第36話 まさかの同志現る
「……私はね、全然優しくなんかないのよ。ただの酷い女なの。キミに、亡くした弟の影を見て、勝手に世話を焼いていただけ。どう? 笑っちゃうわよね?」
マリーさんは瞳に一杯の涙を貯めて、自分自身を罰するかのように力なく微笑む。
「私のこと、嫌いになったでしょ?」
「マリーさん……」
かけるべき言葉を見つけられないまま、僕はそっとベッドから立ち上がり、椅子に掛けて俯く彼女の華奢な肩を、上から覆いかぶさるように優しく包んだ。
伝わる微かな震えが、彼女の心の痛みを物語っているようで悲しい。
「これは……その、変な意味じゃありません、から。ただ、なんだろう……仲間として、こう、こうしたくなったんです。だから、ごめんなさい」
僕のぎこちない、拙い慰めの言葉にマリーさんが小さく、
「フェリクス君」と呟いた。
「ねえマリーさん。僕には、あなたが優しくないなんて、到底思えないんです」
彼女の震える肩に額を預けるような形で、ゆっくりと言葉を続ける。
「だって、僕の事情を知って、あんなに泣いてくれたじゃないですか。今だって、自分の貴重な休みを返上してまで、僕の依頼を手伝ってくれてる。それが優しさじゃないと言うなら、優しさって何ですか」
「それは、でも……私が、勝手にして、る、だけ……」
「亡くなった方が、今も生きている僕たちを見て羨み、恨むと思いますか? 僕も、つい先日……父を失いました。もちろん、すごく悲しくて、辛くて、胸にぽっかりと穴が開いたような、喪失感で一杯だったけど」
「…………」
「その父が、僕たち家族のことを恨んでいるなんて姿、どうしても思い浮かばないんですよね……。むしろ、僕たち家族が悲しみを乗り越えて、前を向いて、幸せに生きていくことを誰よりも強く願ってくれているはずだって、そう思えるんです」
僕自身、味わったばかりの、あの辛く悲しい経験と父への想いを重ねて。
彼女の心を少しでも軽くしたくて、必死に言葉を紡いでいく。
「マリーさんの昔の仲間のことも、大切な弟さんのことも、僕は何も知りません。でも、彼らだって同じじゃないですか? マリーさんが、大切な姉さんが、ずっと過去の出来事に囚われて自分を責め続けている姿なんて、僕が彼らの立場だったら絶対に見たくない。誰よりもきっと、マリーさんが過去を乗り越えて、幸せになることを強く望んでいるはず。そうは、思いませんか?」
僕の言葉に、マリーさんは何も答えなかった。
ただ僕の腕の中で、その肩が小さく、小刻みに震え続けているのだけが分かった。
やがて、温かい雫が僕の肩を濡らしていく。
彼女が流す涙は、先ほどまでの痛々しい自嘲の色ではなくて、今は少しだけ温かくて、そして悲しい色をしているような気がしたよ。
それから、どれくらいの時間、僕たちはそうしていただろうか。
何も言葉を発することなく、ただ静かに互いの存在を感じながら、そこにいた。
気が付けば、階下のギルドホールの喧騒はすっかり止んで、窓の外から聞こえる微かな虫の鳴き声と、僕たちの微かな息遣いだけが部屋の静寂を満たしている。
そうして、彼女は僕の腕の中から静かに身を起こすと、
「ありがとう、フェリクス君。……少し、楽になったわ」
赤く腫れた目で、彼女は少しだけ、はにかむように微笑んだんだ。
その笑みは、雨上がりの空みたいな……少しだけ吹っ切れたような、穏やかな色をしていた。
それ以上、僕たちは何も話さなかったし、話す必要もなかったと思う。
マリーさんは「もう遅いから、明日に備えて休まないとね」とだけ言って、自分の家へと帰り、残された僕は一人、再びギルドの宿の簡素なベッドに身を沈めている。
改めて思う。
ここは僕がいた前世よりもずっと、死の気配が色濃く迫る世界なんだ、と。
マリーさんの告白は確かに重くて、悲しいものだったけれど、同時に、彼女の心の奥底に触れることができたような気がして……なんだろう。僕たちの間に何か新しい……確かな繋がりが生まれたような、そんな不思議な感覚もあったんだ。
僕は、様々な想いを胸に抱きながら、いつの間にか、深い眠りへと落ちていった。
翌朝。窓から差し込む柔らかな朝日が、僕のまぶたを優しくくすぐる。
昨夜の重苦しい空気は何だったのか、と思えるほど、窓の外は清々しい朝の光に満ちていた。
鉛のように重く、気だるかった体も、一晩ぐっすり眠って魔力が回復してきたからか、昨日よりずっと軽く感じられる。
僕は顔を洗い身支度を整えると、一階のホールへと急ぐ。
昨日の魔力枯渇による影響だろうか、少し寝坊してしまったせいで、ギルドの受付カウンターの前は既に依頼を求める冒険者たちで長蛇の列ができていた。
その列の先頭、カウンターの内側で忙しそうに書類を捌いているマリーさんの姿を遠目に確認できたので、まずは一安心。
いやぁ、さすがにね……ただ朝の挨拶をするためだけに、あの地獄のような(?)行列に並ぶ気にはなれなかったよ。
昨日の今日で、まだ少し気恥ずかしいというのもあったし……。
さて、昨晩マリーさんに聞いた話だと、傷ついた冒険者を一時的に手当てし、安静にさせておくための部屋があるそうなんだよね。
彼女は「査定窓口の奥よ」とも言っていたけど。
「スクルさん、おはようございます。あの~、すみません。昨日怪我をして運ばれてきた冒険者の方々は、どこの部屋か分かります?」
ちょうど報酬査定窓口に出てきたスクルさんに尋ねてみる。
「ん? ああ、それなら、そこの通路を真っ直ぐ行った突き当りの扉だよ。まだ安静にしてると思うから、入る時は静かにな」
「ありがとうございます!」
スクルさんに教えてもらったとおりに進むと、確かに一番奥に扉がある。ここであってるよね? 試しに、静かに扉をノックしてみる。
「…………」
中から返事はなく。何の反応もない。
仕方がないので「失礼します」と小さく声をかけ、音を立てないようにゆっくりと扉を開けて中へ入ることにした。
開けた先には、簡素な木の寝台がいくつか並び、ポーションなのか、あるいは乾燥させた薬草なのか、独特の少しツンとする薬の匂いが部屋に充満していたよ。
僕が知る、アルコールや消毒薬の匂いとは違う、どこか心許ない匂い。
見ると、手前の二つの寝台には、ダリウスさんとフィンさんが、包帯姿ではあるものの、比較的穏やかな顔で眠っていた。
呼吸も深く、安定しているように見える。だけど、一番奥の寝台に横たわるミレーユさんだけは、明らかに様子が違っていた。
僕は真っ直ぐ、一番気がかりな彼女の元へと歩み寄る。
彼女の顔色はまだ青白い。けれど、昨日見た、死の淵を彷徨うような苦悶の表情は消えて、今は、すうすうと、子供のように穏やかな寝息を立てていた。
その穏やかな呼吸に合わせて、胸が規則正しく上下しているのを確かめる。
……よかった。峠は、越したようだ。
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと、緩むのを感じた。
僕の魔法が確かに、彼女の命を繋ぎ止めたのだと、ようやく実感できた瞬間だった。
「おお、コンスタンツェ殿か。わざわざ見舞いに来てくれたのだな。昨日は、本当に世話になった」
僕がミレーユさんの寝顔に静かに安堵していると、不意に隣のベッドから、しゃがれた声がした。振り返ると、あの屈強な鎧の男性──マリーさんからダリウスさんと聞いていた彼が、こちらに気づいたようだった。
まだ痛むのだろう、その巨体をゆっくりとした仕草で起こし始める。
それから、大きな体を折り曲げるようにして、僕に向かって頭を下げようとするのが見て取れた。
僕は慌てて駆け寄り、その動きを制する。
「ああ、そんな、いいですから。どうか安静にしていてください。それよりも、ミレーユさんの容態は、その後どうですか?」
「ぐっ、すまない。君たちのおかげで峠は越えたそうだ。ギルドが手配してくれた治癒師も傷の回復具合に心底驚いていたな。……まだ予断は許さない状況だが、このまま安静にしていれば、きっと回復するだろう、とのことだ」
「そうですか……よかった、本当に良かった」
僕は心の底から安堵のため息をついた。
ただ、がむしゃらに、彼女を助けたい一心で行使した、無我夢中の魔法。
その力が、こうして、確かに一つの命を繋ぎ止めたのだから。
静かなる感慨を破ったのは、隣の寝台から聞こえるしゃがれた声だった。
「本当に、感謝してもしきれない。二人があの時、駆けつけてくれなかったら、俺たちは……全滅していたかもしれない。好きな女一人、守ることすらできないなんて、全く、情けない限りだ」
ダリウスさんとのやり取りで、完全に意識が覚醒したのだろう。けど、彼はまだ、自らが口にした言葉の重みに気づいていないようだった。
「……ん?」
僕とダリウスさんが、ぽかんとした顔で彼を見つめていることに、ようやく気づいたらしい。
えっ? いま何て……。
「いま、『好きな女』って……もしかして、ミレーユさんのことですか?」
僕が思わず、小声で彼の顔を見つめてしまうと、隣のダリウスさんも、
「おい、フィン、お前……」と呆気に取られたように彼の顔を見ている。
その瞬間、フィンさんは、自らの失言に気づき、「あ」と間抜けな声を漏らすと、みるみるうちに顔を耳まで真っ赤に染め上げていく。
「あっ、い、いや、その……ち、違うんだ! 今のは仲間として、そう、かけがえのない仲間として大切だって意味で!」
彼の必死な、しどろもどろの言い訳に、ダリウスさんは、はぁ~と深い溜息を一つつき、やれやれとばかりに片手で顔を覆った。
これだけ分かり易いと、さすがの僕でも分かってしまう。
……こんな形で、人の秘めたる想いを知ってしまうとは。
彼もまた、僕と同じ。届かぬと知りながらも、焦がれる想いを胸に秘めた『同志』だったのだね……。
ならば。ここは、フォローせねばなるまい!
「フィンさん、ミレーユさんは今、確かに生きています」
僕は彼の心の痛みを、ほんの少しでも和らげることができたなら、と、できるだけ優しい声で語りかけた。
「それは、貴方たちが、あの絶望的な状況でも最後まで諦めずに戦い抜き、彼女を守り通そうとしてくれたからです。その事実は、他の何よりも誇るべきことですよ。だから、もっと自信を持ってください」
「コンスタンツェ君……キミは、本当に、いい奴だな……」
同志よ、礼などいらないさ。
これからも、この不器用な恋路を、共に頑張ろうではないか。
……なんて、口が裂けても言えないけれど。
昨夜のマリーさんに続き、ここでもまた確かな人の繋がりが生まれた。そんな気がして、僕は一人、満足げに微笑んだ。
「それと、お伝えしたいことがあります。お二人もかなり消耗されていると思いますが、ミレーユさんは特に、大量の血液を失ってしまったばかりです。彼女が目を覚まされたら、体力をしっかりと回復させるためにも、造血作用──つまり、血を作る働きを助けるような食事を、意識して摂らせてあげてください」
「ち、血を作るような食事? そんなものがあるのか? 俺は初耳だぞ?」
ダリウスさんが、驚いたように僕に問い返してきた。
「コンスタンツェ君、例えば、どんなものを食べさせればいいんだ?」
フィンさんも、真剣な眼差しで尋ねてくる。その表情からは、ミレーユさんを心から気遣う純粋な気持ちが、痛いほど伝わってきた。
(言ってしまったのはいいものの……)
うーむ、と僕は内心で唸る。
よく考えれば、前世でこそ常識だった食材が、この異世界にも同じように存在するとは限らない。
ほうれん草だとか、ビタミン豊富な緑黄色野菜だとか……そもそも名前からして違うだろうし、この世界にあるかどうかすら怪しいものだ。
となると、確実に存在し、かつ彼らでも手に入れやすいであろうものは……。
「そうですね──まず基本として、やはり野菜と肉をバランスよく摂ることが、何よりも大切だと思います。冒険者の方々は、どうしても肉中心の食事に偏りがちだと聞きますから」
「うっ、耳が痛いな……」
ダリウスさんが、ばつが悪そうに頭を掻く。
「お肉も、ただの赤身だけでなく、もし手に入るならレバー、つまり肝臓ですね。そういった内臓系も、失われた血を補うためには良いはずです。あとは、もし可能であれば、チーズやミルクなどの乳製品もおすすめできます」
僕がそう説明すると、ダリウスさんとフィンさんは、感心したように深く頷いた。
「なるほど、野菜に肝臓、それに乳製品か。確かに、普段はあまり意識して摂らないものばかりだな。承知した。ミレーユが目を覚ましたら、早速手配して食べさせてやろう」
「目を覚ましてすぐは、まだ食欲もないかもしれません。様子を見て、行けそうなら、そうしてあげてください」
「ああ、分かっている。そうしよう」
「……いやしかし、君は本当に物知りだな。何から何まで、助けられてばかりで、すまない。コンスタンツェ殿、改めて、心から感謝する」
フィンさんが、深々と頭を下げた。
僕は、「ミレーユさんが一日も早く良くなられることを、心から願っています」と、回復を願う言葉を残し、静かに部屋を後にした。




