休日(1)
* * * * *
「明日は出かけませんか?」
そう言うと、暖炉の前で寝転がっていたユイがパッと起き上がった。
ユイは基本的に自ら外出をしたがらない。
出かけるのが嫌いというわけではないだろう。
だが、自分で「出かけたい」と言うこともない。
それをヴァランティーヌに話したところ、もしかしたら初めて行く場所が怖いのかもしれない、と言われた。
セレストにとっては住み慣れたこの街でも、ユイにとってはどこも初めてだ。
「なんだい、セレスト、アンタまだユイに街を案内してあげてなかったのかい?」
と、ヴァランティーヌに呆れられた。
「ユイが出かけたがるようならと思っていたのですが、ユイも何も言わないので……」
「あの子は物静かな子だからね。でもそのうち自分一人で買い物をしたい時も出てくるだろうし、今のうちから街の色々なところに連れてってあげないと困るのはあの子だよ」
そう言われて、なるほどと納得した。
セレストだって子供の頃は、初めて行く場所を不安に思うことがあった。
ユイもそうなのかもしれないと思えば不思議はない。
これまで休みの日は共にいたが、殆どは用事がなければのんびりと家で過ごしていた。
ユイも何も言わなかったので気付かなかった。
しかし、今のユイを見れば分かる。
外出が嫌なのではない。
紅茶色の瞳が輝いている。
「おでか、け?」
ユイの問いかけにセレストは頷いた。
「ええ、そうです。特にどこへ行くかは決めていませんが、まずは家の周りを散策してみませんか?」
「いいの?」
「もちろん。ですが一人で勝手に出歩くのはダメですよ? もし出かけたい時は私かセリーヌに声をかけてください」
ユイが何度も頷いた。
元より頭の良い子なので、どうしてダメなのかは自分でも分かっているのだろう。
ユイが目尻を下げた。
「たの、しみ」
そういうことで、翌日はユイと二人で出かけることになった。
相当楽しみだったようで、朝、起こしに行くと、ユイはすぐに目を覚ました。
顔を洗って、身支度を整えて、朝食を食べる。
セリーヌが来て、今日は出かけるので昼食はいらないことを告げれば、嬉しそうに微笑んで「お出かけを楽しんできてくださいませ」と言った。
ユイがそれに大きく頷いて、思わず和んでしまった。
少しゆっくりして、店などが開く三つ目の鐘の鳴る頃にユイと共に家を出た。
今日は歩いて行ける範囲を案内する予定だ。
「まずは本屋に行きましょうか」
ユイは本が好きだから。
思った通り、ユイの目が更に輝いた。
なかなか表情の変わらない子だけれど、目を見れば分かりやすいくらいに感情が伝わってくる。
「ほんや、いく」
非常に決意に満ちた声にセレストは笑ってしまう。
「ええ、欲しい本があればいくつか買いましょう。私も新しい本が欲しかったところなんです」
「わたし、も、ほん、ほしい」
ユイがこんな風に何かを欲しがるのはそうない。
セレストは手を繋いで歩きながら頷いた。
「ユイはどんな本が好きですか?」
一応、ユイの部屋には数冊本があるけれど、今現在彼女がよく読んでいるのは十三歳の誕生日にセレストが贈った本だ。
色々な種族について書かれたもので、何度も繰り返し読み返しているようだ。
そのうち、セレストよりもユイのほうが色々な種族について詳しくなるかもしれない。
「……じしょ?」
「ユイ、それは勉強に必要な本では?」
「うん、でも、じしょ、すき。いろいろ、かいて、ある。すごい。おもしろい」
「そうなんですね」
そうしてユイは勤勉家だ。
いや、好奇心が旺盛なのだろう。
知らないことを知るのが楽しいと以前話していたが、それは本心らしい。
辞書は本の中では高価な分類のものだ。
だが、金を払うだけの価値はある。
「ユイの気に入る本を見つけましょうか」
ユイが頷いた。
「セレスト、さん、のほん、も、さがす」
「そうですね」
のんびりと話しながら歩くのも悪くない。
いつもは馬車に揺られている間に話すことが多いけれど、こうして、二人で並んで街を眺めながら話をするのも穏やかで心地好い。
「セレスト、さん、どんな、ほん、すき?」
ユイに問われて考える。
「好きな本ですか。……よく読むのは歴史書ですね。色々な国の成り立ちが書かれているのですが、ああいうものは書き手によって見方が違っていて面白いんですよ」
「ちがう、の?」
「はい、同じ歴史的な事件でも、歴史家によってはそれを良いものと見ることもありますし、悪いものと判断することもあります。ですから、何冊も読むことでその歴史的な事件を色々な方面から歴史家の目を通じて見ることが出来るのですよ」
うんうん、とユイが納得した風に頷く。
「そっか、みんな、おなじ、ものみる。でも、かんがえる、ちがう。れきし、しょ、それが、くらべ、られる?」
「ええ、そういうことです」
うーん、と考えるユイにセレストは微笑んだ。
どちらかと言えば、ユイは『これはこういうもの』と決められたものを知ることが好きだ。
辞書というのはその最たるもので、物事について、はっきりと基準が書かれている。
きっと、そういうもののほうがユイには分かりやすくて良いのだろう。
「れきし、しょ、むずかし?」
ユイに訊かれて考える。
「難しいですね。使われている言葉も難しいものが多いですが、曖昧な言い回しを好む歴史家もいて、それを読む時は『結局この歴史家は何を言いたいのか』と悩むこともあります」
セレストが少し肩を竦めると、ユイのほうから、くふ、と笑う声がしてハッとした。
見れば、ユイが口元に手を当てて笑っている。
声はそれ以上出なかったものの、確かに、おかしそうに笑っていた。
ユイがこんなに笑う姿は初めて見た。
「そ、なんだ?」
笑顔で見上げてくるユイにセレストも笑う。
「そうなんです、だから歴史書は難しいんですよ」
その笑顔が見られただけで、今日出かけた甲斐があったというものだ。
そうして話しているうちに目的地に到着した。
あまり大きくはないが、こう見えても多種多様な本を扱っている店で、今の家に越してからずっとこの店にセレストは通っている。
……まあ、通うと言っても月に数回あるかどうかという程度だが。
扉を開ければ、聞き慣れたベルのカラン、という音が響く。
「いらっしゃい」
店主の声がする。
ここの店主はドワーフだ。
ドワーフが本屋というのも珍しいが、この店主とは百年近い付き合いである。
セレストを見ると「お」と小さく声を上げた。
「よう、最近見ないと思ってたが、どうしたんだ?」
問われて、セレストは横に体を退けた。
「すみません、番を見つけまして、それで少々バタバタしていました」
「番?!」
店主がガバッと立ち上がった。
そうして、ユイを見て、セレストを見て、店主はワハハと笑い出した。
「そうかそうか、お前さん、番が見つかったのか! それじゃあ来れないのも無理はないな!!」
それから店主がこちらを見る。
「今日も本、買ってくんだろう?」
「ええ、そのつもりです」
「じゃあちぃっとばかし安くしといてやるよ。祝いにしては足りないかもしれないが」
それにセレストは驚いた。
「良いのですか?」
本はそれ自体が安いものではない。
「ああ、どうせいつもと同じくらい買うんだろう?」
店主の言葉にセレストは頷いた。
「ええ、この子の本も買うのでむしろ普段よりも多く買うと思います」
「それなら安くしたって問題ないな」
店主が腰を屈め、ガサゴソと脇の棚を漁ると体を起こした。
「ほれ、これを嬢ちゃんに」
差し出されたそれを受け取った。
いつも本を購入するとくれる木製の栞だ。
この店主が店番をしながら暇な時間に作っているもので、花だったり動物だったり、どれもが一点物だ。
毎回必ず本を購入するわけではないが、それでも、セレストも結構な数を持っている。
見上げてくるユイに栞を渡す。
今回の栞は蝶々が彫られていた。
それを受け取ったユイが両手で栞を持ち、まじまじと見て「ちょうちょ……」と呟いた。
紅茶色の目がキラキラ輝いている。
「本に挟む栞ですよ。どこまで読んだか分からなくなると困る時に使うんです」
そういえば、ユイに栞をあげたことがない。
……ユイはどうしていたのだろう?
ずっと栞がなくて不便だったのではないだろうか。
「ちょうちょ、きれい。ありが、とう、ござい、ます」
そんなことを考えている横で、ユイが店主にペコリと頭を下げて礼を言った。
それに店主が小さく手を振った。
「いいって、本を買ったら渡してるものだしな。今日は初めてこの店に来た記念ってことで、使ってやってくれよ」
「はい、たくさん、つかい、ます」
ユイが大事そうに栞を持っている。
「良かったですね」
声をかければユイが頷き、肩に斜めがけしていた鞄にきちんと仕舞う。
「まあ、ゆっくり見てってくれよ」
「どうせ客も少ないしな」と笑う店主に苦笑する。
それでもこうして店を続けられるということは、それなりに繁盛しているのだろう。
ユイが小さく頷いた。
見上げてくるユイにセレストも頷いた。
「店から出なければ好きに見ていいですよ。高いところの本は私が取りますから、声をかけてくださいね」
「うん」
キラキラした目が本に向かう。
第二警備隊の蔵書室で本を読むこともあったけれど、やはり、自分の本を選ぶのは楽しみが違う。
足取り軽く本棚に近付いていくユイの後ろを、セレストもゆっくりと歩きながら本を眺める。
……相変わらず雑多な店だ。
店主の性格を表したように、本は何の規則性もなく並べられている。
歴史書があると思えば絵本が横にあったり、辞書があるかと思えば恋愛小説が並んでいたり、分類ごとに分けられていない。
でも、だからこそこの店は面白い。
雑多な中から題名を頼りに好きなものを探し当てるのは、宝探しのようで心が躍る。
ユイも早速その楽しさに気付いたらしい。
本棚の前に立ち止まってジッと並べられた本の題名を紅茶色の目が追いかけている。
セレストもその横に立って、目の前の本棚をザッと流し見し、気になった本に手を伸ばす。
本の最初の数ページを読んでみて、気に入らなければ戻し、気に入ったものは手に持つ。
………………。
本屋の中は静かだ。
数冊ほど目を通したところで服の裾を引っ張られる感覚がして、我へ返る。
見れば、ユイが服の裾を掴んでいた。
「セレスト、さん、あれ、とって?」
棚の一番上段を指差され、持っていた本を脇へ置く。
「どれですか?」
「『まぞく、たいぜん』」
「ああ、これですね」
魔族大全と書かれた分厚い本を引き抜く。
……結構な重さと厚みだ。
ずっしりと重い本をユイへ差し出した。
「かなり重いので気を付けてくださいね」
「うん」
ユイがそっと本を掴んだので、持ち上げるまで支えてやる。
しっかりと本を持ったことを確認してから手を離した。
ユイが本棚の下段の前に突き出した棚の部分に本を置き、そこで最初の数ページを読み始める。
この重さの本はセレストでも手に持って読むのは少々疲れそうなので良い選択だ。
しばらく見ていたが本から顔を上げないので、恐らく気に入ったのだろう。
セレストも自分の本選びに戻った。
それからセレストもユイも、無言で本探しに熱中した。どちらも本が好きなので無言でも苦痛ではない。
時折、ユイがセレストに高いところの本を取って欲しいと頼み、セレストは取ったり戻したりしたが、ユイは本当に辞書が好きだった。
選んだ本はどれも辞書ばかりだ。
中には普通の辞書もあって、本人なりに言葉の勉強もしっかりしたいと考えているようだ。
気付けば、午前中いっぱいを本屋で過ごしてしまっていた。
「おい、お前さんら、もうすぐ四つ目の鐘が鳴るぞ」
と、店主に声をかけられて顔を上げた。
ユイも顔を上げて目を丸くしていた。
いつも思うが、本屋に来ると時間の進み方が異様に早い気がする。
「ああ、長居してしまいましたね」
ユイを見れば数冊の本を抱えている。
二冊は分厚く、残りの一冊はやや薄い。
「その本を買いますか?」
「かう」
ユイから本を受け取り、自分の分と合わせて店主のところへ持って行く。
店主は本の値段を計算して、セレストが代金を支払った。
「どうする? 持って行くか?」
「いえ、荷物になりますので家のほうにお願いします。まだこの後も動きますので」
「分かった」
結構な重さになるので家に送ってもらうほうが荷物を増やさずに済む。
「また二人で来てくれよ」
という声に見送られて本屋を後にする。
ユイと手を繋ぎながら、また少し歩く。
「お昼にしましょうか」
「うん、おなか、すいた」
ずっと立ちっぱなしでユイも疲れただろう。
前によく行っていた店へ向かう。
日当たりの良い喫茶店で、こじんまりとしているけれど、意外と品数が多くて美味しい店だ。
それにきっとユイは外観を気に入るだろう。
その店にユイを連れて行くと、ユイが店を見て「かわいい」と言った。
水色の壁に白い枠と窓、屋根をした外観で、窓は上部が丸く、色とりどりの花が窓辺に飾ってある。外の飲食スペースに置かれたテーブルと椅子も丸みを帯びており、全体的に可愛らしい店だ。
最初はこの可愛らしい外観に少し抵抗感があったけれど、ここの食事は美味しいし、見た目も綺麗なのでユイも喜びそうだ。
扉を開ければチリンと涼やかな音がする。
「いらっしゃいませ〜、何名様でしょうか?」
「二名です」
「中と外とどちらでお食事されますか?」
ユイを見れば「なか、で」と言うので、中で食べることを伝えると、窓際の景色の良い席に案内してくれた。
窓からは外の飲食スペース越しに外の道の様子が眺められる。
「そうだ、ユイ、化粧直しは大丈夫ですか?」
「? ……あ、いく」
最初は首を傾げたユイだったが、言葉の意味をすぐに理解すると頷いた。
すぐそばなので場所を指差せばユイは一人で向かって行った。
セレストは出入り口の見えるほうに腰を下ろす。
ふう、と小さく息を吐いた。
小さな文字をずっと追いかけていたので目が少し疲れたが、心地の良い疲れである。
……さて、この後はどこに行こうか。
あまり歩くとユイは疲れてしまうだろう。




