小さな事務員(2)
ディシーの問いに答える。
「むずか、しく、ない、よ。けい、さん、た、く、さん、やる。けい、さん、きも、ある、から、はやく、でき、る」
「そっか〜、私は計算苦手だから事務員の仕事は向かないだろうなあ」
ディシーの働き始めた受付は来客対応が主なので、計算とかはあまり必要ないらしい。
人と話すことが好きなディシーに合った仕事だ。
ただ第二警備隊の各部署と場所について覚えないといけないそうで、それが大変なのだとか。
それに苦情を言いに来る人への対応も。
ディシーはまだ先輩にくっついているだけなので来客対応はしていないそうだが、でも、先輩達の様子をそばで見ている。
本当にラクな仕事なんてそうないだろう。
どの仕事でも大変なことはある。
それでもディシーは受付を辞めるつもりはないそうだ。
「わ、たし、らい、きゃく、たい、お、にがて、だ、から、わた、し、は、うけつ、け、むずか、しい」
それに言葉が途切れ途切れだから。
ディシーが「そうかもね〜」と頬杖をつく。
「受付は笑顔が大事って先輩に言われるし、ユイにはあんまり向かないかも」
「むき、ふ、むき、ある」
「うん、私には私の、ユイにはユイの得意があるもんね」
ディシーもわたしも得意なことを仕事にすればいい。
そんな話をしているとセレストさんとヴァランティーヌさんが食事を持って来てくれた。
「ユイ、事務方で活躍してるらしいね?」
ヴァランティーヌさんが座りながら訊いてくる。
「かつ、やく、わから、ない。でも、しご、と、がん、ばって、ます」
「新人見習いの倍は働いているそうです」
セレストさんの言葉にヴァランティーヌさんが、ははは、と笑った。
「そうかい、それなら事務方にユイを勧めたアタシも鼻が高いねえ」
「あり、が、とう、ござい、ます」
「でも無理はするんじゃないよ?」
ヴァランティーヌさんに頷き返す。
初仕事は大事だけど、勉強と一緒だ。
最初に無理すると、その後もずっと無理し続けることになるから、いつでも自分が出来る範囲で努力するだけだ。
セレストさんがわたしの食事の横に袋を置いた。
ほんのり甘い匂いがする。
「食事の後に食べてくださいね」
うん、と頷いて食事を始める。
しっかり食べて午後も頑張ろう。
* * * * *
昼食を食べ終えて、セレストさんに第四事務室まで送ってもらう。
食事もしっかり食べたし、クッキーも食べた。
お腹いっぱいでやる気も充分だ。
午後の始業時間まではまだ少し時間がある。
自分の席に着いて、書類を一枚手に取って読む。
……あ、文字間違えてる。
インク瓶のフタを開けてペンを手に取る。
ペン先にインクをつけたら、間違っている文字に二重線を引いて正しい文字を書く。
よくよく読むとこの書類は誤字脱字が沢山ある。
気付いてしまうと放っておけなくて、いくつも修正を入れているうちに他の事務員達も戻ってくる。
アンナさんも、席に着いている私を見て、おや、という顔をした。
「もう仕事をしているんですか?」
わたしの手元を覗き込んで、そして苦笑した。
「あら、これはきっと新人が書いたのね」
どうやら慣れていない人が作った書類らしい。
新人は読み書きが出来ずに警備隊に入り、その後から文字を勉強することが多いため、最初は書類を作っても不備が多いのだとか。
……と、言うことは。
試しに書かれている数字を計算機で確認する。
………………全然数字が違う……。
ノートでもう一度書いて確認してみたが、やっぱり答えは書かれている数字と異なっていた。
「ユイちゃん」
アンナさんに呼ばれて顔を上げる。
「その計算の仕方、教えてちょうだい!」
首を傾げるとノートを指差された。
「これ、この計算のやり方を知りたいのっ」
……別に教えるのはいいけど……。
頷くと、アンナさんが振り返った。
「みんな、ちょっとこっち来て! 凄くいい計算のやり方があるわ!」
アンナさんの言葉に他の事務員達がわらわらとわたしの机の周りに寄ってきたのでビックリした。
アンナさんがズイッと顔を寄せてくる。
「ユイちゃん、お願いします」
それにちょっと圧を感じながら頷いた。
今持っている書類の計算を、もう一度、ノートに書きながら説明した。
計算の仕方は単純だ。
足したい数字同士を上下に書いて、左に記号を書き、上と下の数字を一の位から足していく。
数字が繰り上がる時には左隣の上に小さく印をつけて、次の計算の時にそれを足す。
答えが出たら、そのまま次の数字を下に書いて、更に足してを繰り返していくだけだ。
前世では小学二年生で習う計算のやり方だけど、この世界にはそういう計算の仕方はないらしい。
たとえば『1足す1』ならば『1+1』という横書きの計算式を書き、そこに答えを書くだけで、縦書きの計算方法はないらしい。
横書きの計算を書き、その上に答えを書き、隣の数字をそこに足してまた答えを書いてという方法を使っていたそうだ。
表は縦書きなのに何故そういう計算方法がなかったのか不思議だ。
「これなら途中の計算も分かりやすくていいですね。計算中に最初の数字を忘れてしまってやり直すということもなくなります」
アンナさんがそう喜んでいた。
他の事務員達からも好評で、これからはこの計算方法を使っていこうということになった。
何やら新しい計算方法に興奮してる人もいて、事務員というのもなかなかに癖のある人が多そうだと感じた。
でも始業の鐘が鳴ると全員素早く席に戻っていった。
「ユイちゃん、午後もよろしくお願いします」
アンナさんの言葉に頷いた。
「はぃ、ごご、も、よろし、く、お、ねが、い、しま、す」
……午後も沢山計算するぞ。
* * * * *
終業の鐘の音にふっと顔を上げる。
……もう終わりの時間?
時計を見上げれば、もう午後の五時を過ぎている。
休憩時間なんて忘れてしまっていた。
そういえばセレストさんが来なかったな、と思っているとアンナさんが立ち上がって手を叩く。
「みんな、もう終業時間よ!」
それに他の事務員達も顔を上げた。
わたしもインク瓶のフタをして、ペン先を拭って、本やメモ帳を鞄に仕舞っていると周りの人達に声をかけられた。
新しい計算方法についてのお礼だった。
あの計算方法を使ったらいつもより簡単に計算が出来ただとか、早く仕事が進められたとか、喜んでくれていて良かったけれど、わたしが生み出した計算方法ではないのでちょっと罪悪感も湧く。
初めに計算方法を編み出した人に心の中でありがとうございます、とお礼を告げつつ、返事をしていく。
ワイワイと騒がしい中、部屋の扉を叩く音が響く。
「失礼します、ユイを迎えに来ました」
そして事務員に囲まれている私を見て、セレストさんがキョトンと目を瞬かせた。
「すみません、まだ仕事中ですか?」
眉を下げたセレストさんにアンナさんが首を振った。
「ああ、いえ、もう仕事は終わっています。昼休憩中にユイちゃんから新しい計算方法を教えてもらいまして、皆で大絶賛していたところです」
「そうなのですか?」
「ええ、仕事も早くて正確で、真面目で、仕事熱心で、ユイちゃんがうちに来てくれて本当に助かります」
アンナさんに両手放しで褒められて照れる。
セレストさんが嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしょう、ユイは勤勉家で凄いんです」
と、頷いた。
……うう、なんか恥ずかしい。
鞄を肩にかけて椅子から立ち上がり、事務員の合間を縫ってセレストさんのところへ駆け寄った。
手を掴めばセレストさんがわたしを見る。
「かえ、ろ?」
セレストさんが目を細めて頷いた。
「そうですね、ユイも疲れたでしょう」
セレストさんが「それでは今日はこれで失礼します」とみんなに声をかける。
わたしも声をかけた。
「しつ、れぃ、し、ます。また、あした、も、よ、ろし、く、おねが、い、し、ます」
小さく手を振れば、みんなが返してくれた。
セレストさんと手を繋いで廊下へ出る。
正面玄関へ向かう道すがら、セレストさんが訊いてくる。
「仕事初日でしたが、どうでしたか? 嫌なことはありませんでしたか? 仕事がつらくはないですか?」
心配の滲む声にわたしは歩きながら首を振る。
「ない、です。しご、と、たの、しい」
救護室から届けられる書類の山を読むのは思ったよりも楽しかった。
どんなものが使われているのか、どんな薬があるのか、誰がそれを使ったのか。
時折、書類の中にセレストさんの名前があった。
セレストさんの作った書類は綺麗な文字だった。
セレストさんらしい文字だな、と思った。
書類は作る人によって文字が違うため、読み難いものもあれば、解読しなければいけないような悪筆の人もいて、同じ文字なのに人それぞれである。
「そうですか。……良かった」
セレストさんがホッとした様子で言う。
その心配が少しくすぐったい。
「ユイが楽しいことが一番大事です」
正面玄関に着くと、受付の中にディシーがいて、手を振られた。
どうやらディシーはまだ仕事が長引いているらしい。
わたしも振り返して声に出さずに、お疲れさま、と口パクをすれば、ディシーがニッと笑う。
伝わったようだ。
「ディシーも働き者ですね」
先輩受付嬢にくっついて奥へ消えていくディシーをセレストさんと一緒に眺める。
ディシーも仕事を始めてからは会う時間が減ってしまったけれど、いつ見ても楽しそうな笑顔を浮かべていて安心した。
仕事というのは楽しいことばかりではない。
きっと嫌なことだって沢山出てくる。
特に色々な人と会って話す受付の仕事は、そういうことも多いだろう。
それでも毎日ディシーが笑顔でいるのを見ると、ああ、本当にここに来られて良かったなと思うのだ。
「セレ、スト、さん、も、はたら、き、もの」
セレストさんだって毎日頑張って働いている。
「ヴァラ、ン、ティー、ヌ、さん、も、みん、な、も、はたら、き、もの」
ふふふ、とセレストさんが微笑んだ。
「そうかもしれませんね。でも、これからはその中にユイも入るのですよ」
セレストさんに手を引かれて第二警備隊を後にする。
人気の多い道を二人で歩いて駅へ行く。
……そっか、わたしもみんなの仲間入り、するんだ。
第二警備隊という大きな組織の一部になるのだ。
前世でも、今生でも、初めての経験だ。
今日の仕事は計算ばっかりだったけど、いつか、もっと難しい仕事を任せてもらえる日が来るかもしれない。
それを目指してもっともっと頑張ろう。
「さあ、今日はちょっと急いで帰りましょうか」
「?」
……何か急いで帰る用事があったっけ?
首を傾げれば、セレストさんが目を細めて笑った。
「ユイの初仕事の日なので、夕食はいつもより少し豪華なものにするようセリーヌに頼んでおいたんです。ケーキも焼いてもらっていますよ」
「けー、き」
「はい、ユイの大好きなケーキです」
それはまっすぐに帰らないと。
自然と足取りが軽くなる。
セレストさんが笑いながら、わたしに合わせて歩調を少し早くする。
駅に着いて馬車を待った。
「けー、き、ふれー、ず、ある?」
甘酸っぱくて美味しいイチゴ。
あれをクリームたっぷりのケーキと一緒に食べると、とても美味しいので好きだ。
果物の中ではレザンが一番好きなのだけど、ケーキに乗っているフレーズは別だ。
「ええ、ありますよ。セリーヌが朝から良いフレーズを選んでくると張り切っていました。ユイはフレーズを使ったケーキが好きですか?」
「すき」
セレストさんが頷いた。
「少し時期は過ぎてしまっていますが、最近は季節が違っても果物や野菜を育てる方法が考案されたので、いつでも好きなものが食べられて、良い時代になりました」
なんだかお年寄りみたいなことを言う。
……まあ、竜人は長生きだからセレストさんだって外見年齢以上には生きている。
自然と言動もそういう風になるのかもしれない。
「いつ、から、そ、な、った?」
「そうですね、三十年ほど前でしょうか? 魔法で結界を張って、その中で果物や野菜を育てると気温などを一定に保てるので、冬でも夏の野菜を採れたり、春でも秋の果物がなったり、おかげで毎日の食事の幅が広がりました」
……魔法の結界って、前世で言うハウス栽培みたいな感じなのかな?
それなら季節が違うものでも育てられそうだ。
でも魔法を使える人や、代わりに魔法を発動してくれる魔道具なんかが必要になって、結構大変そうだ。
「さい、しょ、に、はつ、め、した、ひと、すごぃ」
セレストさんが頷く。
「ええ、そうですね。発案した人のおかげで私達の生活は豊かになりました」
「でも、」とセレストさんがこちらを見た。
「きっと、今日他の事務員達に計算の仕方を教えたユイも、その人達と同じなのだと思いますよ」
その言葉に大袈裟だなと思いながらも、だけど、誰かの役に立てたのなら嬉しい。
……わたしが発案したわけじゃないけどね。
そこにはちょっと罪悪感が湧く。
「それ、は、いい、すぎ、です」
セレストさんは黙って微笑んでいた。




