第3話 ハーフエルフ
ここでの生活を暫く続けてみて、わかったことがある。
俺に、人生初の『マシュマロパイ包み』という天国を与えてくれたエミリーさん。どうやら彼女が、この世界での母みたい。そしてあの時、ちょっと胡散臭い感じの医者と何やら言い争っていた男性が、なんと父と判明したのだ。
そして、自身の名前。
『フェリクス・コンスタンツェ』
これがもう、どうしようもなく慣れない。そりゃそうだろ? 生まれも育ちも日本人の俺に、急にファンタジー感強めのカタカナネームを与えられてもさ、正直、違和感しかないって。
「フェリクス」なんて呼ばれても、咄嗟に反応できるわけない。
まだある。聞いてびっくり、コンスタンツェ家は『当代限り』の騎士爵家だそう。
つまり、何か特別な武勲を挙げるなど、目立った功を立てないと、俺の代で平民逆戻りコース確定らしい。異世界転生モノといえば、やれ公爵家だの伯爵家だの、それこそ王子に転生ってパターンまであると聞いたのに? なんだよ騎士爵って……それも当代限り。微妙すぎでしょ。
ちなみに文明のレベルは現代でいう中世に近いようで、当然ここには電気だの、便利な機器は何一つ存在しない。『剣と魔法の世界』なんて響きが恰好良いだけの、不便極まりないハードモード以外の何者でもない世界さ。ふん。
◇ ◇ ◇
館の裏口から外へ出ると、ひんやりと澄み切った朝の空気に身震いする。
踏み固められた庭の小道をゆけば、脇には無数の花々が鮮やかな色彩を放ち、庭の奥手には木々が風にそよぎ、さらさらと葉擦れの音が心地よい。空には、どこまでも突き抜けていくような鮮烈な青が広がっている。
目が覚めるような、色鮮やかな自然が放つ透明感。発展と引き換えに失った世界が、大昔の人たちが、きっと当たり前のように目にしていた、ありのままの自然の美しさがここにはあった。
「空が、本当にきれいだ……」
思わず漏れた呟きに、隣を歩くアンリエッタさんが穏やかに相槌を打つ。
「ええ、本当に。心が洗われるようですね」
これが、剣と魔法の世界ならではの美しさか──。
剣と、魔法……。
魔法や魔道具の話は以前にも聞いたけど、やはり、気になるものは気になる。
三十路を過ぎた元医者が何を、と笑う奴もいるだろうけど、誰しも一度は憧れるものだろ。
そんなことを考えながら、吸い込まれそうな青空をぼんやり見上げていると、
「何か、気になることでもおありですか?」
アンリエッタさんが、不思議そうな顔で覗き込んでくれた。
彼女の黒髪がさらりと頬にかかる。
「あ、いや、魔法って、どんなものなのか興味があって」
この世界に来てから、魔法の存在は何度か耳にしたけれど、実際にこの目で見たことはただの一度もない。一体、どうすれば使える? 誰に教わればいい? この、子供の身では、館から街へ行くことすらできないというのに。
「アンリエッタさんなら、魔法を使える人知ってたりするかな……?」
僅かな期待を込めて尋ねた俺の言葉に、アンリエッタさんは少しの間を置いて、
「ええ、存じておりますし、私も使えますよ」と、こともなげに答えてくれた。
「えっ? 本当に?」
灯台下暗しとは、まさにこのこと!
使える人が、まさか、こんな近くにいただなんて……。
想像すらせぬ答えに驚き、目を丸くしてしまう。
「ふふ、実は得意だったりします」
彼女は微笑みながら応えてくれているけど、その表情の奥に、隠しきれない自信と得意げな雰囲気が滲み出ている。綺麗な笑顔の裏に隠された、そんなお茶目な一面を見つけると何だか嬉しくて、心の中で小さくガッツポーズを決めた。
魔法そのものに興味はある。けどそれ以上に、こんなにも美しいアンリエッタさんが魔法を使う姿なんて、絵になるに決まっているじゃないか。そう思い始めると、もう、見たくて堪らない。それが男心ってものでしょうが。
「見せてよ、アンリエッタさん」
ほんの少し、前のめりになってお願いしてみる。
熱い男心が姿勢に現れてるようで、恥ずかしいけど構うものか。
俺の熱い願いや虚しく、彼女はふっと表情を曇らせると、どこか悲しそうな顔で静かに首を横に振った。
「申し訳ありませんが、お見せすることができないのです」
少し伏し目がちに、やや申し訳なさそうにする彼女。
くっ、そんな憂いを帯びた表情も良き。
「どうしてかな?」
「使用人はお勤めする際に魔法で害をなさぬよう、魔法の力を制限する『魔封じ』を、常に身に着けねばならない。という決まりがあるのです」
そう言いながら、メイド服のボタンを二つほど外して見せてくれた。
ふわりと漂う甘く落ち着いた女性の香りにクラクラする。そこから視線を落とすと、僅かに覗く白い肌が、瑞々しくも控えめな谷間『神域』に目も心も奪われてしまった。ああ、ここが神がおわす地か──。
はっ? まずい。いま絶対ガン見してた! 早く目を離さないと。
自慢じゃないけど、前世では母以外の女性の裸を見たことがない。断っておくが『本物の』裸って意味でだぞ? ネットとかスマホがあったんだ、映像でなら見たことあるっつーの。フン。
ん? お前、前世では医者だろって?
フッ、梅干しみたいなヤツとか、干した大根みたいなさぁ、人生を闘い終えて引退した元戦士や、元勇者みたいなのはノーカウントに決まっているのだ。
言わせるなよ(泣)。
「そこではありません。こちらですよ」
かけられた言葉にハッと我に返ると、アンリエッタさんはクスリと笑いながら、首元に掛けられた黒く堅牢そうなチョーカーのような物を、指で摘んで示していた。
よそ見してたのがバレてたようで超恥ずかしい。穴があったら入りたいとはまさにこのこと。
あのう。もし可能なら、なるべく狭い穴でお願いします。
上から覗かれてると思うと辛すぎるから。密着系で!
「ご、ごめんなさい」
素直に謝ると、アンリエッタさんは「ふふ」と優しく微笑んで許してくれた。
もしこれが前世の姿だったら、こんな優しい反応は返ってこなかっただろう。ハッ!? と慌てて胸元を隠した後、汚物でも見るような冷たい目で見るに違いないんだ。運が悪ければ、ビンタが付いてきてもおかしくはない。
そう考えると子供パワーって凄いな。祝、穴脱出。
「世の中には色々な使用人がおりますから……中には、魔法の力を悪用して、主人を害するような、ね? だから力を制限されるのです」
アンリエッタさんの続く言葉に、興味津々に耳を傾ける。
「悪い人ではなくても?」
「ええ。ですからお見せ出来ないのです。この程度でよろしければお見せ出来ますが……」
端正な顔立ちがふっと引き締められ、空中に人差し指を静かに掲げる。
「小さき炎よ、我が指先に宿りて光を放て【ルイン】」
詠唱が終わると同時に、彼女の長く美しい指先にボッと小さな灯りが灯った。
「うわぁ、すごい」
指の上から火が!?
ありえない光景に目を輝かせ、これが魔法なんだと感動してしまう。
元いた世界では映画やゲームに、漫画や小説の世界でさえ当たり前に見かけた『魔法』という概念。使えもしない、使える者が誰一人としていないのに、あまりにも有名な事象。それを目にしたらやっぱ使ってみたいよ。なぁ?
「アンリエッタさん、僕にも教えて!」
本日二回目の、前のめりでお願いしてみる。
見た目は完全に子供だから、一人称は『僕』なのも忘れてはいけない。ついつい、前世の名残で『俺』って言いそうになる。口調や態度も含めて、早急に意識改革を進めないと……。怪しまれてしまうのは絶対に避けたい。
「勝手なことをしたら、ご主人様に叱られてしまいますから」
アンリエッタさんは困惑した様子で、ぼ、僕を見つめていた。
まずい、このままでは断られてしまう?
何か、最もな理由付けが必要だ。そうだろ? 考えろっ。
「我が家は一代限りの騎士爵なんでしょ? じゃあ剣術も魔法も、それこそありとあらゆることを学んでいかなくちゃ。だからお願いだよ」
困った顔で見つめ続けるアンリエッタさんに俺、もとい僕は必死に訴える。
「ぼっちゃまのそのお心意気は、大変素晴らしいですね」
「じゃあ?」
「ですが、一つだけよろしいでしょうか?」
「うん」
「ぼっちゃまは人族でいらっしゃいますから、適性次第によっては魔力量が少ないこともございます。……ですから、思ったほど成果が見込めない場合もあるかと……」
「それは構わないけれど、ひと、族?」
言いづらそうに言葉を選びながら話す彼女。それ以上に、『人族』という言葉が、妙にひっかかる。
「えっと、アンリエッタさんは違うの?」
「…………!」
それまで、凛とした花のようであったアンリエッタさんの表情が、みるみると翳っていく。まるで、美しい花が急速にしおれていくように。何か、触れてはならないことに触れてしまったのだろうか。
「私は……ハーフエルフ、ですから……。種族的にも魔法は得意なのです」
ちょっと待って、エロフじゃなくてエルフだと!?
衝撃の事実に心臓が跳ね上がる。あぶない、こっちから確かめなくて良かったよ。うっかりエロフ扱いして彼女にクソガキ認定されたら、僕はもう立ち直れないかもしれない。
彼女がハーフエルフであるという事実よりも、それを語る彼女のあまりにも悲しそうな表情の方が、僕の心を強く揺さぶる。
「なんだ、そんなことか。ハーフだなんて恰好いいね」
「はい?」
呆けた表情を見せる彼女、初めて見せる呆け顔も良き!
「ハーフエルフですよ?」
念を押すように繰り返す彼女に、僕はもう一度はっきりと言った。
「人族とエルフ、双方の良いところを受け継いでるんでしょ?」と。
ハーフとかクォーターなんて言葉、人生一度は憧れるってもんだよねえ。
その言葉を聞いた途端、まるで堰を切ったように。一輪の黒花の様な美しい彼女の頬を大粒の涙が一筋、また一筋と伝い落ち、足元の土を濡らしていく。予想外の反応に僕は慌てて問いかける。
「ど、どうしたの? アンリエッタさん泣かないで」
「……ぼっちゃまはご存じないのかもしれませんが、純粋なエルフでも、かといって人族ですら無い私たち達のようなハーフエルフを、誇り高い森の妖精たちは忌み嫌うのです。まして、私はこんな髪の色ですし……」
項垂れながら、彼女は自分の黒髪にそっと指で触れる。その仕草が、あまりにも痛々しくて、見ていられなかった。
そうなのか、エルフってそんなにも純血主義なのか。
この世界の常識や歴史を知らない僕には、彼女の悲しみの深さを、本当の意味では理解できないのかもしれない。
「人族が暮らす集落へ移っても変わりませんでした。いえ、迫害がなかっただけ……マシだったのかもしれませんね。ですが、薄汚れた孤児のハーフエルフの面倒を見てくださる方はおりません。私が使用人となったのはそのためです」
「そっか……でも、コンスタンツェ家に来てくれなかったら、僕はアンリエッタさんに一生会えなかったかもしれないんだね。そんなの悲しいよ。僕は、出会えたことに感謝したらダメ、かな?」
「ぼっちゃま……」
「こんなに素敵な女性を、生まれや、髪の色を理由に忌み嫌うなんて、どうかしてるよ。馬鹿げてる」
僕には、彼女たちが抱える民族的な確執とか、エルフの血統主義とか、難しいことはわからない。だが、現代人であった自分には、そんなもの何の関係もない。ただただ魅力的で、素敵な彼女が目の前にいる。それが僕にとっての真実なんだ。
「決めた。もし、これからアンリエッタさんを傷つける奴が現れたら、懲らしめられるくらい強くなってやる」
「ありがとうございます……うふふ、まるで小さな騎士様ですね」
ほんのり泣き顔のアンリエッタさんに、そっと優しく抱きしめられた。
心が、温かいもので満ちてゆく。
自然と僕も彼女を抱きしめ返し、その身を包むようにと手を回すけど届かない。どうして、こんなにも小さくて短いんだ。
小さい手が、短い腕が、今はただ悲しかった。




