりさえ──
ここには存在しない。
ここは、僕が今まで過ごしてきた現世にあらず、俗にいう隠世、あるいは、魂の終着点である冥府の入り口と呼ばれる世界なのだろうか。
それだけは、なぜか、理屈ではなく本能で悟ってしまう。
肉体という、魂を繋ぎ止めていた楔から解き放たれ、ただの意識体(?)としてこの世界を彷徨う僕にとって、ありとあらゆる感情が、まるで薄い乳白色の紗を一枚隔てたかのように希薄だった。
あれほどまでに僕を悩ませ、けれど時には至福の安らぎを与えてくれた、愛すべきでもあるはずの睡眠欲も、生きるために不可欠だったはずの食欲も、そして、ひとたび心を捉えれば僕を惑わせ、道を誤らせそうになる激しい情欲すらもが、ここではまるで陽炎のように儚く揺らめき、ゆっくりと、しかし確実に、その輪郭を失っていく。
そんな、全てが曖昧模糊とした世界で、僕はただ一人。
今はもう、自分が一体誰だったのかすら、よくわからない。そして、それが不思議と気にもならないのだ。
ただ、歩いている。それだけが、今の僕の全てだった。
誰に命じられるでもなく。
誰に頼まれた訳でもなく。
道なき河原を、僕は行く。
生命の痕跡すら感じられない、乾ききった河原に、無数の、同じような形をした砂利のみがどこまでも広がる、この空虚な世界。
気づけば、いつの間にか足元から、白い霧が、音もなく立ち込めていた。
辺りはぼんやりとして、先ほどまで辛うじて見えていたはずの、先の景色さえも、もうよく見えない。
霧は、まるで生きているかのように、少しずつ、少しずつその濃度を増していき、やがて僕の目の前すらも、乳白色の帳で完全に覆い隠してしまっていた。
それでも、僕は歩いた。歩き続けた。
まるでそれが、この何もない虚無の世界で僕に与えられた、唯一の使命か何かのように、ただ黙々と、前へ、前へと。
どれほどの刻が過ぎ去ったのか、それとも、ほんの一瞬の出来事だったのか。
時間の感覚すら曖昧なこの世界でいつしか、濃く立ち込める霧の向こうに、ぼんやりと、しかし確かな存在感を放つ大きな影が見える。
それは、このどこまでも殺風景で無機質な世界で唯一、何かしらの意味を持っているかのように、僕には思えたんだ。
霧が、僕を誘うかのように、すうっと晴れていく。
──朧げだった影の輪郭が、徐々に、徐々に……その姿を現して。
其処に立っていたのは僕が、この世界で誰よりも尊敬し、幼少の砌『僕も父さんのような騎士になる』と、心の底から強く、強く願った、あの大きくて頼もしい背中だった。
見間違えるはずがない。
がっしりとした肩幅、多くを語らずとも全てを包み込むような、厳しくも優しい眼差し。
そして、僕の名を呼びかける、あの懐かしい、低くて温かい声。
「フェリクス」
その、たった一言を聞いただけで、希薄だったはずの、まるで凍てついていたかのような僕の感情が、堰を切ったように……心の奥底から溢れ出す。
喜び、安堵、それから、どうしようもないほどの、春の雪解け水のような悲しみ。
「父、さん……? 本当に……父さん、なの……?」
僕の掠れた、ほとんど吐息のような声に応えるように、その影──アドリアン・コンスタンツェは、ゆっくりと、けれど確かな足取りでこちらに振り向いた。
その顔には、僕の記憶の中にある、あの頃と少しも変わらない、厳格さの中に深い海のような愛情を湛えた、懐かしい僕のたった一人の父の笑顔があった。
「父さん……本当に、父さんなんだね……」
目の前に立つ紛れもない父の姿に、僕は溢れそうになる涙を堪えきれなかった。希薄だったはずの感情が、父の温かい眼差しに触れた途端、まるで激流のように僕の心を駆け巡る。
会いたかった。どれほど、この再会を願ったことか。
「フェリクス、お前は、まだこちらへ来るには早すぎる」
父アドリアンの声は記憶の中のそれと変わらず、厳しくも、どこまでも深い愛情に満ちている。
その声は、今なお霧に閉ざされたこの虚無の世界で、僕にとって唯一の確かな道標のように響く。
「でも、父さん……目が覚めたらここだったんだ……」
言いかけて、言葉に詰まる。
そうだ、気が付けば僕はここにいた。あの絶望的な戦いの後、どうやってここまで来たのか、全く覚えていなかった。
「これを持ってゆけ。必ずや、お前の助けとなるはずだ」
父さんがおもむろに、その大きな左手を僕へと差し出す。
「手を、握れということ?」
父が、静かに頷く。
僕が戸惑いながらもその手を握り返すと、父さんの手が、僕の手を力強く、それでいてどこか祈るように握りしめる。
すると、父さんの手の甲にあったはずの古びた痣が、まるで長年秘められていた聖遺物のように、白銀の光を迸らせる。それは、まさしく白き流れとなりて、あたかも長年守り継がれてきた清浄なる何かが、ついに、ふさわしき次代の主の元へと。
その身を委ねるかの如く、僕の右の手の甲へ清冽なうねりとなって流れ込んできた。
「ぐっ……あ、熱い……!」
灼けるような痛みと、魂が、時の流れそのものと一体になるかのような、不思議な感覚。
その白き奔流は、コンスタンツェの祖霊が、累代重ねて培い、守り抜いてきたであろう『想い』や『願い』──森羅万象への畏敬、何物をも恐れぬ清廉な勇気、邪ならぬ憤怒、そして、慈しむべき愛。それら全てが、僕の存在の根源に、消えることのない聖痕のように、深く刻み込まれていった。
僕の右の手の甲に視線を落とすと、そこには、父のそれとは少し違う、より洗練された紋様が、そう、古の運命を告げる印のように、くっきりと浮かび上がっている。
「……一角獣?」
「ほう、それは一角獣を表すものだったか。俺の痣とは違うようだな。その聖痕の謎を、俺は、生涯解くことは叶わなかったが……。お前なら……。いいか、フェリクス、祖霊の声に耳を澄ませ」
父はどこか安堵したような、それでいて深い寂寥を湛えた瞳で僕を見つめていた。その声には揺るぎない信頼も込められているように思う。
「お前の道は、まだ終わってはいない。帰れフェリクス。お前を待つ者たちの元へ。そして、今度こそ、お前の信じる道を最後まで歩き通せ。……父として、それだけが唯一の願いだ」
父の眼差しが僕を強く射抜く。
それは命令でも懇願でもない。ただ、息子を信じる父の強い眼差しだった。
「……うん。わかったよ、父さん。僕は……帰るよ。必ず、生きて帰って、父さんのように、大切なものを守れる男になる」
涙を拭い、僕は父の目を真っ直ぐに見つめ返す。
すると父は満足そうに、そして少しだけ寂しそうに微笑むと、その大きな背中をゆっくりと僕に向けた。
「行け、フェリクス。……達者でな」
その言葉を最後に、父の姿は、再び立ち込めてきた濃い霧の中へと、ゆっくりと、そして静かに溶けるように消えてゆく……。
「さようなら、父さん……そして、ありがとう」
今言わなければ、二度と言えない気がしたから……。
ありったけの想いを込めて。僕は言ったよ。
◇ ◇ ◇
ハッ……!
肺を圧迫するような息苦しさと、骨の髄まで響くかのような激痛で、僕は暗く淀んだ意識の底から、荒々しく現実へと引き戻される。
重すぎるまぶたをこじ開けると、最初に目に飛び込んできたのは、ごつごつとした岩肌の天井だった。薄暗く、ひやりとした空気が肌を刺し、湿った土と黴の匂いが鼻をつく。
どうやら僕は、あの後、本当に気を失ってしまっていたらしい。
「父さん? さっきのは……あれは、幻だったのか……?」
掠れた声で、誰に言うともなく呟く。
あれは夢……?
父の厳しくも優しい眼差し、そして僕の背中を押してくれた力強い言葉。それら全てが、まるで水面に映った月のように儚く揺れ、消え去ってしまっていた。
ふと視線を落とした右手の甲に、僕は息を呑んだ。
そこには、先ほど父から受け継いだばかりの、螺旋の角を天に掲げる気高い一角獣の刻印が、色濃く鮮やかに浮かび上がっていたから。
これこそ、紛れもない父との絆の証。
あれは、決して幻なんかじゃない。
懸命に生きろと願った、父さんから僕への、最後のメッセージがここにあった。
「う……っ、ぐぅ……!」
体を起こそうとするも、左肩から胸にかけて、灼けた鉄の棒を突き刺されたかのような激痛が走り、思わず呻き声が漏れる。
父との再会の余韻に浸る間もないのか、全く。
反射的に視線を落とせば、アンリエッタさんの黒い服で作った粗末な包帯が、僕自身の血で赤黒く固まっていた。
『ルクス・リヴァイヴ』は成功したのだろうか。我ながら、無茶苦茶すぎる状態での魔法の行使だったと思う。
はは、難しく考える必要などないか……。
こうして再び、この現世で目を覚ますことが出来た。
なら、そういうことなんだろう。
岩窪の入り口らしき方向から、強い光が差し込んでいる。
それは絶望的なまでに長く続いた闇夜を切り裂いて、新たな一日、新たな希望の訪れを告げる荘厳な陽の光。
どうやら、あの悪夢のような、百鬼夜攻の長い夜は明けていたらしい。
どれだけの時間、ここで気を失っていたのだろうか。
正確なことは分からないけど、体内の魔力は、あの極限状態の時とは比べ物にならないほど、随分と回復しているように思える
なら、やるべきことは一つしかない。生きてリヨンへ戻るためにも、父との約束を果たすためにも、改めて治癒魔法をかけなおしておきたい。
「生命の輝き、再生の光よ、疾くあらん【ファストヒール】」
昨夜の、枯渇寸前の魔力で必死に紡いだ時とは、比べ物にならないほど滑らかに、力強く魔力が流れ、淡い緑色の光が傷口を優しく包み込む。
すると今度は、腹の虫が一斉に暴れだしたみたいな、強烈な空腹感が僕を襲う。
そういえば、最後にまともな食事をしたのは、一体いつのことだっただろう。ここ最近の記憶は戦闘と逃走、後は痛みと恐怖でほとんどが塗りつぶされていて、思い出そうとしてもとんと思い出せない。
何にせよ、助かったと思ったら、今度は空腹で死にそうだなんて……はは、我ながら、ずいぶんと現金なものだよ。
自嘲気味な笑いが、静かな岩窪に小さく響いた。
僕は、血と泥に汚れて見る影もなくなった革袋の中から、遠征用にいくつか用意していた、例のあの硬いパンを取り出す。
それは、いつものようにパサパサに乾燥し、お世辞にも美味しいとは言えない代物だったけど、今の僕にとっては、どんな豪華な宮廷料理よりも価値のあるご馳走にも見えたから不思議だ……。
パンを一口、また一口と味わうかのように、ゆっくりと時間をかけて噛みしめる。乾ききった喉を通り過ぎる時の、あのざらりとした武骨な感触すら、今はただ、生きているという確かな証のように感じられた。
パンを飲み下し一息つくと、当然喉も乾ききっていることに気がつく。
えっと、水袋は……残念ながら、あの激しい逃走のどこかで落としてしまったらしい。腰を見ても、革袋の中を探っても、見慣れた水袋の感触は何処にもなかった。
さて、どうするか……。
さすがに、この乾ききった喉のまま、この先を行くのは辛すぎる。かといって、この辺りに水源があるとも限らないし……尿を飲むとかは絶対に嫌だ。
「あ、そうか。なんだ、あの手があるじゃないか」
考えあぐねていた僕の脳裏に、ふと、ある光景が閃いた。思いつきさえすれば、なんと簡単な……灯台下暗しとは、まさにこのことだろう。
アンリエッタさんが昔、まだ僕が幼かった頃、彼女の白い手のひらの上に、小さな水球をふわりと浮かべて見せてくれたじゃないか。そう、マルタンさんの店の井戸掃除の時も、あの魔法を応用して大量の水を汲み上げただろ?
あれを使えばいいじゃないか。
僕は右手に意識を集中させる。
この程度の、ほんの小さな水球を一つ作り出すくらいであれば、魔力をことさら練り上げる必要もない。今の僕の魔力量でも十分だ。
すると僕の掌の上には、洞窟の入り口から差し込む夜明けの光を浴びてキラキラと輝く、小さな水の球体がふわりと形作られる。
「よし、できた!」
僕は迷わず大きな口を開けて、その宝石のような水の球体を、一滴残らず丸ごと口に含む。
美味い! くぅ、染み渡るぅぅぅ。
それはどんな極上の美酒よりも、今の僕の乾ききった心と体を潤してくれたよ。
ああ、本当に生き返るみたいに美味しい。って、待てよ? この魔法があれば、もう水袋なんて必要ないんじゃないか?
いやいや、そうやって油断して、回復薬を持たずにえらい目にあったばかりじゃないか。僕としたことが、また同じ轍を踏むところだった。やれやれ。
『どんな時でも、準備だけは入念になさい』
マリーさんの、あの時の真剣な眼差しと心配そうな声が、脳裏に鮮明に蘇る。
そうだった。マリーさんもそう言ってたよね。反省、反省……っと。
僕は一人、小さく首を振り、気を引き締め直すのだった。
「何だか無性に、マリーさんにも会いたくなっちゃったな」
生きてリヨンへ戻るために、まずはこの身体を休ませなくちゃ。
僕は岩陰の冷たい壁に身を寄せ、できるだけ気配を殺して目を閉じた。




