第44話 其に現れたるは暗黒の化身
「はぁ、はぁ……っ、くそ……」
懸命に、ただ懸命に、霞む視界の中を走り続ける。
己が身を抉るような、焼けるような激痛が襲い、呼吸が上手くできない。
肺が悲鳴を上げ、必死に酸素を求めて喘いでも、流れ込んでくるのは鉄錆びた血の味ばかり。視界はぐにゃりと歪んで、定まらない。
多量の出血のせいか、それとも呼吸不全によって酸素飽和度が極端に低下してしまったのか、既に視野の端からは闇が迫り、狭窄が始まっている。
まずい、まずい状況だ……。
何もかも、本当に、マリーさんの忠告通りだったよ。
◇ ◇ ◇
僕は心の底から、どうしようもなく焦っていたのかもしれない。
ロルフから、アンリエッタさんが屋敷警護の男に襲われたこと、その厄介事を嫌った商人ギルドのマスターが、彼女の新たな奉公先……つまりは『新たなる主人』を探す動きを、早めていると聞いたあの日から。
──アンリエッタさんの、新しき主人。
その言葉は、僕にとって最も遠ざけたいもの。
その意味を思うだけで胸が軋み、その音は、心の奥底へと重く沈んでいく。
何よりも、その言葉が孕む絶望の響きが、耐え難かったんだ。
今にして思えば、あの忌まわしき知らせが、その無慈悲な通告が、僕の心の奥底にかろうじて残った冷静さを、少しずつ蝕んでいったのだろう。
その日を境に、僕の、一人きりの魔の大森林での狩りは、無意識のうちに、少しずつ森の奥へ、さらに奥へと、まるで破滅へと誘われるかのように、その足を踏み入れていった。
それでも、最初の何日かは、まだ順調だったといえる。
オークの小規模な集落をいくつか発見しては殲滅し、厄介なバグベアの番を討ち取った。
稀に姿を見せる、人の身ほどもある異様な文様のジャイアントスパイダー。あいつの討伐に成功した時は、喜びで打ち震えたのを覚えている。スパイダーの強靭な糸や猛毒を秘めた毒腺は、武具や薬の素材として高値で取引され、僕の懐に入る報酬は確かに跳ね上がったのだから。
けれど、そんな効率だけを求めた、乱獲に近い狩りを繰り返していれば、当然、そのエリアの魔物は急速に枯渇し始めるのが道理というもの。
当たり前の話だ。
いくら広大とはいえ、この魔の大森林で糧を得ようとしている冒険者は、僕一人ではない。それに、強力な魔物ほど縄張り意識が強く、少数で行動するか、ごく小さな群れしか作らない。
結果として、次なる得物を追い求め、僕の足は自然と、更に大森林の奥深くへと向かってしまう。
マリーさんの前では、いつものように冷静さを装い、表層では何でもないように取り繕ってはいても、アンリエッタさん救出への道筋が一向に見えず、ただ時間だけが過ぎていくことへの焦りが、苛立ちが、僕の正常な判断を少しずつ狂わせていく。
──そして、僕は、致命的な失敗を犯した。
この辺りまで進むと、出現する魔物の種類は、森の浅い層とは比較にならないほど多様で、その代わりに一体一体の危険度は格段に増していた。
見るもおぞましい色彩のジャイアントスパイダー亜種や、時には通常種のオーガ、そして何よりも厄介な、空から集団戦を仕掛けてくるキラービーの群れ。そんな、次から次へと現れる強敵を前に僕は、心のどこかで、微かな高揚感すら覚えていたのだから、本当に救いようがない。
父さんとアンリエッタさんに鍛えられし、僕の剣技と魔法。
そこに毎日欠かさず己にかけ続けてきた『強化再生魔法』によって強化され続けた僕の身体は、この中層域の魔物を持ってしても、止めることは出来なかった。
それが、更なる慢心と油断を生む。
マリーさんが、涙ながらに訴えてくれた、あの日。僕の無茶な行動を見かねて、何度も、何度も、教えてくれた、彼女の金言の数々。
『フェリクス君、絶対に無茶だけはしないで』
『どんな時でも、準備だけは入念になさい』
『ダメよ、一人で野営だなんて絶対にダメ! 馬鹿なことを言わないで頂戴」
『少しでもおかしいと感じたり、よくわからない状況に陥ったりしたら、迷わず退くのが鉄則よ。勇気と無謀は違うの』
僕は一体、彼女のあの、心のこもった言葉の、何を聞いていたというのだろうか。
後悔はあまりにも、深く、重い。
木々が天を覆い、昼なお暗い大森林の奥深く。
その薄暗さに時間の感覚を狂わされた僕は、リヨンへ帰るべきタイミングを誤ってしまうという、取り返しのつかない痛恨のミスを犯した。
あまりにも濃密に、幾重にも生い茂る木々は、頼りとなるはずの月明かりはおろか、夜空を飾る星々の微かな煌めきすら完全に遮り、僕の世界から、一切の光という光を奪い去ってしまう。
ここは、光という概念そのものが、存在を許されない暗黒の世界だった。
この世の全てが、どす黒い絶望というインクで塗りつぶされたかのように、絶対的な黒、色のない無が広がっている。
その不気味なほどの様態に、僕は言い知れぬ不安を感じ、浅はかにも魔法──『ルイン』を唱え、あまりにも目立つ灯を黒闇に灯してしまったのだ。
それが──この悪夢のような地獄の惨劇の、幕開けの合図となる。
絶対的な闇が支配するただ中へ、ポツンと灯る、ただ一つの光明。
あまりにも無思慮な光の標は、まるで地獄に救済への道標を掲げてしまったかの如く、森のあらゆる闇の中から無数の魔物を、飢えた獣のように、次々と引き寄せ始めた。
斬っても、斬っても、そのおぞましい流れは途切れることなく、次から次へと迫りくる異形の魔物の群れ。
美しい波紋を湛える形見の刃が、魔物の返り血で禍々しいまでに赤く染まっても、僕自身の身が、夥しい量の返り血でドス黒く変色しようとも、僕はただ無心に剣を突き、薙ぎ、懸命に払う。
決して、生きることを諦めない。
「そうだ、ここは地獄だ。僕にとっても、お前ら魔物にとってもな!」
ならば、僕が、この悪夢のような饗宴を、ここで終わらせてやる。
黒闇の中で火を使ってしまったのが全ての元凶というなら、もう、遠慮する必要など、どこにもない。
次々と、際限なく迫りくる魔物の群れに、僕は何の躊躇もなく、『ウィンヴェルド』や『ファイアヴォルト』を、ありったけ叩き込んでいく。
燃え盛る炎塊が、意志を持ったかのように魔物を業火で包み込み、不可視の風の刃は、面白いほどに奴らの肉体を切り裂いていく。まさに、饗宴。
だが、その行為は、燃え盛る炎に油を注ぐだけの、愚行に過ぎなかった。
僕が放つ炎の煌めきが皮肉にも、さらに奥から、新たなる魔物を呼び寄せる、絶望的な悪循環を生み出してしまったのだ。
ここは百鬼夜行改め、百鬼夜攻のただ中にあっただろう。
漆黒の闇の中を、バチバチと音を立てて爆ぜる火の粉と、燃え盛る木々。
闇を払うかのように、魔物どもの死骸が赤く激しく燃え盛る。
もはや、灯りに苦心することはなくなった。
その代わりに、呼吸をするたびに肺が焼け付くような熱気と、息の詰まるような獣臭濃い濃煙が、容赦なく流れ込んでくる。
どれだけの時間、狂ったように剣を振り、魔法を放ち続けたのだろうか。僕の足元には、数えるのさえ億劫になるほどの夥しい数の死骸が、折り重なるようにして無惨な山を築いていた。
それこそ、永遠に続くのではないか、と本気で思わせるほどに長く、激しく続いた魔物の襲来は、悪夢から覚めたかのように、嘘のようにぴたりと止んだ。
「ふぅ……はぁ……っ。ようやく、終わった、のか……?」
声にならない声で、僕は呟いた。
この、悪夢のような幕が、ようやく降りたのだと。
……僕は、その時、本気で、そう思ってしまっていたんだ。
眼前に広がる膨大な数の亡骸に、僕は一つ、深いため息をついた。
これが、アンリエッタさんを取り戻すための、僕の収入の礎なのだから。どれだけの数があろうとも、やるしかない。
僅かな水を喉に流し込み、荒く浅い息を整え、ほんの少しの休憩を挟む。
それから僕は、無残に横たわる魔物の亡骸から魔石を取り出すべく、再び、その場に立ち上がった。
バキ、ミシミシッ──
その時だった。
今までとは明らかに違う。存在の格が、まるで違う。
地響きにも似た不気味な音を立てて、僕の背後の木々がいとも容易くなぎ倒される。そこから一体の、巨大な魔物が……その姿を現したんだ。
漆黒の闇が、僕を絶望の淵へと突き落とすために遣わした、暗黒の化身。
そう思わせるほどに、禍々しいまでに真っ黒で巨躯の魔物が、燃え滾る赤い溶岩のような双眸で、じっと、僕だけを見ていた。
「まさか……そんな」
己の縄張りを侵した、不届き者を排除するために現れたのか。
それとも、深夜に思いがけず見つけた、恰好の贄への歓喜の声かはわからない。その黒い魔物は、突如として天を仰ぎ、空気をビリビリと震わせるほどの、凄まじい咆哮を放つ。
その、圧倒的な存在感を前に、僕の口から、震える声が漏れる。
「お前が……お前が、父さんの、仇なのかッ!?」
形見の刀を握る手が、ギリギリと、骨が軋むほどの音を立てていた。




