初めての朝
翌日、優しく肩を叩かれる感覚で目を覚ました。
目を開ければセレストさんがわたしを覗き込んでいて、まだ薄暗い部屋の中を、ライトの魔法が照らしている。
セレストさんは既に髪も纏めており、身支度が整えられて、いつでも出かけられる様子である。
「おはようございます、ユイ」
その声からの眠そうな気配はない。
「ぉ、はよ、ござ、ぃ、ます」
上半身を起こせばセレストさんが身を引いた。
そうしてセレストさんが足元に何かを置く。
「これは部屋履きです。家の中で少しだけ移動したい時に履いてください。これで外に出てはダメですよ」
そう言って置かれたのはスリッパだった。
頷いて、それを履いてベッドから下りる。
促されて部屋を出ると、向かいにある扉を潜って、浴室へ向かう。
浴室には洗面台もあるため、そこで顔を洗う。
寒いからぬるま湯で洗うとセレストさんがタオルを渡してくれたので、ありがたく使わせてもらう。
「すみません、昨夜は伝え忘れておりましたが、顔を洗った後はこちらをつけてください」
セレストさんに差し出された瓶を受け取った。
瓶は可愛らしいピンク色で、中身を掌に出してみたら半透明のとろりとした液体が出てきた。
……化粧水みたいなものかな?
掌の液体を両手に軽く広げ、顔にぺちぺちと塗りつけてみると、ほんのりハーブ系の匂いがしてすぐに肌に浸透していった。
つけた後はしっとりもっちりする。
「たっぷり使うと良いそうです」
と、言うのでたっぷり肌に使った。
おかげで肌はもっちりぷるぷるだ。
部屋に戻り、その一角に大量に積まれた箱にセレストさんが向かった。
昨日の夜に気付いたが、わたしが寝ている間に買った服などが届いており、部屋の隅に置いてあった。
セレストさんが振り返る。
「今日はどの服を着ますか?」
いくつかの箱を開けて中を見せられる。
……うーん。
「これ」
箱の一つを指差せば、セレストさんが頷いた。
それから他の小さな箱を二つ取り出した。
セレストさんがそれを開けるとベッドへ置いた。
「自分で着替えられますか?」
その問いに頷き返す。
「外にいるので着替えが終わったら声をかけてください」
もう一度頷くとセレストさんは出て行った。
ベッドに置かれた箱を覗き込む。
大きな箱には服が入っており、小さな箱の一つには靴が、もう一つは手に取ってみると下着だった。
……そういえば昨日シャワーを浴びた後は下着はそのままだったっけ。
服だけはベッド脇に置かれていた寝間着に着替えたけど、下着が見当たらなかったので、同じものを着けていた。
寝間着と下着を脱いで、まず下着を身につける。
下着は基本的に白なのだろうか。
控えめにフリルがついた下着を着て、靴下を履く。
今日の靴下も膝上の長いものをリボンで留める。
そこに服を着る。
服は白いフリルたっぷりのシャツに、淡いピンク色のスカートは膝より少し下ほどの長さで、ふんわりと広がっている。
靴もスカートと同じ色で白いリボンがついていた。
シャツと一緒にあったリボンもピンクだ。
服を着て、鏡で確認してから部屋の扉を開ける。
「ぉ、わ、った」
壁に寄りかかっていたセレストさんがこちらを見る。
「その服も大変よくお似合いです。まるで一足先に咲いた春の花のようですね。可愛いですよ」
「ぁり、が、と……」
セレストさんはすぐに可愛いと言う。
嬉しいけれどちょっと気恥ずかしい。
二人でわたしの部屋に戻り、化粧台の前に座れば、セレストさんがブラシを手に取った。
「ぁ、の、わた、し、やる……」
言いながら見上げると、セレストさんの悲しそうな顔があった。
……もしかしてやりたいの?
「あ、え、と、せれ、す、と、さん、やる?」
訊けばセレストさんが目を丸くした。
「いいのですか?」
うん、と頷き返す。
別に髪を梳かすくらい構わない。
セレストさんがそっとわたしの髪にブラシを通し始め、わたしは鏡越しにそれを眺めた。
随分と丁寧に髪を梳かれる。
「ユイの髪はふわふわですね」
ふふ、と小さく笑う声が後ろからする。
鏡越しにセレストさんを見る。
セレストさんの髪はツヤツヤで、鮮やかな青色で、緩く纏めてあるが多分癖がない。
「せれ、す、と、さん、かみ、さ、ら、さら」
セレストさんが「ああ」と自分の髪を見る。
「そうですね、私は父に似て髪がまっすぐなんです。癖がつかなくて良いと言えばそうですが」
「触ってみますか?」と訊かれて頷いた。
セレストさんが屈んでくれたので、そうっと編んである髪に触る。
見た目通りツヤツヤでコシがあり、結構髪は細くて、その分量も多い。
「き、れぃ」
青い髪は近くで見ても綺麗で透明感がある。
「ありがとうございます」
一通りセレストさんの髪を撫でた後、またセレストさんがわたしの髪をブラシで梳く。
何度も梳くとわたしの髪にも艶が少し出た。
最後にセレストさんがスカートと同じ色のリボンを頭につけてくれる。
全身を一度確認してセレストさんは頷いた。
「朝食にしましょうか」
一緒に一階へ下りると「先に食堂で待っていてください」と言われたので、頷いて、先に食堂へ入る。
セレストさんは厨房へ向かった。
食堂の暖炉には既に火が灯っていた。
……わたしの部屋も暖炉に火が入っていた。
もしかして起こしてくれる前にわざわざ部屋を暖めておいてくれたのだろうか。
席についてぼんやりそんなことを考えていると、部屋の扉が叩かれて開いた。
サービスワゴンを押してセレストさんが入って来る。
「簡単なものですが」
そう言いながら目の前に食事が並べられる。
手伝おうとしたものの、セレストさんに「座っていてください」と微笑まれたらどうしようもない。
朝食は丸パン、ベーコンみたいな肉と多分スクランブルエッグ、それからサラダもある。飲み物はホットミルクだろうか。
セレストさんのほうはベーコンが山盛りだった。
飲み物は恐らく紅茶だ。
セレストさんが席に着いて、二人で食前の挨拶を静かに済ませる。
「どうぞ」
頷いて、フォークを取る。
ベーコンみたいな肉を突き刺して食べている間に、セレストさんがわたしの丸パンを切って、チーズを乗せて、昨夜同様に炙ってくれた。
「あ、り、がと」
「どういたしまして」
パンを受け取って一口かじる。
熱々のとろけたチーズがとても美味しい。
セレストさんも同じようにして食べている。
会話はないけれど、つらくはない。
チーズのとろけたパンも、ベーコンみたいな肉も、スクランブルエッグも、サラダも、ミルクも美味しい。
サラダはドレッシングがかかっており、ホットミルクもほんのり甘くて飲みやすい。
どれも美味しくてすぐに食べ終わってしまった。
セレストさんも食べ終えていた。
「セリーヌが来たようですね」
セレストさんが立ち上がる。
同時にビーッと低い音が響く。
その音は隷属の首輪の音に似ていて、一瞬肩がビクリと跳ねてしまった。
気付いたセレストさんが眉を下げた。
「すみません、驚かせてしまいましたね。今のは来客を告げる音です」
言われて、ホッと肩の力が抜ける。
「お、と、にが、て。ビー、おと、くび、わ、ぉ、なじ……」
セレストさんがハッとした顔をする。
「そうなのですね、では後ほど──……」
立ち上がったセレストさんが言いかけたところでもう一度音が鳴る。
やはり体がビクリと震えてしまった。
セレストさんは「少し待っていてください」と言い置いて食堂を出て行った。
それからはもうあの音は聞こえない。
首輪も外されたから、そもそもあの音がしても、もう苦痛を感じることはない。
そう分かっていても体は苦痛を覚えている。
…………怖い……。
無意識に首を触ってしまい、そこに首輪がないことに安心する。
扉が開いてセレストさんが戻って来た。
テーブルを周り、わたしのところへ近付いて来る。
「大丈夫ですよ。もうあの音はしませんからね」
そっと抱き締められて、初めて自分の体が震えていることに気が付いた。
セレストさんの大きな手がわたしの背中をさする。
抱き締められたことで感じるセレストさんの温もりのおかげか、段々と体の震えは落ち着いていく。
わたしの震えが完全になくなると体が離れた。
それを一瞬寂しいと思ったのは、多分、わたしが人の温かさに飢えているからなのだろう。
「だぃ、じょ、ぶ、です」
わたしの言葉にセレストさんが微笑んだ。
「怖がらせてしまいましたね。音を変えておいたので、次はあの音はしませんよ」
セレストさんの言葉に頷き返す。
でも、しばらくはあの音を忘れられそうにない。
「立てますか?」と訊かれてもう一度頷いた。
そろそろ二つ目の鐘が鳴る頃なのだろう。
椅子から立ち上がる。
「上着を取って来てから、出かけましょうか」
「は、ぃ」
差し出された手に自分の手を重ね、歩き出したセレストさんについて行く。
二階の廊下で別れてわたしは部屋に入った。
壁にかけてあったポンチョをハンガーから外し、羽織って、前のリボンをきちんと結んだ。
それから廊下へ出るとセレストさんがいた。
……どこも変わってない。
寒いのに上着を着なくてもいいのだろうか。
「せれ、す、と、さん、さむ、く、なぃ?」
セレストさんが頷いた。
「竜人は気温の変化に強いのですよ。特に私は水属性なので暑さにも寒さにもそれなりに適応出来ます」
差し出された手にわたしも手を重ねる。
一階に下りるとセリーヌさんとその娘のアデライドさんがいて、浅くお辞儀をされた。
「おはようございます、ユイ様」
「おはようございます」
挨拶をされてわたしも小さく頭を下げた。
「お、はよ、ござ、ぃ、ます」
相変わらずセリーヌさんからは敵意を感じないが、半歩後ろのアデライドさんからはチクチクとした敵意を感じる。
「では留守を頼みます」
「はい、行ってらっしゃいませ」
セレストさんが言って、セリーヌさんが今度は深く頭を下げ、アデライドさんも同じように頭を下げた。
前を通る際にこちらを見たアデライドさんと目が合うと、眉を顰め、視線を外される。
そのまま玄関から外へ出た。
冷たい空気がひんやりと頬を撫でる。
「寒いのでフードを被っていたほうが良さそうです」
セレストさんがわたしのポンチョのフードを上げて被せてくれると、耳の冷たさがなくなった。
このポンチョはかなり優秀で、たった一枚なのに、これを着ているだけでとても温かい。
セレストさんに手を引かれながら駅へ向かう。
街は朝だから人通りが少なく静かだ。
吐いた息が白く染まる。
「この寒さだと明日は雪が降るかもしれませんね」
……雪!
「ゅ、き?」
「ユイは雪を見たことはありますか?」
本当はあるけれど、首を振った。
八番は見たことがない。
「なぃ」
「雪は白くて、空から降ってくる、冷たいものです。雨とは違って……雨は空から降ってくる水ですが、それが寒さで凍って、小さな氷の結晶になったものが雪と言います」
「とても冷たいです」とセレストさんが言う。
前世も、今生も、わたしは雪を知らない。
前世では病室の窓から外を眺めるだけだった。
今生ではずっと牢屋にいたので見たこともない。
「沢山積もると一面真っ白で綺麗ですよ。子供の頃はよく雪が降ると足跡をつけてみたり、雪投げをしたり、一日中遊んでいました」
……子供の頃のセレストさんかあ。
物静かそうなイメージだったので、小さなセレストさんが雪の中を駆け回るところはあまり想像出来ない。
「あそ、ぶ、たの、し?」
「ええ、とても楽しいです。でもユイは寒さに強くないので、雪遊びはほどほどにしないと風邪を引いてしまうかもしれませんね」
「か、ぜ、やだ」
奴隷の子供は体の弱い子ほど早く死んだ。
中には風邪を引いて、それをこじらせて悪化して死んでしまった子もいる。
セレストさんも頷いた。
「そうですね、風邪を引くのは嫌ですね」
そうして駅が見えるとセレストさんが「あ」と呟く。
何だろうと前を見れば馬車が駅に停まっていた。
セレストさんが「すみません」と言ってわたしを抱きかかえると走り出す。
……凄く速い!
駅までの短い距離が一瞬だった。
セレストさんはわたしを抱えたまま、馬車に慌てて乗り込んだ。
「間に合って良かった。これを逃すと次は時間ギリギリになってしまうので」
ほぼ飛び乗るような勢いだったのに誰も気にした様子はなく、セレストさんは空いている席に腰掛けるとわたしを膝の上へ乗せた。
五十メートル近くをわたしを抱えてかなりの速度で走ったのにセレストさんは息一つ乱れていない。
それどころかわたしを見て、風で乱れた髪を整えてくれた。
「次はもう少し早く出ましょうか」
わたしはそれに頷き返した。
……これからディシーに会える。
そう思うとそわそわしてしまう。
セレストさんは静かに微笑んでいた。




