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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第一章 転生で初めて人の温もりを知る

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第18話 アンリエッタ

 やるべき事は、山のようにあるはずだった。

 父亡き後のコンスタンツェ家をどうするのか、これからの日々の生活はどうなってしまうのか。

 考えなければならないことは、それこそ、多々あるはずなのに。

 父さんが亡くなったという事実を突きつけられてから、僕の心はまるで分厚い鉛でも詰め込まれたかのように重く、何も手につかないでいた。


 あれほど大切で、生きがいとすら感じていた、一日たりとも休むことなく続けてきた習慣──アンリエッタさんとの訓練すらも、ただ無気力にサボってしまった。

 雨の日も、風の日も、雪がシンシンと降り積もる日だって、続けてきたのに。


 何も、やる気が起きないのだ。

 身体も、心も、まるで石になってしまったかのように。

 

 そうは言っても、僕たちは生きている。

 生きている限り、どれだけ辛く、どれだけ悲しくても、向き合わなければならない現実はある。

 時間は僕たちの悲しみなどお構いなしに、ただ無情にも流れ続け、決して止まってはくれない。それがこの世界の、そしておそらくはどんな世界においても共通の、残酷な掟なのだろう。

 

 ベルガーさんが帰る間際に、本当に言いづらそうに、苦渋の表情で告げた言葉も忘れてはならない。

 コンスタンツェ家の騎士爵位は父一代限りのものであって、当代である父さんが亡くなった時点で、その爵位は廃され、領主様へ返上されるのだと。

 当然、爵位と共に、父さんが必死に守ってきたこの小さな領地も、遠からず召し上げられることになる。

 父さんへの騎士としての俸給も、今月分をもって打ち切られるそうだ。

 僕たちの生活を支えていた屋台骨が、突然、大きな音を立てて崩れ落ちていくのが、はっきりと分かった。


 ──父さんは、何も遊んでいた訳じゃない。そうだろう?

 与えられた責務として、領地に住む人々を守るために戦って、そして命を落としたんだぞ? その報いがこれなのか? 父さんが十数年かけて築き上げ、守り抜いてきたものを、なぜ、そんなにも簡単に、取り上げることができるんだ。

 ふざけるなよ。馬鹿にしやがって。

 

『僕も、父さんみたいな強くて立派な騎士になる!』

 父の背中を追いかけて、そう無邪気に夢を語った日のことを思い出す。それを聞いた時の父さんの、あの誇らしげで嬉しそうな顔を、忘れる訳がない。

 ……でもね、父さん。申し訳ないけれど、今の僕にはもう、騎士になりたいなんて気持ちは、これっぽっちも残ってないんだ。

 命懸けで尽くした父さんへの仕打ちがこれなのか?

 父さんには本当に申し訳ないけれど、領主への恩義なんて感情は、もう綺麗さっぱり消し飛んでしまった。長年仕えた相手なのに……ごめん。

 逆に、恨みさえ抱いてしまいそうだよ……。父さんは許してくれるかな?


 敬愛する父を失った深い悲しみと、追い打ちをかけるような理不尽な現実への怒り。まるで奈落の底へ突き落とされたような、出口のない苦しみに喘ぐ僕たち家族へ、この非情な世界は、悲しみに暮れる時間すら十分に与えてはくれない。

 社会の無情さが、容赦なく追い打ちをかける。

 慟哭したい気持ちを、僕はただ、奥歯を噛み締めて耐えるしかなかった。

 

 その夜。きっと、悲しみと不安で眠れないだろう僕のことを、心配してくれたのだろう。アンリエッタさんが、夜半、音もなくそっと僕の寝台にもぐり込んできて、朝が来るまでずっと、ただ黙って、優しく抱きしめてくれたんだ。


 もしこれが、いつもの。

 少し前の僕だったなら……。

 きっと不謹慎にも、この状況に大興奮していたに違いない。

 彼女の純粋な優しさと思いやりからくるこの温かい行為を、抑えきれない浅ましい欲望のままに、踏みにじってしまっていたかもしれない。若さとは、時にそういう愚かな一面も併せ持つのだから。

 それに何より僕はずっと、彼女にこうして触れたいと、焦がれるように願い続けてきたのだから。

 でも、その夜は、そんな気分には到底なれなかった……。

 

 ただただ、こんな辛い時まで僕を思い遣ってくれるアンリエッタさんの、その深い優しさが、粉々に壊れそうな心をかろうじて支えてくれる、唯一の光のように感じられたんだ。

 彼女の柔らかな温もりと、すぐ傍で聞こえる規則正しい心音だけが、この暗く冷たい世界で、僕にひと時の安らぎを与えてくれる……。


 父の訃報を聞いた、その翌々日のこと。

 まだ家全体が深い悲しみに包まれている中、再び我が家に、今度も全く予期せぬ来客が訪れた。

 今度は扉を叩く、最低限の礼儀すらなく。無遠慮に玄関の扉が開け放たれる。

「失礼するぞ」

 低く、威圧的な声と共に、見知らぬ男たちがぞろぞろと家の中に入って来た。なんだ、この失礼極まりない奴らは?

 

「坊主、おふくろさんはいるか?」

 その中でもリーダー格らしい目の据わった男が、僕を値踏みするかのように見下ろして言った。

「誰が坊主だ。お前こそ、どこの誰なんだ」

 込み上げる怒りを抑え、僕は冷たく問い返す。

「おっと、こいつはいけねえな、名乗りがまだだった。俺は商人ギルドから来た、ロルフって(もん)だ」

「商人ギルド……? それが、一体何の用だ」

「まあ、細かい話は後だ。いそぎ、お袋さんを呼んで来てくれねえか?」

 ロルフと名乗る男はそう言い放つと、ジロリ、と粘つくような視線を、僕の後ろに控えていたアンリエッタさんへと露骨に移す。その視線に、アンリエッタさんの肩がびくりと震えたのを、僕は見逃さない。

 彼女が、明らかに不安そうに怯えている。

 何かがおかしい。

 

 父さんの時と同じ。再び、胸を突き上げるような、とてつもなく嫌な予感がした。僕は急いで母さんを呼びに階上へと駆け上がり、事態を手短に伝えると、母さんが部屋から出てくるのを待つことなく、走って階下へと戻った。


 何かがあった訳ではない。

 けれど、僕の直感が、けたたましい警鐘を鳴らしている。

 僕は本能に従うように、居間で、我が物顔で椅子に腰かけているロルフと名乗る男と、その背後に立つ手下の男たちの前に、アンリエッタさんを守るように立ちはだかった。

 

「アドリアン・コンスタンツェ様の奥方で、間違いありませんかな?」

 ややあって、やつれながらも気丈に階下へ降りてきた母さんに対して、男が確認するように尋ねる。

「はい、妻のエミリーです。間違いありませんが、いったい何の御用でしょう?」

 母さんは懸命に、父さんの妻としての役割を果たそうとしている。

 本当は、誰よりも辛いはずなのに……。

「主人はもう、この世にはおりませんが……」

 母さんの目から堪えきれなくなった涙が、はらはらと溢れ出す。


「いや、なに、ご主人がお亡くなりになられたことは、我々も聞き及んでおります」

 この男は、母の涙にも全く動じる様子もなく、淡々とした口調で語る。

「──本日は他でもございません。こちらの家に長年勤めておられる、其処(そこ)のハーフエルフのメイドについて伺ったまで」

 な……? なんだって?

 

「ご主人とは、彼女の雇用について、毎年、契約を更新をしておりましてね。今回、ご主人がお亡くなりになった。とギルドの方にも連絡が入ったものですから、契約に基づき、彼女の身柄を我々ギルドが『引き上げ』させてもらいにきた、という訳ですわ」

「な……!」

 アンリエッタさんを、引き上げる、だと?

 雇用計画に基づいて?

 

「これが、その契約書の写しです。お読みになれば、お分かりかと存じますがね」

 男が懐から取り出した契約書を、母さんへ無造作に差し出す。

「年あたり金貨四枚という契約金を、コンスタンツェ家から前払いでお預かりする代わりに、当ギルドから使用人をお貸ししていた。ということですな」

「……彼女は、わたくしどもにとっては、もう家族も同然なのです。なんとか、このまま家に置いておくことはできませんか」

 母さんが、必死に、(すが)るように訴える。

 僕の気持ちを代弁するかのように……。母さん……。

 

「ふむ、お気持ちはわかりますがね、奥様。ですが、雇い主であるアドリアン様がお亡くなりになった場合、彼女の『所有権は』は、直ちに我々商人ギルドへと返還される。そういう契約になってるんですわ」

「そこを、何とかお願いできませんか?」

「いやはや、我々も非常なようですが、商売でございますからね。早いところ、次の雇い主を探さないといけませんので。申し訳ないが、契約通りきっちり履行させてもらいますぜ」


 父さんに続いて彼女まで、失えと?

 そんなことっ、黙って受け入れる訳ないだろ!

「おい、行くぞハーフエルフ。こっちは次の仕事に向かいたいんだ。いい加減聞き分けろ」

 男の背後にいた手下の一人が、アンリエッタさんに乱暴に声をかけ、有無を言わさずその細い腕を掴んで、無理やり引き立てようとする。

「いやぁ……っ」

 初めて聞いた。アンリエッタさんのか細く、小さな悲鳴。

 動こうとしないアンリエッタさんの腕を、男たちが力ずくで引こうとする。その光景と彼女の小さな悲鳴に、僕の頭の中で何かがブツリと、決定的に切れる音がした。怒りで、目の前が真っ赤に染まる。

 僕は玄関へと先回りし、彼らの前に立ちはだかる。


「──やめろ! アンリエッタさんに指一本触れるな! もし、この僕から彼女を奪うというのなら──その時は殺す」

 僕は、父さんの形見である長剣を鞘から抜き放ち、その切っ先を真っすぐに男たちへ向けて、正眼に構えた。

「冗談ではないぞ? 生きて、この家から帰れると思うなよ?」

 いまだかつて、人を殺すどころか、人に刃物さえ向けたことがない。

 けれど、彼女は、アンリエッタさんは、僕の全て。この世界で僕が生きる理由そのものなのだから。

 もう、これ以上僕から奪うな!

 どうしても奪うというなら、僕はやる。これが、僕の覚悟だ。


「おいおい、穏やかじゃねえなぁ、坊主。血の気が多いのは若さの特権だが、少しは頭を冷やせ。いいか? よく聞けよ。これは『契約』だ。ギルドと、お前の親父が交わした正式な約束なんだよ。お前さんが、その剣を怒りに任せて振るうというなら、その瞬間、お前さんは凶悪な『犯罪者』に身を堕とすことになる。それでもいいのか?」

 憎き男が、僕から彼女を奪おうとするお前が、何を言うのか。

 奴はせせら笑うように、しかし冷静に、冷酷な現実を突き付けてくる。

 

「彼女を守れるなら、それでも構わない」

 殺意を込めた、低く押し殺した声で答えると、背後からアンリエッタさんの悲痛な声が聞こえた。

「ぼっちゃま、お()めください。その剣を、どうか……下ろしてください……。この方の仰ることは、全て本当、なのですから……」

「アンリエッタ、さん?」

「……(わたくし)が、私が愚かだったのです。もっと早く、お話ししておくべきでした」

 愛おしい彼女の口から、僕が今まで知らなかった彼女の悲しい過去が、途切れ途切れの嗚咽と共に、語られ始めた。


「エルフの里を追い出されたハーフエルフの(わたくし)に、行くあてなど、この広い世界のどこにもありませんでした。日々の食べる物もなく、雨風をしのぐ場所もなく、次第に痩せ細り……。道行く人々からは忌み子だと蔑まれ、石を投げつけられる……。もう、このまま誰にも顧みられず、飢えて死ぬしかないのだと、それも仕方がないことなのだと。諦めて、ただ道端の泥水の中に(うずくま)って、死が訪れるのを待つだけの日々でした。……そんな、ある日のことでした。商人ギルドの方が偶然通りかかり、哀れな(わたくし)を見つけて、拾ってくださったのです」


「ふん……坊主、聞いただろ? 食う物もなく、今にも野垂れ死にしそうだった、汚ねえガキだったそいつに、温かい飯や寝床を与え、こうして人らしい生活ができるようにしてやったんだぞ? 逆に感謝してもらいてえくらいだわ。その代わりこうして働けるようになったら、その給金の一部は、育ててやった恩返しとして俺たちギルドが受け取る。そういう『約束』なんだよ」

 男が、さも当然とばかりに、恩着せがましく言い放つ。

 

「けれどッ!」

「けれども、へちまもあるか! これは正統な『契約』だ! 拘束力のある『約束』なんだよ、わかるか!? クソガキがどれだけギャンギャン泣き喚いて騒いだところで、何も変わりゃしねえんだよ! 分かったらとっととどけ、邪魔だ!」

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