第4話 新しい僕の日常
窓から差し込む優しい光に目を覚ます。
現代に比べると、あまりにも物がない部屋での目覚めにも、随分と慣れてしまっていた。それでも、胸の奥には言いようのない寂しさが僅かに広がる時もある。ここは自分が過ごしていた世界じゃないから。
例えそれが、あんな世界であったとしても……。
ほんの少し陰鬱な気分を引きずりながら部屋を出て階段を降りると、朝の光が差し込む食堂で、朝食を配膳中のアンリエッタさんと目が合った。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
彼女の笑顔を見た途端、気鬱は霧散し、鈍色の心に血が通う。
一人でいるのが当たり前だった前世、誰かと一緒に食卓を囲むなんて殆ど記憶にはない。だからか、こうして笑顔で『おはよう』と言ってもらえるだけで、心が熱を帯び始めるのかも。
「うん、よく眠れたよ」
「顔を洗ったら朝食にしましょう。皆さんお待ちですよ」
「わかった!」
父さんは騎士としてご領主様に長年仕えているけど、賜ったコンスタンツェ家の領地は、見渡せる程度の土地に小さな村落がひとつあるだけ。辺境の地なのに、騎士爵家としては随分と狭いそう。
そのせいか、小ぶりな館の我が家には、メイド頭のオデット婆さんとアンリエッタさんの二人しか家人がいない。貴族らしい華やかさなんて微塵もない。
いや、欠片程度にはあるのかも?
前世では好んで本をよく読んだけど、微妙すぎる爵位の暮らしなんて知らない。
父さんによると、ひとたび、ご領主様から出兵の要請が掛かれば、村の男たちが何人か、農具を槍や剣に持ち替えて父さんに付き従うらしい。普段は畑仕事をしている彼らも、いざという時のために武術の鍛錬は欠かさないのだとか。
温かいスープにパンを浸しながら、試案する。
今が、父さんへ願いを伝えてみる絶好の機会では?
以前から考えていた、例の件を……。
「父さん、お願いがあるんだけど」
「まぁ。フェリクスがお願いなんて珍しい。あなた、聞いてあげてくださいな」
まだ何も言ってないのに、母さんは随分と嬉しそうに肯定してくれる。
「わかったわかった。何か欲しい物でもあるのか?」
「違うよ、僕に剣を教えて欲しいんだ」
「何? 今、剣を教えて欲しいと言ったのか?」
同意が欲しいのか、父さんはきょろきょろと周りの皆を見ている。
「う、うん」
「聞いたか皆、この年齢でもう剣を習いたいだなんて、信じられるか!」
「ちょっとあなた、落ち着いてください。フェリクスはまだ子供ですよ? 剣だなんて早すぎませんか?」
「いやぁ、そうかそうか、さすが俺の息子だ」
笑顔一杯に一人頷く父さんとは対照的に、母さんはとても心配そう。
母さんの声はもう、喜ぶ父さんには届いていないのだろう。
同じ食卓には、親子の会話を静かに見守るオデット婆さんや、アンリエッタさんもいてとても賑やか。前世の父親に頼みごとなんて、非常に勇気がいる行為だったのに……。家族が変わるとこんなにも違うんだ。
「よしフェリクス、後で素振りを教えてやろう。まずはそれを毎日続けてみなさい」
「うん、わかった。続けたら教えてくれるんだね?」
「ああ、体力と腕力が付いたら教えてやろう」
「やったぁ」
チラッと、心配そうな母さんを横目で見ると、
「フェリクス、お願いだからあまり無理はしないで」と懇願されてしまった。
母さんは最後まで心配そうだったけど、これはしょうがない。自分がこの世界へやってきた時、寝台に寝かされていたのは落馬による意識消失が理由らしいから。
朝食からしばらくして、父さんは二本の木剣を携えて裏手の庭へやってきた。
約束通り素振りを教えてくれるみたい。
「まずは基本的な動作からいこうか」
「はい!」
父さんは一本の木剣を僕へ手渡す。ずしりと重い。
残る一本は自ら手にし、ゆっくりと振り上げるや斜めに切り下ろす。
「この動きの良いところはな、手首の返しで左右から攻撃できる点にある」
力強くもリズミカルに、右左、右左と続けて切り下ろしていた。
僕は、小さいなりに、父さんの動作を懸命に真似てみる。
「違う、違う。肩に力が入っているぞ、もっとリラックスだ」
ぐっ、想像してた何倍も木剣が重い。
何度か繰り返すうちに、ようやく父さんの動作に少し近づいた気がした。
「よし、次は横薙ぎだ。よく見ていなさい」
ゴウッ。父さんの剣が横一文字に空を斬る。さきほどとは違う、鋭い風切り音。
「左足を踏み込んで、腰に乗せて回すんだ」
父さんの言葉と、空気を切り裂く木剣の動きを目で追いながら、僕も同じように木剣を薙いでみた。
前世では剣道を少し齧ったことがある。健全な精神は健全な肉体に宿る。とか、礼儀作法が身につくなど、そんな理由でだったけれど。
齧った程度の僕でさえ、この世界の剣術は日本のソレと全く違うことにすぐ気づく。明らかに異質なんだ。前世で言うところの西洋剣術に近いのかも知れない。
騎士や魔物がいる世界だから当然、か。金属鎧や、分厚い革を纏った魔物を想定した、両刃の長剣による『破壊』を目的とする剣術と、純粋に『切る』『断つ』『突く』ことに特化した日本の刀とでは、体の使い方が根本的に異なるんだろう。
特に、腰に乗せて回転する、野球のような動作は刀にはないものだ。この世界の剣術に馴染むことができるだろうか。というか、体ができていない子供には何とも厳しいものがある。
「頑張れフェリクス、なかなか筋がいいぞ」
慣れぬ動きのはずなのに、父さんが褒めてくれるのが嬉しくて、何度も木剣を振り下ろしては薙ぐ。気がつくと額には汗が滲んで、シャツはびっしょりと濡れていた。
「まあ! フェリクスが汗をかいてるじゃありませんか! すぐに拭いて着替えさせないと」
母さんが白いタオルを手に、父さんとの稽古に突然割って入ってきては、一人でおろおろとしている。その動作に合わせるように、あの『マシュマロパイ包み』がゆっさゆさと揺れていた──。
◇ ◇ ◇
やがて夜の帳が降りようとする薄暮の中、窓から差し込む最後の茜色の光が壁を染めては消えてゆく。暗くなり始めた部屋に、控えめに扉を叩く音が響いた。僕は、その音の主が誰なのか知っている。この時間になるといつも、アンリエッタさんが灯具の柔らかな灯りを携え訪れるから。
「ぼっちゃま、灯具をお持ちしましたよ」
扉の向こうから聞こえる優しい声。僕は弾む心を抑えながら、
「ありがとう」と返事をした。
気分よく椅子から立ち上がり、扉の前で一度、深呼吸。
『やぁ、アンリエッタ』と、まるで映画のワンシーンのようにクールなポーズで扉を開け放つのさ。気になる女性を前に、少しでも格好つけたいと思うのは、男の性というもの。
そんな僕の気取った態度など意に介さず、アンリエッタさんは、にこやかに微笑みながら灯具を手渡してくれた。全く効果がなかったようで、何だか悲しい。
「今日もお勉強ですか?」
「うん。そうだアンリエッタさん、この字はなんて読むのかな?」
机の上に広げた本を指差して、アンリエッタさんに尋ねてみる。
この世界について学ぶ必要がある僕は父さんに頼み込み、この国の歴史に関する本を幾つか借りたのだけど、その際に見せた父さんの葛藤する姿が実に愉快で、今でも忘れられない。
学ぼうとする息子への喜びと、子供に貸し与えるにはあまりにも高価過ぎる本であることへの躊躇いの狭間で、完全な板挟み状態に陥っていた。その様子をこっそり見ていたアンリエッタさんが、母に耳打ちしてくれたらしい。
しばらくしてドスドスと階下に降りてきた母さんは、苦悩する父さんに向かって右手を前方に突き出し、毅然と言い放つんだ。
「息子が学びたいと言っているのです。まぁ、ケチくさいこと」
あの時の父さんのバツの悪そうな顔と言ったら無かったし、我が家のヒエラルキーを垣間見た気がしてちょっぴり驚いたよ。




