第19話 別離
契約……。
アンリエッタさんが、ただ生きていく為に、商人ギルドと交わした『約束』。ああ、理屈ではわかる。当時の彼女が生きていく為には、仕方がなかったのだろう。
けど、この僕の二度目の人生が、こんなにも温かく満ち足りていたのは、他の誰でもない、アンリエッタさんがいつも隣にいてくれたからなんだ。父さんに続いて、彼女まで僕の前からいなくなってしまうなんて、そんなの、絶対に耐えられない!
彼女のいない、これからの人生なんて、もう考えたくもない。きっと、僕の心は、今度こそ本当に壊れてしまうだろう。
「……はぁ、やれやれ。ガキの相手は骨が折れるぜ。こんな仕事、やってられんな、まったく」
僕の心の叫びなど知る由もなく、奴は大きな溜息をついてみせた。
「まあ、いいか。坊主よく聞け、俺達だって好きで好んで、こんな真似をしてるんじゃねえ。なにも、このハーフエルフを今すぐ攫って、どこぞの好事家に売り飛ばそうってわけじゃねえんだ。契約ではな、こいつに次の仕事が見つかるまでの期間は、ギルドが責任もって面倒を見るという約束になってる。ちゃんと衣食住は保証するさ。そして、新たな契約先が見つかれば、そこでまた真面目に働いてもらって、その給金の一部は、まぁ、育ててやった手間賃として支払ってもらうという寸法よ」
男は……ロルフは、少しだけ口調を和らげて続ける。
「どうしても、お前さんがこのハーフエルフを手元に置いておきたいなら、坊主、お前さんが、その契約金とやらを代わりに払うか?」
「金? 金で、済むのか?」
「おうよ。金で解決できるなら、それが一番手っ取り早い」
絶望という名の底なし沼に、深く沈みゆく僕の心。そこへ、僅かな、本当に僅かな希望の光が見えた気がした。
「いくらだ」
「ふん。その生意気な口の利き方は気に入らねえが、まあいいだろう。教えてやる。こいつの年契約料は金貨四枚だ。一年分前払いでな。ただし、これは身元がしっかりしていて、安定した支払い能力のある雇い主限定の条件だがな。悪いが、お前のような、もう間もなく家も爵位も失うような奴は論外だ。そんな奴にこいつを預けたら、どうなる? 数か月もしない内に夜逃げされて、踏み倒されるのがオチだ」
ロルフの言葉が冷酷な現実の刃となって、容赦なく僕の心に突き刺さり、芽生えかけたばかりの淡い希望を、根元から無残に打ち砕いていく。
「……まあ、ハーフエルフそのものを『買い取りたい』ってんなら、話は別だがな」
「アンリエッタさんを、買い取る?」
「おうよ。買い取っちまえば、所有権は完全にそいつのモンになる。ギルドとの契約も綺麗さっぱり消える。その後は、メイドとして雇い続けようが、奴隷のようにこき使おうが、あるいは妾にして慰みものにしようが、買った奴の自由だ。俺たちの知ったこっちゃねえ。家があろうが無かろうと、安定した職の有無すらな。そんなこたぁ買い取った後なら一切関係ねえのさ。……但し、値段は金貨百枚。一括払いだ。分割は認めねえ」
「ひゃ、百枚!? 金貨、百枚だと!?」
あまりの金額に声が裏返り、眩暈を覚えてしまう。
金貨百枚……。
それは、この世界の貨幣価値をまだ正確には知らない僕ですら、即座に理解できる、とてつもない大金だ。貴族の端くれである我が家ですら、すぐさま用意できるような金額ではないだろう。
十代の子供である僕に、そんな大金を用意できるはずがない。いや、その辺の普通の大人だって、何十年かかって貯めれるかどうか……。
騎士であった父さんの年収を、いったい何年分貯めれば、その金額に届くというのか……。想像もつかない。
「エルフ共は、人間よりも魔法の才能に秀でた奴が多いからな。で、この見た目だ。高くても買うという好事家は、世の中にゃ結構いるんだぜ? おまけに、エルフは俺たち人間よりもずっと長く生きやがる。大事に使えばそれこそ何十年も、下手すりゃ人間の一生分以上、働けるんだ。安い訳がねえだろうが」
何て、不愉快極まりない言葉だろう。
「くっ、何て言い草だ。彼女は物じゃないんだぞ!」
怒りに任せながら反論しても、ロルフは鼻で笑うだけだった。
僕の言葉など、歯牙にもかけていない。
「ふん、まだそんな青臭いことを言うか、坊主。……まあ、こいつはハーフでこの色だからな。本物の純血エルフなら、もっと高く売れるんだが、混じりもんで黒は人気がねえ。この程度の値段が相場ってもんだろ。安くしないと誰も買わん。顔立ちは良いものを持ってるのにな、気の毒な女だよ」
心底同情するかのように、しかしその目には何の感情も宿さずに話す姿に、僕は激しい怒りを覚える。混じりもん、だと? き、気の毒な女!?
お前たちが、どのツラ下げて言うのかっ。
「値引きはビタ一文しねえぞ? さあ、どうする坊主。お前の家にそんな大金、あるのか?」
ロルフが鋭い目で僕を見据える。
情けないことに、どれだけ激高しようとも、力の無い僕は祈るような気持ちで母さんへ目を向けることしかできない……。だが、母さんは、力なく静かに首を横に振るだけだった。
……そうだよな。我が家を隅から隅まで、それこそひっくり返して探したって、そんな大金が出てくるはずがない。
「残念だったな。商談不成立、だ。剣まで抜いて威勢だけは良かったが、結局、金もねえ甲斐性なし、か。お前、どうしようもねえな、本当に」
ロルフが、顎で手下に合図する。手下たちは、待っていましたとばかりに、アンリエッタさんの両腕を掴み、家の外へと連れて行こうと動き出す。
僕は、その光景を、呆然と立ち尽くして見ていることしかできない。
何もできなかった……。
玄関の扉が開け放たれ、家の小さな前庭の先に停められた、商人ギルドの紋章が入った頑丈そうな馬車に自然と目が行ってしまう。ああ、アンリエッタさんは、あれに乗せられて、どこか遠くへ連れて行かれてしまうのだ。
彼女がいなくなる。
その事実が、まるで巨大な氷の楔のように、僕の心臓へと深々と打ち込まれる。激しく痛み、苦しくて、息が上手くできない。まるで全身の血が止まってしまったかのように、手足の先から力が抜け、体は自分の意思とは関係なく、カタカタと小刻みに震え続けていた。
強くなったつもりだった。彼女に、来る日も来る日も師事を請い、剣士としても、魔法使いとしても、以前とは比べ物にならないくらい、かなりのレベルまで成長したと、そう自負していた。でも、結局、僕には『金』がない。この世界で一番大切な、たった一人の彼女を取り戻すための、金貨百枚が、今の僕にはなかった。
……何という皮肉だろう。ひたすらに勉強だけを続け、医師という社会的地位と十分すぎるほどの金を手に入れた前世では、本当に心から望んだものは何一つ得られなかった。
そして、この世界で、ようやく心の底から大切だと思える人達を得て、満ち足りた本当の幸せを知った今世では、そのかけがえの無い彼女を守るための金がない。何なんだ、一体。この理不尽で残酷極まりない世界は。
彼女が、アンリエッタさんが目の前から消えてしまうというのなら、いっそ僕も、このまま消えてしまえばいい。もう、何もかも、どうでもいいじゃないか。
……でも、それは違う。彼女は消えてしまうわけじゃない。
ただ、この広い世界のどこかで、僕の知らない場所で、彼女は生きていくんだ。僕の前から、永遠にいなくなってしまうだけで……。アンリエッタさんのいない、これからの長い長い毎日。そこに、一体どれほどの価値が、意味があるというのだろう。
「……最後に、少しだけお時間を頂けませんか?」
まさに、馬車へ乗せられる直前、アンリエッタさんがロルフに向かって最後の願いを告げる。
「チッ。本当に少しだけだぞ? 感傷に浸ってる暇はねえんだ」
ロルフが、舌打ち混じりに吐き捨てた。
その言葉を受けて、アンリエッタさんが僕の前まで数歩、静かに歩み寄る。そして、そっと僕の体を抱きしめながら、耳元で囁いたんだ。
「フェリクス様……」
初めてだった。彼女に、そんな風に名前を呼ばれたのは。
いつも、「ぼっちゃま」だったのに……。
その響きがあまりにも嬉しくて、でも同時に、どうしようもなく悲しくて、堪えていた涙腺がついに決壊してしまう。
「うぅぅ、アンリエッタ、さん……っ」
「私の、小さかった騎士様。どうか、泣かないで? そして、どうか、どうかお幸せになってください」
「いやだ、 アンリエッタさんと一緒じゃなきゃ、幸せになんてなれない!」
「ここでの日々は……あなたの側にいられた時間は、私にとって、生まれて初めて心の底から安らげる温かい場所でした。ですから、どうか、あなただけは幸せになってくださいね……。私は、遠い場所から、あなたの幸せだけを願いながら、これから生きていきますから」
そう言って、彼女は僕の顔を覗き込み、そっと、その桜色に震える柔らかな唇を、僕の涙で濡れた頬に触れさせた。
「……さようなら、私の宝物。あなたなら、きっと大丈夫。どんな辛い困難があっても、強く、真っすぐに生きていけるから。どうか、負けないで」
最後にほんの数秒だけ、ぎゅっと、この世の全ての想いを込めるかのように、強く、強く抱きしめられる。
そうしてゆっくりと、名残を惜しむように、僕の体から徐々に失われていく──、アンリエッタさんの温もりと、柔らかな感触。
ああ、僕の世界から、光が消えていく……。
「奥様、長い間お世話になりました。家族のように接してくれて、本当にありがとうござい……ました。うぅ……」
「アンリエッタ……さんっ」
僕より大人なはずの、母さんでさえ、ただ泣きじゃくることしかできない。
もう、どうやっても……覆せないんだ……。
そのまま、彼女は後ずさるように離れていく。
あの、いつもは輝くように美しい顔が、今は止めどなく流れる涙に濡れ、悲しみに歪んでいた。
僕が、僕が守ってあげなければいけなかったのに。そう約束したのにッ。彼女を、あんな風に泣かせてしまっているじゃないか!
「アンリエッタさん、待ってて! 僕は必ず、必ず貴女を取り戻しに行くから!」
僕の魂からの叫び声が、庭に虚しく響く。
「だから、どこにいても絶対に待ってて!」
大粒の涙を流しながら、それでも彼女は最後に、力の限りの微笑みを向けてくれた気がした。
「フェリクス様……私の髪を好きと言ってくれてありがとう。どうか、お幸せに……。どうか……うぅ」
「おい、いつまでやってる。とっとと乗れ!」
ロルフの手下に背中を乱暴に押され、彼女の言葉は最後まで聞き取れなかった。馬車の扉が閉められ、その姿が視界から遮られる、最後の最後まで、アンリエッタさんは涙を流しながら僕を見つめ、何かを伝えようとしてくれていた。
「チッ、坊主、いつまでも泣いてないで、よく聞け」
馬車の扉を乱暴に閉めたロルフが、忌々しげに舌打ちしながら、僕に言った。
このうえ、まだ何かあるというのか? うぅ……。
「いいか? お前の死んだ親父さんとの一年契約は、まだ三ヶ月と少しだけ残っている。……まあ、何かの縁だ、そこまでは待ってやる。俺が上に掛け合って、何とかしてやるから安心しろ。だが、それだけだ。このハーフエルフを何としても取り戻したかったら、金貨百枚、きっちり用意してみせろ。一日でも遅れたら、もう知らん。その時は、綺麗さっぱり諦めるんだな」
ロルフはそれだけ言い残すと、御者に合図を送る。
「ったく、柄じゃねえよな。おい、行くぞ。出せ」
「へいっ!」
御者が馬に鋭く鞭を入れた。馬車がゆっくりと動き出し、無情にもその速度は徐々に早められていく。やがて遠ざかり、僕とアンリエッタさんを永遠に別つかのように、その姿は小さくなっていく。
「い、いやだ……! 行かないで! 行かないでよ、アンリエッタさん!」
僕は後先も考えず、ただ必死に馬車を追いかけ走った。
金貨百枚という途方もない金を用意しなければならないことも、まだ少しだけ、ほんの僅か猶予が残されていることも、頭では分かっている。分かっているさ! でも、今、目の前で去り行く彼女を、このまま黙って見送ることなんて、できるはずがないだろう!?
けれど、僕の足では、走り去る馬車に追いつけるはずもなく。アンリエッタさんを乗せた馬車は、やがて道の角を曲がり、完全に見えなくなってしまった。
僕はその場に崩れ落ち、力なく地べたに膝をつく。
喉の奥から、嗚咽とも絶叫ともつかない声が漏れた。
行ってしまった。僕の、全てが……。
本当に大切な、かけがえのないものを。
僕はまた一つ、この手から失ってしまった……。




