第40話 今世で大事にしたいもの
◆ ◆ ◆ ─ Reminiscence ─
──駅前に新しく建った、洒落た高層マンションの最上階。
そこが、かつての僕の住まい、僕だけの城だった。
医師という職業は、皆が思っている以上に金銭的な見返りは大きい。
大都会の中心部よりも、むしろ過疎が進む地方の町や、少し交通の便が悪いような田舎の病院の方が、ずっと良い給料や、待遇が提示されたりもする。
それに加えて、世間の一般の人が聞いたら卒倒するような金額の、アルバイトも結構あったりするんだ。
それで、満たされていたのかと問われれば、答えは、否で。
来る日も来る日も、馬鹿みたいに忙しく、心も体も常にすり減っていく。稼いだお金を使う暇などありはせず、ただ、通帳に印字される数字だけが、空しく増えていくばかり。
だから、買ってやった。使い道のない、有り余るお金で。
駅前に聳え立つ、新築分譲マンションの、一番高くて、一番、眺望の良い部屋を。
部屋の中には、高価な最新の電化製品や、有名デザイナーが手がけたらしい、スタイリッシュな家具が、まるでショールームのようにセンス良く配置されている。全体としてモノトーンを基調にまとめられた、洒落ていて、けれど生活感の全くない、清潔感だけがやけに際立つ、そんな家だった。
連日の長時間労働、当直明けの連続勤務で、鉛のように重くなった体を引きずるようにして帰り着き、その先に待っている光景は、いつも、いつだって同じ。
起きたまま放置された、しわくちゃの掛布団。
コンビニの、空っぽの弁当容器が転がったままのローテーブル。シンクには、もはや洗う気力も湧かない食器の山。
誰もいない、ただただ無駄に広くて、白くて無機質な、人の温もりなど、ひとかけらも感じられない、空虚なだけの空間だった。
◆ ◆ ◆
「……こんな空虚な、ただ高いだけの箱が、僕は、本当に欲しかったのだろうか?」
ハハ、と乾いた、力の無い笑いが……音のない、静まり返った無機質な玄関に虚しく響いていた光景を、僕は、今、はっきりと、思い出したんだ──。
それに比べて、この世界はどうだろう。
その日にあった、どんな些細で楽しいことも、どんなに辛く悲しい出来事だって、何もかもを気兼ねなく語り合える、かけがえのない人たちがいた。
僕のほんの僅かな体調の変化にも、すぐに気づいて、心の底から心配してくれる、優しい声があった。
前世では、終生得ることが叶わなかった、この当たり前の日常の風景が、どれほど有難く、そして、どれだけ尊い、かけがえのない宝物だったのかを、この世界に来て、僕は知ることができたんだ。
この世界で出会った、大切な人たちに。
今世こそ、僕はちゃんと、言葉にして伝えたい。伝えなければいけないんだ。
「マリーさん」
真剣な声で呼びかけると、彼女は少しだけ驚いたように、僕の顔を見つめ返した。
「いつも、僕のことを心配してくれて、本当にありがとうございます。貴女がいてくれたから、僕は、いつだって前を向いていられたんですね」
僕は、こみ上げる照れくさい気持ちをぐっと抑え込んで、真っ直ぐに彼女の目を見てそう告げた。あまりにも率直な言葉に、彼女は一瞬きょとんとした顔をして、それから、見る見るうちに、ほんのりと、その頬を桜色に染めていく。
「ど、どうしたのよ、突然……。も、もう……。ふふ、どういたしまして」
思いを、ありのまま言葉にするのは、なんて難しいんだろう。
ストレートすぎる感謝の言葉は、何だか恥ずかしくて。
僕も、マリーさんも、ほんの少しだけ、ぎくしゃくとした甘酸っぱい空気の中に、取り残されてしまったみたい。
「さーてと。折角だから、私はオーガの魔石を取ってくるわね。この消し炭の中からでも、魔石くらいは無事なはずよ。フェリクス君は、その間に、そこら中の残り火を水魔法でしっかり消しておくこと。いいわね?」
「え? 火を消すんですか?」
「当たり前でしょ。ほら、見てみなさい。あちこちに、まだ火種が燻ってるじゃない。あれを放っておいたら、あっという間に、この森全体が火の海よ?」
「た、確かに、そうですね……」
「これに懲りたら、次からは、ちゃんと魔法の威力と、使う場所を考えなさい?」
マリーさんは、やれやれと肩をすくめ、釘を刺すように言うと、元はオーガであった黒い炭塊の中から、何かを探すようにナイフを入れ始めた。
僕は言われた通り、魔法で水を生成しては、あちこちでパチパチと燻っている残り火を、一つ一つ丁寧に鎮火して回る。
(気分は、まるで即席の消防隊だな……)
それにしても、森の中で、無闇に強力な火の魔法を使うと、こういう二次的なリスクがあるのか……。
ただ敵を倒すだけでなく、その後のことまで考慮しないと駄目だったとは。
今回の戦闘も、色々な意味で本当に勉強になった。
僕には、圧倒的に、実戦での経験というものが足りていないのだと、つくづく悟ったよ。
「やーん、やっぱり、こういう大変な仕事終わりのエールは、最高〜っ♡」
ごくごくごく、ぷっはーっ!
あの後、消し炭と化したオーガの魔石の回収と、地道で広範囲に及んだ鎮火作業を、僕たちはヘトヘトになりながらも、どうにかこうにか終わらせ、無事にリヨンへの帰還を果たしていた。
リヨンに到着するなり、マリーさんは、
「お疲れ様! さ、後はギルドで戦利品の査定を待つだけよね? それなら、景気づけに飲んで待ちましょ。 たまには付き合いなさいよ。色々、大変なこともあったんだし!」
と、有無を言わさぬ鶴の一声で、僕を半ば強引に引っ張って、こうしてギルドのホールでエールを飲んでいる、という訳。
今日は、本当に色々な事があった。
特に最後の、魔力過多気味だった『イグニスフィア』や、広範囲に及んだ火消しの水魔法で、結構な量の魔力を使ってしまったみたいで、今は、心地よい疲労感に包まれている。
そのせいかな、このエールが、やけに体に染み入るように美味いんだ。
でも、でもさぁ?
どうせ飲むなら、元の世界の、あのキンキンに冷えた生ビールが飲みたいなあ、なんて。別に、この世界のエールを全否定するつもりはないけれど、いかんせん炭酸が弱すぎるのと、この生ぬるさが、どうにもイケてない。
やっぱりビールは、キンキンに冷えてこそ、だよねえ。
(……ふぅむ。物質の温度とは、突き詰めれば、それを構成する分子の運動エネルギーの激しさで決まるんだったか)
じゃあ、ちょっとだけ、試してみようかな。
僕の魔力で、この樽ジョッキの中のエールの、分子運動を、極限まで穏やかに、静かにさせることが出来たなら──。
失敗しても、味が極端に変わることはないだろうし。
僕は、目の前の樽ジョッキをジッと見つめ……、その中に並々と注がれた黄金色の液体の(略)
あっ、略さないでっ。ひどい(笑)
今、「お前の説明は長い」って言っただろ! くぅ。
……む、これは……思った以上に、繊細な魔力制御が要求されるみたいだ。
ただ冷やすだけ、という単純な行為なのに、予想以上に魔力を持っていかれる。
それでなくても、今日は魔力を使いすぎているというのに。
ピシッ、ピシピシッ。
その時、僕の耳に、心地よい音が届いた。
そう、氷が、内側から静かに割れるような、あの音だよ!
見れば、樽ジョッキの表面に、急速に冷やされた証拠である、細かい水滴がびっしりと浮かび上がっているじゃないか!
……どれどれ。僕は期待に胸を膨らませて、おそるおそる樽ジョッキを手に取り、一口飲んでみる。
──ゴクリ。
うおおおおおおっ! 美味い!
何これ、美味すぎるぞ!
冷えている、ただそれだけで、どうして、こうも変わるものなのか。喉を通り過ぎる、キレのある苦みと、鼻へと抜けていく豊かな麦芽の香り。
たはーっ、最高……!
おっと、ここは、あの決め台詞の出番かもしれない。
『やーん、やっぱり、冷えたビールは最高〜♡』
「ねえ、フェリクス君」
その時、僕の正面から、マリーさんの少し呆れたような声がした。
「さっきから一人でブツブツ言ったり、ジョッキを見てニヤニヤしたり……。一体、何をしているのか、すごく気になるんだけど」
しまった! マリーさんの探知範囲内だったか!
「あ、いや、これはその……ちょっとした、魔法の実験といいますか……」
「ふーん? ちょっと、一口頂戴?」
「だめですよ、ほら、間接になっちゃいますし、ね?」
「そんなの気にしないわよ」
マリーさんは、素早く僕の手から樽型ジョッキを奪い取ってしまう。
「ちょっ! マリーさん、それは、僕がなけなしの魔力を注ぎ込んだ、血と汗と涙の結晶なのにいいい」
「んぐっ、んぐっ……きゃっ!? な、何これ!? やーん、すっごく冷えてて、とーっても美味しい♡ 今まで飲んでたエールと、全然違うわ!」
本家本元(?)の「やーん♡」は、そういう表現でしたか。なるほど。大変勉強になります。
ごくごくごく、ぷはーっ!
いや、あの、マリーさん? それ、僕のエールなんですけど。しかも、まだほとんど口をつけていないというのに。
「ひどいですよ、マリーさん! 僕、まだ一口しか飲んでないんですから!」
「あら、ごめんあそばせ。あまりにも美味しかったものだから、つい夢中になっちゃったわ。いいじゃない、また冷やせば。すいませーん、おかわり二つ、お願いしまーす」
そんなこんなで、僕たちがエール(結局、僕はほとんど飲めていない)でワイワイやっていると、
「おーい、フェリクス! 査定、終わったぞ〜」
査定担当のスクルさんが、大きな声で僕を呼んでいた。
さて、今日の稼ぎは一体いくらかな。
オーガという大物を倒し、今日はマリーさんが一緒だったということもあって、正直、かなり期待してしまっている。逆に言えば、これでダメだったら、もう、どうしようもない。
いよいよ、ダマスカス鋼の武具を量産して、どこかの金持ち貴族にでも売りつけるか、あるいは、王侯貴族の難病奇病を、僕の魔法でこっそり治して、法外な治療費をせしめ取るか……。何か、そういう特別なことを、本気で考えなければならない時期なのかもしれない。
期待と不安がない交ぜになった、複雑な表情を浮かべながら、僕は一人、査定窓口へと向かう。
立ったまま、恐る恐る査定の明細を上から順に確認していくと、そこには──
オークやダイアウルフにゴブリン、それぞれの討伐報酬や魔石に、ドロップ品の数々。それに、マリーさんが道中で集めてくれた薬草が合わさり、そして、とどめとばかりに、あのオーガの魔石の、驚くべき買取額が詳細に記されていた。
その合計金額は……。
やった! やったあああああ!
夢にまで見た、一日で金貨一枚、という大きな壁をついに超えた。
やっとだよ。本当に、やっと、僕が定めた最低限のノルマを、達成することができたんだ。
僕は、込み上げる喜びを、ぐっと拳を握りしめて堪えた。
「どうだったの? 思ったほど、行かなかったとか?」
いつの間にか隣に来ていたマリーさんが、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「いえ、これが今日の明細です。見てください」
僕はスクルさんから貰った明細を、そのままマリーさんに見せた。
「えっ!? すごいじゃない、フェリクス君! やったわね! 本当によかったじゃない、おめでとう!」
マリーさんは、まるで自分のことのように、満面の笑みで僕の肩をバンバンと叩き、一緒に喜んでくれる。そこから、その勢いのまま僕の体を、その柔らかな体で、ぎゅっと抱きしめてくれた。
周囲のテーブルに座る冒険者たちの、エールを飲む手の動きが、一斉に、ぴたりと止まったような気がした。それこそ、酒場の喧騒が、一瞬だけ凍り付いたような……。
あぁ、でも、柔らかくて、温かいぃぃぃ……。
このご褒美、好きかも~。
「目標を達成できたので、もちろん嬉しいです。……でも、明日からはまた僕一人ですし、アンリエッタさんを取り戻すまでの、残りの期間のことを考えると、やっぱり、不安も……」
僕が少しだけ弱音を吐くと、マリーさんは僕の肩にそっと手を回し、その上半身をぐっと引き寄せながら、周囲の冒険者たちに聞かれないように、僕の耳元で優しく囁いてくれた。
「目標は金貨百枚だものね。確かに、遠くて、険しい道のりだと思うわ。でもね、焦っちゃ駄目。一歩ずつ、着実に前に進んでいきましょう?」
そして彼女は、更に声を潜めて続ける。
「それにね……実は、私も、ちょっとだけ、考えていることがあるのよ」
「……え? 考え、ですか?」
「うん。まあ、それはまた今度、ゆっくり話すわ。ね?」
そう言って、彼女は、力強く僕を励ましてくれた。
マリーさんに、そんな風にハグからの、親密なそぶり(内緒話)をされてから、明らかに、ギルドホールの酒場の空気が変わったのを、僕は肌で感じていた。
僕へと向けられる、幾人もの冒険者たちの、嫉妬と、好奇と、それから、わずかな敵意が入り混じった、生々しい視線。
どうやら僕は、このリヨンの冒険者ギルドにおいて、超えてはいけない一線を、とうとう、越えてしまったのかもしれない……。




