第41話 彼女の危機、僕の危機
「ふぁ〜あ……」
清々しい、実に気持ちの良い朝だ。
昨夜は、冒険者になって初めて、一日の目標を達成できた、その達成感に満たされて。久しぶりに、本当にぐっすりと眠ることができた気がする。
もちろん、あの驚異的なペースの稼ぎを、これから先の残り全ての期間、一日も欠かさず維持し続けなければならない、という途方もない現実を考えれば、不安はまだまだ山積みだった。
それでも、『僕はこの世界で、一日で金貨一枚以上を稼げるんだ』という確かな事実は、僕の心を、昨日までとは比べ物にならないほど、軽くしてくれていた。
だけど、今日からはまた一人。
残念ながら、マリーさんがああして一緒に来てくれるのは、あくまで彼女の仕事が休みの日だけなのだから。
彼女には、ギルドの受付嬢という、大切な本業がある。
それは、どうしようもないことだった。
◆ ◆ ◆ ─ Anrietta side ─
はぁっ、はぁ……待ちくたびれたぜ、この夜をよ。
あの女は、やはり極上のタマだ。
そこいらの女どもとは訳が違う。この俺だけが見抜いた、どえれえ逸材よ。他の奴らは節穴ばかりか、ククク……。
ふん。黒髪は縁起が悪ィだの、死を司るだの……くだらねえことを抜かす輩もいるが、そんなこたぁ、もうどうでもいい。
この扉の奥に、あの極上の女が無防備に寝ているんだぜ?
髪の色なんざ、知ったことかよ。
それに、あいつはハーフとはいえ、あの気位の高いエルフの血を引いていやがる。普段、人間が住む場所になんざ滅多に姿を現さねえし、万が一、そこで手を出そうものなら、得意の魔法で返り討ちにされるのがオチだ。
だが、こいつは違う。
あの魔封じの首輪のお陰で、魔法は使えねえ。おまけに、何かと口うるせえロルフの野郎は、昨晩から別の仕事で出てて、ここにいやしねえ。
グハハハ! 最高じゃねえか。
これこそまさに、天が俺に与えたもうた、神の思し召しってやつだろ。
ヤレってことだろうが、なあ!?
俺は足音を忍ばせ、目を覚まさぬよう、静かに、そして慎重に女の部屋へと侵入する。掛け布のリネンを、震える手でそっと捲り上げた。
いけねえな、俺としたことが、緊張でブルっちまってやがる。
月明かりに照らされた、あまりにも美しく滑らかな肢体の曲線。その光景に、俺の興奮は一気に最高潮へと達した。
こりゃ、たまんねえな……。
決して豊満というわけではねえが、貧相なわけでもない。まさに、俺好みの、絶妙な大きさの胸が、ハーフエルフの穏やかな寝息に合わせて、微かに上下している。
だが、何よりも、この透き通るように白く、美しい肌がたまらねえ。
滑らかな首筋から、華奢な鎖骨、そこから僅かに覗く胸の谷間に至るまでの、その神々しいまでの完璧な造形よ。驚くほど細いのに、それでいてしっかりと女性らしい丸みを帯びた腰つき。その全てが、俺の欲望を激しく掻き立てやがる。
こいつを、今から俺の好きなようにできるのだと思うと、体の芯から滾って仕方がねえぜ。
……もう少しだからな、大人しく待ってな。
俺のかわいいハーフエルフちゃんよ。
俺は、はやる気持ちを抑えながら、そっと自分のズボンを脱ぎ捨て、眠る黒髪のハーフエルフの上に、音もなく覆い被さった。
ふわり、と鼻腔をくすぐる、女から漂う甘く清らかな香りに、まるでガキのようにドキドキとしちまう。
ああ、やっぱりいい。思った通り、こいつは最高の女だ。間違いねえ。
あんな、育ちのいいだけの、クソガキにくれてやるものか。
こいつは今日から俺のもんだ。なあ? クックク……。
女の、シュミーズの裾から、ゆっくりと手を入れていく。
そして、まるで神が創りたもうたかのような、至極の双丘へと、その柔らかな感触を確かめるように、そっと手を触れた。指先に伝わる、信じられないほどきめ細やかで、しっとりと潤いに満ちた肌に衝撃を受ける。
……おいおい、まるで上質な絹じゃねえか。手のひらに吸い付くような、極上の肌触りだぞ。
こ、こんな肌、今まで触ったことねえ……!
未知の感触、至福の触感に、俺の体が歓喜に打ち震える、まさにその瞬間。
覆いかぶさっていた黒髪の女が、はっと息を呑み、その大きな蒼い瞳を、驚愕と、恐怖に見開いて目を覚ました。
(……ちっ、起きやがったか)
まぁ、いい。どうせ時間の問題だったろう。
ただ、無駄に騒がれると厄介だ。どうにかして、静かにさせねえとな。
「なっ、何を……!? やめて、私に触らないで!」
「へっ、ようやくお目覚めかよ、ハーフエルフ。んん? 確かアンリエッタだったか? まあ黙って、そのまま大人しくしてろや」
俺が下卑た笑みを浮かべて言うと、最高の女が、その蒼い瞳に強い怒りと侮蔑の色を宿らせて、俺を睨みつけてくる。
……気に入らねえな。お前らエルフ族は、いつだってそうだ。
まるで汚物でも見るかのように、俺たち人間を見下しやがる。
だがな、その反抗的な眼差しが、逆に俺をますます滾らせるんだよッ!
この、馬鹿女が!
「安心しろよ。大人しく俺の言うことを聞いていれば、これからは毎日、この俺がお前をたっぷり可愛がってやる。 それとも何か? 俺に逆らって、これから毎日、執拗な嫌がらせでもされたいのか?」
「くっ……なんて卑劣で、下劣な……!」
「最高の誉め言葉じゃねえか。分かったら、さっさと黙って、俺の好きにさせろ」
そう言い、俺はアンリエッタという名の女の両手を、力ずくで寝具へと押さえつけ、その白い首筋へ顔を埋めようとする。
──だが、動かせない!? なぜだ!?
「あなたのような、ただ、欲望に塗れただけの獣に! 私が、黙って身を委ねると、本気でお思いですかっ!」
「お前こそ、馬鹿か! 俺が上で、非力なお前は下だ! 逆らえる道理がねえだろうが!」
見るからに華奢なこいつが組み敷かれている以上、俺の圧倒的有利は覆らない。ましてや、この圧倒的な体重差だ。
なのに、なぜだ?
こいつの細い腕は、びくともしないどころか、逆に、俺の全体重が掛かった腕を、少しずつ押し上げ始めていやがる!
「くそっ、このアマ……! 一体どうなってやがる」
俺が腕ごと上げられ、体勢が浮いた一瞬の隙。
女は、細い腰を、驚くほど巧みに、そしてしなやかに捻った。まるで猫のように軽やかなその動きで、上に乗っていたはずの俺の下半身をいなし、見事に寝台から抜け出しやがったのだ。
「一体どういうことですか!? これが、ギルドのやることなのですか!」
部屋の中央で体勢を立て直し、鋭い目で俺を睨みつけながら、女が、鈴のような声で抗議の声を上げた。おいおい、お前は声まで一級品か?
(だが、くそっ……!)
「うるせえ、黙ってろ。大声を出すな。他の奴らが来ちまうだろうが!」
こいつは魔法を使うことすら許されず、武器の一つも持ち合わせていないはずだ。仮に、この屋敷から一歩でも外へ出れば、衛兵に殺されることも分かっている。だというのに、この、少しも臆することのない反抗的な態度はなんだ?
エルフという種族の、傲慢さゆえか?
ちっ、だが、まだやりようはある。
仕方ねえな……。
痣だらけの女など、興が醒めるから、殴りたくはなかったが……もう、そうは言ってられねえようだぜ。
「おい、ハーフエルフ。今のうちに大人しく寝台に戻れ。そうすれば、今ならまだ、優しくしてやらんでもないぜ?」
「お断りします」
「……そうかよ。ならば、後悔するなよ?」
俺は戦闘態勢を取ると、床を力強く蹴って、一気にハーフエルフとの間合いを詰める。折角の美人だ、顔はやめておくか。ならば、腹だ。
腹部への一撃で、この気高い女の動きを止め、組み伏せてやる。
女の細い腹部目掛けて、全体重を乗せた拳を、ショートアッパー気味に鋭く放つ!
ブウン!
「なにっ!? 躱しただと?」
俺の拳は、虚しく空を切った。
その後も俺は、速度を重視した拳撃を中心に、時折り蹴り技も繰り出すが、信じられないことに俺の放つ攻撃の全てを、ひらりひらりと躱しやがる。まるで、未来が見えているかのようにだ。
「何なんだ、お前は!? ただのメイドじゃなかったのか!?」
「魔法が得意なだけの、ただのメイドでしたよ。以前までは、ですが──」
「以前まで、だと? それはどういう意味だ?」
「貴方のような下劣な獣に、教えることなど何もありませんッ」
「そうかよ」
ふん。まぁ、いい。
喧嘩には、正攻法以外にも、色々と手があるものだ。
俺は、ハーフエルフの顔面目掛けて放つ軌道で、右拳を突き出す。
そこから、当たる寸前でその拳をパッと開き、奴の視界を一瞬だけ奪う。この目眩ましで動きが止まった、その瞬間に、がら空きになった胴を渾身の一撃でぶち抜く!
これで終わりだ!
「フッ!」「ハッ!」
もらった! 俺の狙い通り、奴の動きが一瞬止まったぜ!
ドゴッ!!!
「ブハッ……!?」
くっ、俺の拳が奴の腹を捉えるよりも、コンマ数秒、早く。
女の、しなやかで色気たっぷりの脚から繰り出された、鋭い膝蹴りが、鉄槌のように、俺の腹部……へと、メリッ、と嫌な音を立てて、深く、突き刺さっていた。
「ぐ……うぅ、息が……でき、ね……え」
意識が遠のき、床へと倒れる直前の俺が最後に見た光景は……。
薄暗い部屋の中で、まるで自ら微弱な光を放つような、神々しいまで美しさを纏う女がいた。その美しさから繰り出された、俺の腹を容赦なく貫く、驚くほどの力強さを秘めた、艶めかしくも真っ白な膝。
その、あまりにも完璧なまでの、膝蹴りの立ち姿だった……。
口から、ごぼりと吐瀉物を吐き出しながら、俺は、途切れ途切れに、最後の言葉を絞り出す。口惜しい、あまりにも口惜しい。
「……ちくしょう。綺麗、だぜ。……本当に、いい女だ……。それが、あと少しで、俺のモノに、なるはずだった、のによ……」
「なりませんよ……貴方のモノになんて……」
ふん。俺も、ヤキが回った……もんだ、ぜ。まさか、こんな……女相手の肉弾戦で俺が、負け、ちまうと……はな。
ドサッ。
この、いつもいやらしい目つきで私を見ていた男が、本当に嫌だった。女性を、ただのモノとしてしか見ていないような、あの下劣な視線が嫌だったの。
醜く、穢らわしい、あの大嫌いな大男が今、私の足元で無様に地に伏せている。
そうっと、まだ震えの残る、自身の華奢な手を見下ろす。
決して、鍛え上げられた戦士のものではない。スラリと長く、どこまでもか細い腕。それと同じように、か細い脚。
こんな、非力なはずの私が、なぜ、あの屈強な大男を打ち負かすことができたのだろう?
……答えはもう、分かっていたの。
「──私もまた、ぼっちゃまに……フェリクス様に、守られていたのですね」
ふと、あの優しい少年の顔が脳裏に浮かんだ。
「ありがとうございます……。グスッ」
込み上げてくる想いに、思わず涙が零れてしまう。
私の、大事な、大事な宝物。あの子と過ごした、何にも代えがたい、あの日々。
私が疲れていると見ると、彼は、いつも、「無理しないで」と言って、欠かさず、あの温かい強化魔法をかけてくれたの。
あの、ささやかな優しさの積み重ねが、知らず知らずのうちに、私のこの非力な体に、戦う力を、理不尽に抗う力を、与えてくれていたのね。
フェリクス様……。
貴方が残してくれた優しさが、こうして、今もなお、私を守ってくれたのですね。
◆ ◆ ◆ ─ Felix side ─
「──と、言うわけなんだ。坊主、本当にすまん!」
「すまんで済むか! 何が約束だ、契約だ! 彼女の身の安全は、守るんじゃなかったのか!」
「まさか、俺が留守の間に、奴があんな暴挙に出るとは、俺も思わなかったんだ。全ては、油断していた俺の責任だ」
夕方、ギルドへ戻ってきた僕を待っていたのは、ロルフからの、あまりにも衝撃的な報告だった。
そんな……アンリエッタさんが、ギルドに管理されている屋敷で、警護の男に襲われただなんて……。身をも竦む思いがする。
幸い、彼女自身の力で返り討ちにできたとは聞いたけれど、それでも、何もなかったから良いという、そんな単純な問題ではない!
「すまんが坊主、話は、それだけじゃないんだ……。続きが、まだあってな……」
ロルフが、さらに言いにくそうに口を開く。
「なに? まだ何かあるのか?」
「ああ。その、今回のゴタゴタが、ギルド長の耳にも入っちまったんだ……」
「それで?」
「できるだけ早く、次の売り先を見つけろってな。さっさと外へ出してしまえば、これ以上、面倒なトラブルも無くなるだろう。そう、お考えらしい」
ロルフは、その大きな体をガバッと器用に折り曲げて、僕に深く頭を下げた。
彼が、心の底から謝罪の意を示しているのは、その姿から痛いほど伝わってはくる。けど……。
「本当に、申し訳ねえ。約束したというのに。だが、ギルド長の決定となると、もう俺の一存では、三ヶ月も待ってやることは、できねえと思う……」
そんな、馬鹿なことがあるか。
今でも、金貨百枚なんて、達成できるかどうか怪しいのに?
これを、さらに短縮されるなんて、絶対に無理じゃないか。
「では、いったい、いつまでだ! いつまでなら、待ってくれるんだ!」
僕が、悲痛な声で問い詰める。
「正直、わからねえ。ギルド長もかなりご立腹でな。早ければ明日にも、次の買い手が見つかるかもしれん。運が良ければ、数か月先まで誰も名乗り出ない、なんてこともあるかもしれんが……。つまるところ、あの嬢ちゃんを気に入って、大枚をはたくという酔狂な客が現れた、その日がお前にとっての、最後の日だ」
「くそっ、そんなの、約束と違うじゃないか!」
僕は、怒りと、どうしようもない絶望に任せて、近くにあったテーブルを激しく叩きつけた。
「すまん。本当に、すまん。俺の力が及ばず、お前に期待を持たせるようなことを言って、本当にすまなかった。この通りだ」
ロルフは、それ以上何も言わず、ただもう一度僕に深々と頭を下げると、大きな背中を、どこまでも小さく見せながら、重い足取りで部屋を出て行った。
あとがき
少しでも面白い、頑張ってるなと感じていただけましたら、★やブックマークなど、足跡を残してくださると嬉しいです。レビューや感想なんて頂けたら舞い上がってしまうほど喜びます。
どうぞ皆さま、応援よろしくお願いいたします。
──神崎 水花




