第20話 夢のあとさき
アイツの言葉が頭の中に浮かんでは消え、何度も繰り返される。
『猶予は、あと三ヶ月と少し。一日でも遅れたら綺麗さっぱり諦めるんだな』、と。
金貨百枚の支払がギリギリすぎて、彼女の次の奉公先が決定してしまう。あるいは既に誰かの元へ買われてしまっていた。などという失敗は絶対に許されない。残された期間はきっかり三ヶ月、と思うくらいで丁度いい。
それくらい余裕を見たほうが安全だろう。
……安全? 何が安全だというのか。
金貨百枚という絶望的な金額を、たった三ヶ月で用意しなければならないというのに……。
ロルフたちが言っていた通り、いま僕たちが住んでいるこの家も、そう長くは住めないだろう。領主に新たに任命された、次の家主がじきにやってくる。
この世から、コンスタンツェ家領という名称までもが消えてしまう。
やるべき事は山のようにあった。 今回はもう「何も手につかない」などと、子供のように泣き言を言っている暇はない。
「母さん、少し話があるんだけど、いいかな?」
見れば母さんの目は、今日も泣きはらしたようで赤く腫れていた。
そんな状態の母さんに、告げようとする僕は親不孝者かもしれない。
「アンリエッタさんのことね?」
「うん」
「……フェリクスは、どうする気なの?」
「僕は町に出て、お金を稼ごうと思う。だから、この家を出ていくよ」
僕の決意を聞いて、母さんは静かに頷いた。
「そう……あの子は、本当にいい子だったものね。あなたが行くというなら、私は止めません」
「ありがとう、母さん。……それで、母さんのことなんだけどね。僕が家を出てしまったら、この辺境の地に母さんを一人で、ましてや年老いたオデットさんと二人だけで置いておくわけにはいかない。だから、おじい様のいる実家に帰ってくれないかな?」
母さんに、勝手なことを言っている自覚はある。酷なことも……。
最愛の夫を失ったばかりなのに、一人息子の僕までが側を離れるというのだから。でも、今の僕にはこれしか方法がない。そもそも、この家自体にも、僕たちは住めなくなってしまうのだから……。
「オデットさんのことは心配しないで。おじい様に頼み込んで、僕が責任を持って何とかしてもらうから」
幸い、母方の祖父も祖母も、僕が知る限りとても優しく、道理を弁えた人たちだ。きっと事情を話せば分かってくれるはず。オデット婆さんが望むなら、僕が頭を下げてでも、母さんと一緒に面倒を見てもらえるように頼み込むつもりだった。
だけど、僕がそう切り出す前に、オデット婆さんの方が先に口を開く。
「坊ちゃま、そんな、私のことまでお気遣いいただいて、本当にありがとうございます。ですが、もうご心配には及びません。……最近は、耳も随分と遠くなりましたし、体も思うように動かなくなってきました。旦那様もお亡くなりになった今、ここらが潮時かと、身を引こうかと考えております」
「オデットさん!? あなたまで、私をおいていなくなってしまうの?」
母さんが、悲痛な声を上げる。
「申し訳ありません、奥様……。ですが、先日、街で店を営んでいる娘夫婦から、一緒に暮らさないかと誘いの便りが来ておりまして……。迷惑でなければこの際、子の世話になろうかと思っております」
「そう……。あなたが決めたことなら、仕方ないけれど、寂しくなるわね。でも、それは……あなたにとっては良いことなのね? その話は本当なの? 私たちに気を遣って嘘なんかついていないわよね?」
母さんが、心配そうに念を押している。
どうやらオデットさんは本当に、これを機に引退し、娘夫婦の元で静かに暮らすことを選んだようだった。
「コンスタンツェ家には、先代の頃から本当によくしていただきました。長い間、本当にお世話になりました」と、彼女は涙ながらに何度も頭を下げ、僕と母さんも、今日まで尽くしてくれた彼女への感謝の涙を流しながら、その別れを惜しんだ。
……僕は本当に、無力なんだな。
父さんと比べて、今の僕はあまりにもちっぽけで頼りない。
それから数日後。祖父が手配してくれた立派な紋章入りの馬車が、我が家の前にやってくる。
父さんがいなくなり、アンリエッタさんは連れ去られた。そして、長年仕えてくれたオデット婆さんも、娘夫婦の元へと旅立って行った。とうとう今日、僕にとって最後の家族である、母さんとの別れの日がやってきたのだ……。
「やっぱり、フェリクスも一緒に帰りましょう。アンリエッタさんのことだって、おじい様に相談すれば、きっと何か良い知恵を貸してくれるわ。そうだわ、お金についても母さんが一緒に頼んであげるわ。お願いだから一緒に来てちょうだい」
馬車に乗る直前、母さんが懇願するように、涙に濡れた目で僕を見つめている。
母さんも寂しいよね。きっと不安だよね。父さんを失い、たった一人の息子までが側を離れようとしているのだから。……でも、ごめん、母さん。それでも僕は、一緒に行くことはできないんだ。
「母さん、本当にごめん。それは無理なんだ」
「どうしてっ……」
「僕は自分の力で彼女を取り戻したい。それだけじゃない。どれだけ時間が掛かるかわからないけど、家族みんなで暮らした……この家を、庭も。何もかも全て取り戻したいんだ。父さんの自慢の息子として、情けないことはできない」
「うぅっ……フェリクス。あなたって子は……」
「母さんに会いに……たまには戻るから。だから、待っててくれる?」
僕の決意を聞いた母さんは、しばらく黙って僕の顔を見つめていた。やがて、ふっと諦めたように息をつき、そうして流れる涙を拭う。
「本当に、頑固なんだから……。あの人に似たのね……分かったわ。じゃあ、一つだけ、約束なさい」
「約束?」
「ええ。何があっても、命だけは絶対に粗末にしては駄目よ。アンリエッタさんを取り戻すことも大切だけれど、あなたが無事でいることが、私にとっての一番の願いなのだから。あの人も、きっとそれだけは強く望んでいるはずだわ。……わかった?」
「うん。絶対に命は粗末にしない。約束するよ」
母さん。きっと、たくさん寂しい思いをさせてしまうね。
でも、母さんが戻るのは実家だから。
祖父も祖母もみんな優しい人なのは知っている、だから安心して送り出せるんだ。でも、アンリエッタさんは違う。彼女は今、たった一人で、何処かで泣いているかもしれない。
『遠い場所から、あなたの幸せだけを願い、これから生きていきます……』
彼女が最後に残したあの言葉。あれは、彼女の僕への優しさであると同時に、もう二度と会えないかもしれないという、彼女自身の覚悟の言葉だったと思う。
いつ如何なる時も、慈しみ見守るように優しかった。
僕の全てを肯定してくれた女性。
失ってわかる。僕はいつだって守られていたんだ。
父さんや、あの女性に。
もう子供の時代は終わりだ。僕がアンリエッタさんを守る。
彼女の安寧を取り戻す。だから、母さん行くね。
愛してくれてありがとう。
育んでくれて感謝しています。
そして、彼女を家族と言ってくれてありがとう……本当に嬉しかった。
母さん、僕も愛しているよ。
◇ ◇ ◇
──そう胸に強く、決意したのに。
一見すれば、勇ましくて格好いいだろう? はは、でも現実は惨めで情けない男なんだよ僕は。
だって、ほら。そこの通路を曲がると、まるで幻のように随分前のアンリエッタさんが現れて、微笑みながら言うんだよ?
『まぁ、では私がご案内して差し上げましょう。小さな勇者様』と。
庭を歩けばまた思い出が蘇えってくる。あの大きな石の前で、初めてアンリエッタさんに抱き上げられ、まるで映画のワンシーンのようにくるくると回った、夢のような日。
使い古した木剣を見ると、
「わはは、フェリクスも強くなっているぞ?」
「いいぞ、フェリクス。筋がいい」
喜ぶ父さんの声が、姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
少し歩けば其処彼処に、父さんや、彼女と過ごした日々の温かくて、かけがえの無い思い出が残されていて、涙が止めどなく溢れてしまうんだ。
庭の木に張られた洗濯紐に、もう着る者のいない。彼女が身に着けていた仕事着が残され風に揺れていた。
そっと、洗濯紐から外した彼女の服を胸に抱きしめると、陽だまりの匂いの中に隠された、彼女の仄かな、甘く優しい香りが僅かに残っていて……それが、堪らなく愛おしくて、同時に、胸が張り裂けそうなほど悲しくて、また涙が止まらなくなる。
「アンリエッタさん……」
「父さんっっ!」
もう誰もいない。月の光だけが差し込む暗い庭で、僕は一人、何度も、何度も、大切な人たちの名を呼ぶ。
「はい」「はぁい」「何ですか?」何度聞いただろう。
父さんは「ん? 何だ?」「いってみなさい」こんな感じだよね。
聞こえた気がしてそっと振り返り、二人を探してみたけれど、自分以外誰も居ない孤独な現実に絶望する。
暗い庭を後にして、誰も居なくなった静まり返った居間に一人座ると、僕はテーブルの上に置かれたままになっていた、父さんの剣をおもむろに鞘から抜き放ち、目の前に掲げてみた。
窓から差し込む月明かりを鈍く反射する、父さんの魂が宿る剣。
……これからどうしようか。どうやって金を稼ごう。
金貨百枚。この父さんの剣を手に、傭兵か冒険者にでもなるか。……あるいは魔法の知識や力で稼ぐ?
この世界のお金の稼ぎ方なんて、誰にも教わっていない……。
ん? この剣……。もしかして鋳鉄なのか?
鋳鉄は安価に作れる代わりに、衝撃に弱く、強度が低い。
工業化が進んでいないこの世界、鋼を鍛え上げて剣を作り上げるのは、相当な手間と技術が必要だろうし、完成した剣はおそらく、かなり高価な品になる。
クソ領主め、騎士の剣までケチるだなんて。
酷すぎる。
父さんの、大切な形見の剣。
できることなら、僕がこれから長く使っていきたい。戦いの最中に、簡単に折ったりするわけにはいかない。
──そうだ、この剣を、僕の魔法で強化できないだろうか?
金属相手に、僕の魔法が効果を発揮するのかは分からない。でも、試してみる価値は大いにあると思う。
僕は、鉄の分子構造を頭の中に精密に描き上げると、そこに炭素が合わさり鋼へと変換していく様を思い浮かべた。
さらに、転位強化、固溶強化、析出強化、結晶粒の微細化といった、前世で読んだ知識──金属を強化する為のあらゆる手法を取り入れ、折れてしまわないようにと硬い層と柔らかい層を絡み合わせる。
そんなイメージを脳内に可能な限り鮮明に、作り上げていった。
そうして、刀身にゆっくりと魔力を流し込んでいく。アンリエッタさんと、来る日も来る日も、鍛え続けてきた僕の魔力。天国の父に届けと願わんばかりに。
「うう、頭がくらくらしてきた」
どれくらいの時が経ったろう。
魔力を使いすぎたのか、眩暈が酷く頭も痛い。
限界を感じ取った僕は魔力の放出をやめると、刀身を包んでいた淡い魔法の煌めきがすうっと消えていく。
荒い息をつきながら刀身を注意深く観察する。……すると、先ほどまでの鋳鉄特有の、頼りない鈍い銀色とは明らかに違う。鍛え抜かれた鋼だけが持つ、深く、青みがかったような妖しい輝きを放っている。
その刀身には、まるで水面が揺らめくような、複雑で美しい、波打つ波紋のような紋様が、くっきりと浮かび上がっているではないか。
「この紋様って……もしかしてウーツ鋼?」
人類の長い歴史の中で失われしその鋼は、現代の高度な科学技術をもってしても再現できない。伝説の、いにしえの奇跡の金属。最高の切れ味と驚異的な強度。そのうえ決して錆びず、それは美しい紋様を併せ持ったと言われている。
ウーツ鋼で鍛えられたダマスカスソード。
その特徴的な色と紋様に、今、目の前にある父の剣の紋様が、あまりにもそっくりだった……。
いやいや、まさかね。
信じられない気持ちのまま、僕はそっと立ち上がる。
居間の古い木製テーブルの角に向かって、生まれ変わった父の剣を、力を入れずに、ただ軽く当ててみた。ただ軽く……。
ゴン、ゴロン……ゴロ。
何の抵抗もなく、音もなく、テーブルの頑丈な角が、綺麗な断面を見せて床に転がり落ちてしまったではないか。
「は、ははは……。恐ろしいほどの切れ味だな……」
乾いた笑いが、静まり返った居間に虚しく響いた。
いつか、母さんにテーブルのことを謝らないと……。って、ぐぬぬ。あれ? 鞘に入らない? なんで?
ええええ!? よく見たら、刀身が僅かに反ってる!?
これでは、まるっきり日本刀じゃないか!?
『何よりもイメージが大切ですよ?』
このタイミングで、アンリエッタさんに何度も教わったあの言葉が、彼女の優しい声で、脳内に鮮明に再生される。
しまった、そういうことか!
強化のイメージをする際に、無意識に僕が理想とする『剣』のイメージ……つまり、日本刀をイメージをしてしまってたんだ。
ご、ごめーん、父さん!
大事な形見を、変形させちゃったよおおおお。
騎士の魂を変形させちゃうなんて。ああ、これこそ、母さんに何ていえばいいんだ……。テーブルどころじゃないよ、もう。とほほ。




