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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
二章 取り戻すために

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第46話 迫りくる死

「ぐっ……はっ……くそ、一体、何が……起きたっていうんだ……?」

 骨が砕けたかのような耐え難い激痛が全身を貫き、肺から最後の呼気までもが絞り出される。息が、できない。

 意識が急速に白濁し、世界が、音と色を失っていく。

 

「ガアアァァァーーーッ!!」

『お前を殺すのは今だ』とでも言わんばかりに、先ほどまで死闘を繰り広げた黒いオーガが勝利の雄叫びをあげ、地響きを立てながら追撃せんと迫ってくる。

 

 まずい……。呼吸が、できない……。

 体が、動かない……!?

 薄れゆく意識の底に、最後に焼き付いたのは、アンリエッタさんが商人ギルドの男たちに連れ去られた、あの悲しい日の光景だった。

 彼女の、涙に濡れた笑顔……。

「僕の幸せだけを願って生きていく」と言った、あの健気な言葉の一つ一つが、今更ながら、ガラスの破片のようになって僕の胸を突き刺す。

「僕は……まだ、こんなところで、死ねるわけがないんだ……!」

 

 気力を振り絞り、朦朧とする意識の淵で獣のように身体を捩じり、迫りくる黒オーガの鉄塊を、本当に、すんでのところで受け流す。

 受け流したとはいえ、山をも砕く一撃の余波は凄まじく、僕の身体はついに悲鳴を上げた。蓄積されたダメージと、受け流しによる強烈な反動に、僕の足元は木の葉のように頼りなくふらふらと泳ぎ、無防備にその体を晒してしまう。

 

 よろめいたその先には──もう一体の黒いオーガが、嘘のように、そうなることを見越していたかのように、待ち構えていた。

 ──これは、悪夢か?

 お願いだ、誰か。夢なら醒ましてくれ。


「そんな、二体……だなんて。なら、さっきのはお前が……?」

 そうか、こいつが……絶好のタイミングで、僕の死角から『あの致命的な』一撃を叩き込んできた、もう一体の黒いオーガだったのか。

 僕の思考が定まるよりも早く、ドォン! という地響きと共に、奴の巨大な戦斧が無慈悲な軌跡を描き、振り下ろされた。

 ゴシャリ、という硬い何かと、柔らかい何かが、同時に断ち切られる鈍い音。

 僕の左肩から胸にかけて、胸甲もろとも。肉が熟れた果実のように裂け、夥しい量の鮮血が、まるでスローモーションのように、闇色の空を鮮烈な赤に染め上げる。


「しまっ、た……」

 僕は、こんなところで死んでしまう、のか……?

 アンリエッタさん……母さん、ごめん……。

 約束、守れそうにないや……。

 消えゆく意識の中、涙に濡れた彼女の蒼玉の瞳が瞼の裏に浮かび、無念の言葉が、途切れ途切れに唇から漏れる。全身から急速に力が抜け落ち、冷たい闇が、すぐそこまで迫り、僕の全てを飲み込もうとしていた。

 これで終わり、なのか……。


 もう何も残されていない。ボロボロの体、擦り切れた心。

 もう、無理だよ。

 心底、疲れたんだ……。いい加減休ませてくれよ。

 全てを諦め、冷たく暗い水底に沈んでいくような感覚に身を委ねかけた、その時。

 胸の奥深くで、まだ消えずに(おこ)っていたはずの、最後の、本当に最後の小さな熾火(おきび)が。僕の諦めきれない想いに呼応するかのように、凝縮された熱と光を迸らせ、強く、強烈な輝きを放った。

 

 僕の胸に、父の、息子の未来をどこまでも誇らしげに語る、優しい笑顔が蘇る。

 母の無償の愛が、冷え切ったこの身に温かく溢れ出す。

 そして、アンリエッタさんが、マリーさんが……この世界で出会った、かけがえのない大切な人たちと交わした、ささやかだけれど温かい、未来への約束が「まだ生きろ」と、僕の魂を激しく揺さぶる。

 いやだ……。僕は、まだ、死にたくない……ッ。

 この世界で、生きていたいんだ。

 

 脳裏をよぎったのは、遠い日の記憶。

 なぜ、僕がこんな世界に、と。

 金髪の、見知らぬ少年の姿になって、こんな何もない不便極まりない世界で、一体どう生きろというのか。なんて理不尽な。

 そう、独り途方に暮れて嘆いた、あの日の記憶。

 

 ──それから、お前は、どれだけの幸せを得た?

 ──どれだけの、人の温もりを知ったんだ?

 あの優しい母を、一人残して逝くのか?

 希望を抱くことすら、諦めてしまったかもしれない、アンリエッタさんを。

 絶念の牢に、置き去りにして?

 マリーさんにまたしても、身近な者の死という耐え難い悲しみを味合わせると?

 こんな、何もかもが闇に閉ざされた場所で、お前は本当に一人で、全てを諦めて逝けるのかと、問うているんだ。

 

 逝けるわけがない、よな。

 お前はまだ、何一つ、果たせていないじゃないか。

 そうだろ? 立てよ!

 

「があああああっ!?」

 奥歯を食いしばり、千切れそうになる意識の糸を、強引に手繰り寄せる。左肩から迸る激痛で視界が赤く染まり、歪んでも、構うものか。

 残り少ない魔力を、魂ごと絞り出すように両の掌に集める。

 右手に収束する魔力は、もはや輝かしい炎翼を形作るほどの勢いはない。おそらく、敵を焼き尽くすほどの力は残っていないだろう。

 それでも、一瞬の目眩まし、僅かな活路を切り開くための、爆煙を巻き上げるだけならば──!

 

「頼むぞ、僕の……幸運の蒼い鳥……【イグニスフィア(蒼炎飛翔)】」

 それはもう詠唱というより、最後の叫びだったと思う。

 残滓のような、頼りなげな蒼い炎塊を、僕は眼前の血濡れた大地へ叩きつける!


 僅かに凝縮された魔力が大地で炸裂し、凄まじい轟音と共に土砂と黒煙、それと灼熱の蒼炎が壁となって舞い上がった。

 至近距離での爆発により、一瞬にして視界は爆炎と黒煙という混沌に塗り潰され、二体のオーガたちの、戸惑うような咆哮が地響きとなって足元から突き上げてくる。

「ぐっ……ぅ……」

 爆風に木の葉のように翻弄され、吹き飛ばされそうになる身体を、必死で踏み止まらせる。

 千載一遇の、この好機を逃すものか。

 血の味が滲む唾を吐き捨て、僕は蹌踉(よろ)めく足をもつれさせながらも駆け出した。

 そうだ、まだ……まだ、やれることはある。

 両の手に込めた魔力の、残された最後の片方を、パックリと割れた傷口に強く押し当て、祈るように、懇願するように詠唱する。


「生命の輝き、再生の光よ()くあらん【ファストヒール(速効治癒)】」

 気休めにすらならないような、本当に微かな温もりが、絶望的なまでに深い傷口を虚しく撫で、淡く消えてゆく。

 

 方向感覚など、とうに失われている。

 ただ、奴らから一歩でも遠くへ、この地獄から一刻も早く逃れるために、僕は闇雲に、獣のように駆けた。

 使い物にならなくなった左腕は、まるで鉛の塊のようにだらり、と垂れ下がり、もはや感覚すらない。一歩、踏み出すごとに走る衝撃が、全身を裂くような激痛の呼び水となっても、走るのをやめない。

 奥歯を、砕けよとばかりに食いしばり、喉元まで込み上げる呻き声を無理やり飲み込み、ただひたすらに足を前に運ぶ。生きるために。


 遠い背後で黒オーガたちの怒り狂う咆哮と、手当たり次第に木々を薙ぎ倒し、森を蹂躙する凄まじい破壊音が、悪夢の追走曲のように轟き続けている。

 視界を遮っていた爆煙が晴れるのも、もう時間の問題だろう。

 それでも僕は、ただ前へ、前へと、蜘蛛の糸よりもなお細い、一縷の望みをその手に掴まんがため、闇と煙が混濁する森の中を夢中で走り続けたんだ。


 どれほどの時が経ったのだろうか。

 喉は焼け付くように渇ききり、肺は悲鳴を上げ続けている。

 やがて、背後の喧騒がまるで遠雷のように、ほんの少しずつではあっても、確かに遠のいていくのを僕は感じ取っていた。


 僕は、もう限界だった。

 倒れ込むように、湿った土の匂いが立ちこめる、どこかの大木の根元にずるずると身を隠す。荒く、浅い呼吸を繰り返しながら、夥しい出血で熱を失っていく左肩に、震える右手をそっと翳した。

「生命の輝き、再生の光よ()くあらん【ファストヒール(速効治癒)】」

 先ほどと変わらない、淡く、頼りない輝き。

 得意とする治癒魔法を何度繰り返そうとも、その効果は悲劇的なほどに低い。

 乾ききった大地に、ほんの数滴の水を垂らすみたいに。


「魔力が、いよいよ、尽きる……というのか……?」

『イグニスフィア』の乱発。起死回生を狙った爆炎、そして、おびただしい出血と極度の消耗。魔力が尽きるのは必然だったのかもしれない。だけど、その冷酷な現実を僕は認めたくなかった。

 追い詰められ、揺らぎ、今にも砕け散りそうな精神。

 すぐそこまで迫る、氷のように冷たい死の気配への、本源的な恐怖。

 このまま潰えれば、もう二度と……アンリエッタさんに会えないという、その絶対的な事実が、魂を引き裂くような悲嘆となって、僕の胸を抉る。


 こんな状況じゃ、精神の集中など望むべくもない。

 そんな中で放たれる『ファストヒール(速効治癒)』では、仮に魔力が十分に残っていたとしても、その効果など、たかが知れていただろう。

ファストヒール(速効治癒)……! ファストヒール(速効治癒)……!」

 それでも、僕は壊れた人形のように、ただ意味もなく詠唱を繰り返す。せめて、この熱い血の流れだけでも止めなければ、と。

 このままでは僕は、夜明けの光を見ることなく、この冷たい森の土の一部と成り果てるだろうから。


「そういえば……」

 不意に、いつだったかマルタンさんが「お守り代わりに」と持たせてくれた、あの小さな二本の治療薬の存在を思い出した。

 祈るような、最後の望みを託すような思いで、血に濡れた手を、腰の小さなポーチへと伸ばす。

 コツンと、指先にガラス瓶の硬質な感触が、確かに触れたよ。

「あった……あったんだ! マルタンさん、ありがとう……!」

 小瓶のコルクを、言うことを聞かない左腕の代わりに、歯で引き抜くのももどかしく、僕はその中身を立て続けに一気に呷った。

 薬草の強烈な苦みが、マルタンさんが込めてくれた温かい想い(魔力)が、乾ききった喉と口の奥に染み渡り、全身に広がっていく。


 僕が負った傷の深さを思えば、この程度の魔法薬では、焼け石に水だったのかもしれない。けども、黒闇の絶望の淵で虚しく足掻いていた僕の心を、もう一度奮い立たせるには──それで、十分すぎるほどだった。

 ──ああ、何とありがたいことか。

 父さんに母さん、アンリエッタさんが、そしてマリーさんや、マルタンさんまでもが。皆が、僕を生かそうと必死に手を差し伸べてくれている。そんな風に、僕に希望を持たせてくれる。


 僕は、再び立ち上がる。

 足元は覚束なくとも、その一歩には、想いを背負った確かな意志が宿っている。

 夜明け前の、最も濃い闇の中へと、僕はもう一度駆け出すのだった。

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