第45話 死線の先の活路
「うおおおおおおおおおおっ!」
全身の血が沸騰するような、制御不能な怒りが僕を突き動かす。
疲弊しきったこの体をものともせず、全身の筋肉が爆発するかのような勢いで、僕は憎き仇敵、黒いオーガへと猛然と向かった。
熱き、魂の咆哮とともに。
──瞬動一閃──
「お前に、瞬きする暇さえ与えるものかッ!」
僕の怒りと悲しみの全てを込めた必殺の抜刀術は、奴がとっさに盾のごとく突き出した、あまりにも歪で巨大すぎる戦斧と、真正面から激突する。
刹那、剣尖が橙色の火花を激しく迸らせ、甲高い金属音が音なき獄夜に響き渡った。
数多の命を屠ってきたであろう紫電の壱の太刀は、馬鹿みたいに大きな戦斧に受け止められ、その勢いを完全に殺されてしまう。
腕に伝わる、骨まで砕かれんばかりの重い衝撃と、鋭い痛みが、僕の甘い認識を木っ端微塵に打ち砕く。
「そんなものが、武器だっていうのか?」
まるで盾じゃないか……。
大盾と見紛うような、禍々しい邪気を放つ大戦斧が、ほんの僅かに横に向きを変えると同時に、空気を切り裂く轟音が嵐のような勢いで僕を襲う。
くっ、何という速さだ。
それに、この、岩塊が迫りくるような一撃の重圧はなんだ!?
初めて対峙する、悪鬼の如き規格外の魔物。
父さんでさえ、敵わなかった魔物……。
その、山をも砕かんばかりの圧倒的な質量と膂力を前に、矮小な僕の、これまでの経験則など、全くの無力に等しいと思い知らされる。
喰らえば一瞬にして、我が身の破滅は必至。
そんな一撃を、全身の筋繊維が悲鳴を上げるほどの負荷をかけて、まさに皮一枚、辛うじて身を翻した。
掠める風圧だけで、肌が裂けるかと錯覚するほどの戦慄。
何もかもが、あまりにも、大きすぎるんだ。
──奴が、あの忌まわしき大戦斧を正眼に構えるだけで、有効打を叩き込める僅かな隙すらも、完全に消え失せてしまう。
一振りで空間ごと薙ぎ払うかのような一撃と、巨躯が生む圧倒的間合いは、奴を中心に巨大な死の円を形成する。その内側では、呼吸すら許されないかのような、凄まじい圧迫感が、僕を苛むのだ。
安易にその内側へ飛び込めば、待っているのは絶対的な死。
だけだろう……。
そこに加えて、獣性のままに繰り出される予測不能な攻撃がやっかいだった。
型も何もない、ただ、あの巨大な戦斧を、純粋な破壊の衝動のまま振り回す規格外の巨躯。慣れる間もなく、次々と繰り出される傍若無人な攻撃に、僕の思考は千々に乱れ、ただ翻弄されるばかり。
一歩踏み込めば、襲い来る鉄塊に薙ぎ払われ、距離を取れば、大地を砕くほどの踏み込みと共に、一瞬で間合いを詰められる。
攻めあぐね、守りに徹するしかないじゃないか。
一体どうしろというんだ。
死への、本源的な恐怖。
生き永らえたいと足掻く、本能。
それが僕の脚を、地面に縫い付けるかのように、あの恐るべき間合いへの、決死の踏み込みを躊躇させてしまうのだ。
磨き上げたはずの、刹那の閃光にも似た僕の太刀筋は、奴の分厚く硬質な獣皮を薄皮一枚、浅く切り裂くことしかできないでいる。
これでは致命傷には程遠い。
こんなことでは、父さんの無念を晴らすことなど、できはしない。
僕は一度、後方へ大きく跳躍し、奴との距離を取ると同時に、意識を剣から、魔法の発動へと切り替える。
叶うなら……父さんの魂が宿るこの刀で、雌雄を決したかったさ。
その想いは、今も胸の奥で、どうしようもなく燻っている。
しかし、剣での攻撃が通じないというのであれば、僕の持つ最大の火力で……押し切るしかないじゃないか。
ハハ……口惜しいが、燃えてしまえよ。
お前なんか、黒炭にでもなってしまえばいいッ!
奴もまた、これまでに戦ったことのないような速さで動く僕を、警戒しているのだろう。真っ赤に染まった双眸が、油断なく、僕の次の一手をじっと伺っていた。
いまこそ、好機!
僕が掲げた掌の先、音無き獄夜の闇に、凝縮された光点が生まれる。
その光は僕の魔力を喰らい続け、凄まじい熱量と、燃え盛る音を伴ないながら膨張し、やがて、美しくも猛々しい、巨大な翼の形へと姿を変えた。
「蒼き炎よ、其の羽撃きをもって、我ら父子の宿敵を討ち払え【イグニスフィア】」
一たび放たれた蒼炎は燐光を放ちながら、万物を焼き尽くさんとする蒼白き光と熱の奔流となりて、蒼き神鳥の如く、一直線に奴へと迫る。
「──燃え尽きろ!」
いまだかつてだ、この蒼炎の劫火を受け、無事だった相手など存在しない。
僕は、勝利を確信した。
望んだ形では無かったけれど、父さんの仇を……父なき後のコンスタンツェ家の、全ての悲運を招いたその根源を、この手で屠れるのならば、と。
母さんも、きっと喜んでくれる……。
ゴオォォォッ──!
「なっ……嘘、だろ……!?」
目の前で起こった光景が、信じられなかった。
信じることなど、できなかった。
奴は、その常軌を逸した巨大な戦斧を、恐るべき膂力で横薙ぎに振るい、僕の必殺の『イグニスフィア』を、その圧倒的な風圧と、武器というにはあまりにも広すぎる面で捉え、吹き散らし、掻き消しやがったのだ。
まるで、巨大すぎる団扇で、猛火を吹き消すかのように……。
そんな、馬鹿な……。
「うおおおぉぉぉ、【イグニスフィア】!」
僕は、湧き上がる焦燥感に突き動かされるように、魔力を瞬時に再凝縮し、間髪容れずに第二射を放つ。
今度はわずかに軌道を変え、奴の巨躯の足元を狙った一撃。
だが、悪鬼は僕の狙いを読んだかのように嘲笑うや、その巨大な戦斧を低く持ち構える。そして、大地を掬い上げる格好で『イグニスフィア』の軌道を逸らした。
いや、打ち上げたと言うべきか。
滅すべき相手を見失った僕の必殺の蒼い炎は、無情にも大森林の木々を遥か上空へと超え、夜空で虚しく爆散する。
轟音と共に、蒼い火の粉が夜空に虚しく舞い、力なく散っていった。
「ならばッ、これでもか!【イグニスフィアァァ】」
僕は残る魔力を振り絞り、蒼炎を撃ち込んでゆく。
左右の手から同時に二発放つ、渾身の、二重の蒼炎飛翔だ。
これは、今の僕が放てる最大級の熱量。
はん、防げるものなら防いでみろ!
しかし、現実はあまりにも無情だった。
奴は、その巨大すぎる戦斧を縦横無尽に振り回し、僕の放つ二条の蒼炎を、掻き消し、逸らしてしまう。
ぜぇ、ぜぇ、と息が切れ、魔力の枯渇による倦怠感が全身を襲う。肩で大きく息をしながら睨みつける先で、悪鬼は、先ほどの攻防など些事であったかのように平然と立ち、その血色の双眸で僕を射抜いていた。
「はぁっ、はぁっ……ちっ、この化け物が。もはや、斬り伏せる他に道は無し、か」
丸一日にも及ぶ激闘の結果、疲れ果てた体は鉛のように重く、そして、ついに、魔力の底も見え始めていた。
絶望的ともいえるこの状況が、皮肉にも僕の意識を氷のように研ぎ澄ませていく。
退路など、とうに断たれた。
残された道はただ一つ──この命、燃え尽きるまで、奴と斬り結ぶのみ。
あと一歩、いや、半歩でいい。
先ほどまで届かなかった、ほんの僅かな深みへ、前へ──。奴がその巨体で支配する死の領域、その一撃必殺の間合いの、さらに奥深くへと。
転じてここに至れり、はや、恐怖で脚が震えることもない。
凪いだ心、澄み切った集中が、肉体の悲鳴を、心の揺らぎを意識の外へと追いやってしまっていた。僕の体は、ただ、望むままに、その死の領域へと恐れることなく踏み込んでいく。
すると、どうだ。
開戦当初はまるで手応えがなく、奴の鋼のごとき表皮を浅く裂くだけだった僕の斬撃が、徐々に、しかし確実に奴の巨体を捉え始める。
一太刀ごとに深く肉を裂き、奴の黒い身体に、確かな傷を刻み込んでいく。
そうか……。 たった半歩、紙一重の踏み込み。その、死の恐怖の、さらに先にこそ、奴の死線があり、僕の活路があったのか……。
蘇えりし紫電の太刀筋。
その斬撃を浴びるたび、黒いオーガは禍々しい暗赤色の鮮血を周囲にまき散らし、その醜悪な形相を、耐え難い激痛でさらに醜く歪ませていく。
「ガアアァァァーーーッ!!」
天を劈くような、怒号とも苦悶ともつかぬ絶叫が、再び獄夜に響き渡った。
その叫声を機に、奴の僧帽筋や三角筋、上腕筋といった、肩回りや腕周りの筋肉がボコボコっと不気味な音を立てて異様なまでに膨れ上がる。
その双眸は深紅に血走り、巨大な牙が、ミシミシとおぞましい音を立て始めた。
闇が具現化したかのような、漆黒で邪悪な魔物。
あまりにも黒すぎるその体色と、全身を覆う硬く短い体毛のせいで、僕が与えた傷の深さがいまいち把握しづらい。だが、あの異常に膨れ上がった筋肉は、傷口を内側から圧迫し、強引に出血を止めてしまったようにさえ見える。
尋常ではない様相だ。
その、常軌を逸した様から、僕は直感した。
間もなく、奴の残された命運の全てを乗せたような、文字通り、最後の一撃が放たれるのだろう、と。
必殺の一撃なればこそ、それを躱すことさえできれば、そこには必ず最大の隙が生まれるはずだ。
ふぅ、神経を、極限まで研ぎ澄ませろ。意識を集中するんだ。
いいか? 奴の一挙手一投足、筋肉の微細な収縮、呼吸のリズム。その全てを目に焼き付け、見逃すな。
ズウン、と悪鬼の踏み込んだ右足が、大地そのものを揺らす。
握りしめられた両手からは、ミシミシと、骨が軋むような不穏な音が伝わる。それは、内に秘めた膨大な力を、もはや抑えきれないという、奴の筋骨の叫びのようだった。
そうして、僕の体を両断せんと、奴の渾身の一撃が黒き轟雷となって、振り下ろされた。
いけない。これは、いつものような最小限の回避では駄目だ。
それでは、避けきれない……!
奴の全てを乗せた怒号の一撃は、大地を大きく揺るがし、空を切った大戦斧が巻き起こす衝撃波だけで、僕の体勢を容易く崩してしまうに違いない。
とっさの機転、いや、もはや生存本能と言うべきか。
僕は後方へ、ありったけの力を込めて跳躍し、その轟撃を、本当に、本当に、ギリギリのところで回避した。
断つべき対象を見失い、空を切った奴の大戦斧は、凄まじい勢いのまま大地へと深くめり込み、この戦いにおいて疑いようもなく、これ以上は望めないほどの、完璧な隙を晒した。
「ここだァッ!」
父さんッ、僕に力を!
全身の筋肉に鞭を入れ、神経を焼き切るほどの集中力で、奴の元へ、神速をもって駆けようとした、まさにその刹那。
「何ッ!?」
僕の右側面、死角から、突如として、先ほどのオーガの一撃に、勝るとも劣らない、凄まじい殺気が身を襲った。
反射的に父の形見の刀身でそれを受け止めるのが、僕にできる、精一杯だった。
ギャギィィィィィ──!
金属が、限界を超えて悲鳴を上げる、おぞましい音。
迸る火花が、僕の視界を白く染め上げる。
そして、僕の腕に、到底、人の身では受け止めきれないほどの、圧倒的な衝撃が、かかった。
ドゴォォン!!
凄まじい勢いで吹き飛ばされ、背中で何本もの木を、まるで枯れ枝のようにへし折りながらなぎ倒し、最後には一際大きな巨木の幹に、まるで虫けらのように叩きつけられていたのは、奴では無くて、この僕だった……。




