第35話 明かされる過去
◆ ◆ ◆ ─ Marianne side ─
「はぁ、はぁっ、ぜぇっ」
自分の荒い息が、自身の耳にもうるさいほど、やけに大きく聞こえる。
背中に感じる、フェリクス君の重み。
振り返れば限界寸前のダリウスさんとフィン君がいた。
皆、心底疲れ切っていたように思う。あの悪夢のようなオークの群れを辛うじて撃退した後、私達は道中襲い掛かってくる他の魔物を必死で払い除けながら、ただひたすらに、無理を通してここまで懸命に進んできた。
そのお陰か、魔物たちの気配はずいぶんと薄れて、木々の隙間から差し込む陽光も、心なしか先ほどより明るくなってきた気がする。
どうやら、森の外縁近くまで戻ってこられたようね。
……もう、これ以上進むのは限界。
ここらで一度、しっかりと休憩を取る必要があるかもしれない。
鎧を全身に纏い、それでもなお全身に無数の傷を負い、満身創痍といった様子の彼は、名をダリウスさんと言ったはず。ギルドの受付として、依頼の相談に乗ったことがあるから、彼らのパーティーの名前と顔は、私もよく覚えていた。
そして、彼の傍らで、同じくボロボロになりながらも必死に彼を支え、背負う私たちの代わりに装備や所持品を持ってくれていたのが赤毛の快活そうな青年、フィン君ね。
「ダリウスさん、フィン君。このあたりで一旦休憩しましょう。人を背負ったまま移動するのは、さすがにそろそろ限界だわ」
私の提案に、ダリウスさんがぜぇぜぇと苦しげな息をつきながら、深く頷いた。
「ぜぇ、はぁ……それは、ありがたい」
ダリウスさんが、隣にいる赤毛のフィン君の手を借りながら、背負っていたミレーユさんをそっと、慎重に太い木の根元へと下ろす。そして、彼自身もまるで糸が切れたかのように、その場にどさりと腰を大きく落とし、ぜぇはぁと苦しげな呼吸を繰り返していた。
フィン君も、背負っていた重い武器や盾を地面に下ろすと、「はぁーっ」と、とても大きく息を吐いて、ダリウスさんの隣にへたり込む。
見届けた私も、背負っていたフェリクス君をゆっくりと地面に下ろし、彼の隣にそっと腰を下ろす。気を失ってはいるけれど苦しそうな様子はなく、その顔は比較的穏やかに見えた。
彼が気を失ったあの瞬間は、本当に肝を冷やしたわ。
ミレーユさんを救うために、彼が魔力を使い切ったのだと分かるまでは、気が気でなかった。
本人だって、まさか戦闘中に倒れるなんて夢にも思わなかっただろうけれど……。本当に、無茶をする子なんだから。
それでも、ミレーユさんが助かったのはこの子のお陰ね。
今はただ、このままゆっくりと休ませてあげたい。本当によく頑張ったのだから。
しばらくの間、森の中には皆の荒い息遣いだけが響いていたと思う。
誰もが、先ほどの死闘から続く必死の逃走で、言葉を発する気力すら失っているようだった。
やがて、少しだけ呼吸が落ち着いたのだろうか、ダリウスさんがゆっくりと顔を上げ、私達の方へ向き直ると、深く、深く頭を下げ始める。
「アン殿、それに……彼には、本当に何と礼を言えばいいのか、言葉も見つからん。君ら二人が駆けつけてくれなければ、俺たちは……、ミレーユは、間違いなく助からなかっただろう。この恩は、決して忘れん」
その言葉には、彼の誠実な人柄が滲み出るような、偽りのない想いが痛いほど伝わってくる。隣のフィン君も、
「ああ、全くだ!」と何度も何度も力強く頷きながら、頭を下げていた。
「アン殿、彼の名前を教えてはくれないだろうか? 命の恩人の名すら知らぬという訳にはいくまい」
「そうね。彼の名前はフェリクス・コンスタンツェ君よ」
「コンスタンツェ殿か、そうか、ありがとう」
「まだ冒険者になって日も浅い彼が言ったのよ。『黙って見過ごすことはできない』って。きっと、意識が戻れば『当然のことをしたまでです』って、少し照れながら答えるんじゃない? ふふ。それよりも、ダリウスさんもフィン君も、今は少しでも休んで、体力を回復させるべきよ。ミレーユさんの容態だって、まだ決して予断を許す状況ではないのだから」
私は、できるだけ穏やかな声でそう答えた。
彼らの感謝の言葉は素直に嬉しいけれど、フェリクス君はまだ目覚めていない。今は感傷に浸っている場合ではないし、魔の森の中である以上、いまだ完全に危険が去ったわけではないのだから。
彼らは、再び心配そうにミレーユさんの顔を覗き込む。
彼女の顔色はいまだ青白く、呼吸も浅いまま。
フェリクス君の、あの……まるで奇跡のような、黄金色の治癒魔法のおかげで、なんとか一命は取り留めたようだけれど、決して楽観できる状態ではなさそう。
──そうだわ、あの魔法よ。
彼が最後に使った、あの眩いばかりの黄金色に輝く、神々しいほどの光。もう間もなく死の淵に沈もうとしていたミレーユさんを、呼び戻すほどの、圧倒的なアレは……ギルドに長く勤めてきた私ですら、聞いたことがなかった。
この世で、あれほどの高位治癒魔法を使える者なんて、果たして存在するのだろうか? 冒険者ギルドの最上位クラスの治癒士や、神殿の聖巫様や司祭でさえ、どうだか怪しいわ……。
あれは、普通の治癒魔法とは、明らかに次元が違うと思う。
だとしたら……。
私が彼にしてあげれることは、一つね。
私は意を決して、ダリウスさんとフィン君に向き直った。
「ダリウスさん、フィン君。少し、お願いがあるのだけど……聞いてもらえる?」
私の改まった、真剣な口調に、二人は少し驚いたような顔でこちらを見る。
「なんだろうか、アン殿?」
「改まって、なんです」
「私たちが救援に駆けつけた時のこと……彼がミレーユさんを救った際に使った、あの黄金色の光のことなんだけど」
私は、念のため周囲に他の気配がないことを確認しながら、声を潜めて続ける。
「あの魔法のことは……その……、効果や見た目の特殊さも含めて、どうかギルドや、他の冒険者たちには口外しないで欲しいの」
「それは構わないが、なぜだ? あの魔法はミレーユの命を救ってくれた、誇るべき魔法ではないか」
ダリウスさんが、怪訝そうな顔で尋ねる。
「ええ、もちろん、素晴らしい魔法だと私も思うわ。だからこそなのよ。彼のあの力が公になることは、必ずしも良いことばかりとは限らない。そう、思わない?」
「確かに、彼の力を利用しようとする、よからぬ輩が現れるかもな。あるいは、貴族辺りが取り込もうと動き出す可能性も……」
フィン君が、私の言わんとしていることを正確に察してくれたみたい。
「なるほどな、フィン。確かにそれはある」
ダリウスさんも納得したように頷く。
「彼の今後のためにも、あの魔法のことは今はまだ、私達だけの秘密にしておきたいの。どうか、お願いできませんか」
私の真剣な眼差しに、ダリウスさんとフィン君は顔を見合わせた。
そして、しばらくの沈黙の後、ダリウスさんが重々しく、しかし力強く頷く。
「……分かった。事情はよく理解した。誰かに聞かれたとしても、我々はただ、フェリクス殿の懸命な治癒魔法で助けられた、とだけ答えるようにしよう」
「ああ、そうだとも。そもそも、俺たちの命を救ってくれた大恩人の願いとあらば、俺たちに断る権利なんて、ないからな」
フィン君も、きっぱりとした口調で同意してくれた。
「ただ、その、良いのか? アン殿はギルドの職員だろう?」
「そうね。でも、私も喋りません」
「そうか、ならば、もう何も言うまい」
「ありがとうございます。本当に、助かります」
私は心の底から安堵し、二人に深く頭を下げた。
これで少なくとも、彼らからフェリクス君の力が漏れる心配はなくなった。今は、それで十分。
◆ ◆ ◆ ─ Felix side ─
……ん……ここは……?
重いまぶたをこじ開ける。
ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた借り部屋の、何の変哲もない木の天井だった。体全体がひどく気だるい。まるで、全身の力が抜けきってしまったかのように、力が入らない。
そうだ、確か僕は、森の中でオークの大群と戦って……ミレーユさんを治療して、それで……。
「……!」
はっとして、僕は慌てて周囲を見回す。
ここが自分の部屋のベッドの上だということは分かった。っ、僕は、いつの間にここへ? あの後、残りのオークたちはどうなった? ミレーユさんは? 皆は?
マリーさんはッ!?
疑問が次々と頭の中に浮かんできて、混乱しそうになる。
「ん……ふぁ……」
その時、すぐ傍らから、小さな寝息のような可愛らしい声が聞こえた。
声がした方へゆっくりと視線を向けると、ベッドのすぐ脇に、小さな椅子を持ち出して座ったまま、マリーさんがこくりこくりと気持ち良さそうに舟を漕いでいた。
どうやら、僕が眠っている間、ずっとここで付き添っていてくれたみたいだ。
彼女の顔にも、隠しきれない疲労の色が見てとれる。
「マリー、さん……?」
少し掠れた、か細い声で彼女の名前を呼んでみる。
すると、僕の声に気づいたのか、マリーさんの肩がぴくりと震え、閉じられていたまぶたがゆっくりと持ち上がる。
僕が目を覚ましていることに気づくと、その緑色の瞳を大きく見開き、次の瞬間、ぱあっと安堵と喜びに満ちた表情になった。
「フェリクス君? 目を覚ましたのね! よかった、もう心配したんだから」
彼女は眠気もすっかり忘れてしまったかのように、椅子から勢いよく立ち上がると、僕の顔を覗き込んでくる。
その声には、心からの安堵が滲んでいるみたい。
そして、僕が起き上がろうとするのを見ると、優しく僕の頭をポンポンと撫で制止してくれる。
「まだ無理しちゃだめよ。ゆっくりしてなさい」
「マリーさんここへはどうやって? それに皆は、ミレーユさんたちは、どうなったんですか?」
僕は、彼女の安否の次に気になっていたことを尋ねた。
「安心して、ここはギルドのキミの部屋よ。それに、みな無事。キミのあの魔法のおかげで、ミレーユさんは一命を取りとめて、今は安静にしてるわ。ダリウスさんたちも怪我は酷かったけれど、命に別状はないそうよ。ちなみに、あなたをここまで、森の中からえっちらおっちら運んできたのは、何を隠そう、この私よ。ふふん。 超感謝なさい?」
そっか、皆、無事だったんだ。よかった。
ミレーユさんも助かったようで、本当に何よりだよ。って、
「えっ!? マリーさんが僕をここまで? あの森の中から?」
「そうよ。だって、ダリウスさんたちは満身創痍で、ミレーユさんを運ぶので手一杯なんだもの。残った意識のないキミは、必然的に私が運ぶしかないでしょ?」
マリーさんはどこか得意げに、腕を腰で組んで、これみよがしにぐっと胸を張ってみせた。まるで、彼女の豊かな胸までもが……あのたわわな双丘までもが、
「そうよ、私が運んであげたのよ! もっと感謝しなさい。敬いなさい」と、雄弁に主張しているかのようで面白かった。
ははーっ、たわわ様、本当に、ありがとうございます。
心の中で、僕は正しく敬っておいた。
それからマリーさんに、僕が気を失ってからのこと。
その後二人に、僕の使った『ルクス・リヴァイヴ』について、口止めをお願いしたことを教えてもらった。
「マリーさん、僕のためにありがとうございます。今だからこそ、一つだけ聞いてもいいですか?」
「ん、なあに?」
マリーさんは、少しだけ真剣な表情になって、僕の目を見つめる。
「あの悲鳴を聞いた時、マリーさんは確か『もう誰も死なせない』って言いましたよね? ……もしかしてマリーさんにも、過去に何か辛い経験があったんじゃないかと思って」
僕がそう尋ねると、マリーさんはふっと寂しそうな、遠い目をした。
「……はぁ、失言だったわね。変なところで鋭いんだから……ホントに。言い逃れは出来そうにないわねえ。いいわ、知りたいなら教えてあげる。でも本当に、全然楽しい話じゃないわよ?」
「ええ、構いません。もしよかったら、僕に教えてください」
今度は僕が、真剣な眼差しで彼女を見つめ返す。
「……それはね、私が冒険者を辞めた、直接の理由でもあるのだけれど」
マリーさんは、ぽつり、ぽつりと、重い口を開き始めた。
「昔ね、私にも、冒険者として夢を見て、一緒に田舎から出てきた幼馴染たちがいたの。ふふ、どこにでもありそうな、青臭い若者たちの話よ」
「そう、でしょうか」
「キミはまだ冒険者になったばかりだもの、これから見かけるんじゃないかな。私もね、当時はそんな夢見がちな若者たちの中の一人だったのよ。幸い、私たちのパーティはメンバー間の息もぴったり合っていたみたいで、なかなか順調だったのよ? 依頼も順調にこなして、少しずつランクも上がっていって……」
「そうなんですね」
「でもね。若さゆえの、ほんの少しの油断と慢心で……。ある依頼で、私たちは取り返しのつかない失敗をしてしまったわ。結果、私以外の仲間は、誰も、誰一人として生きては戻らなかった。……そのパーティーにはね、私の実の弟もいたのにね。……ねぇ、フェリクス君。私って本当に、ひどい姉でしょう?」
そう言ってマリーさんは力なく、自嘲するように微笑む。
その笑顔はあまりにも悲しくて痛々しくて、僕の胸を強く締め付けた。




