第八章 鋼鉄の都(六)
インは足元に転がっている人間を軽く蹴った。黒衣をまとった姿は間違いなく先刻の刺客のものだったが、この相手から情報を聞き出すことは不可能だろう。見開かれた両眼はすでに死者のそれであった。
腰をかがめて、より近くから死体の顔を覗きこむ。
血走って真っ赤に染まった目はシュシュの秘薬を服用した者の特徴であり、この刺客も例にもれない。ふと心づいて刺客の顔を傾けると、首の後ろに小さな傷跡がある。おそらく太い針のようなもので首から髄を刺し貫いたのだろう。これが致命傷だと思われた。
「口封じか。念の入ったことだ」
シュシュの秘薬とつながりがある相手と思えばこそ追ってきたわけだが、どうやら裏にいる連中は一筋縄ではいかない相手らしい。ヒエロニムスが口にしたとおり、これがカザーク帝国の仕業なのだとすれば、一国があの魔薬に関与していることになる。どう考えても一日、二日で片付く話ではない。
今のインには目的がある。いずれカザークとやりあうにしても、それは目的を果たした後のことであるべきだった。
ひとたびそう思い定めれば、次の行動を決めるのはたやすかった。
今夜の出来事に対する関心に蓋をして、さっさとこの場から立ち去ることにする。
この際、ヒエロニムスに声をかけたのは牽制の意味が込められていた。
「俺は逃げるが、そちらはどうする?」
羽根帽子をかぶったシュタール貴族をじろりと見やる。ここでヒエロニムスがインの逃亡を許さないようであれば、先刻の続きをするのも辞さないつもりだったが、幸いというべきだろう、このときのヒエロニムスはインと立場を同じくしていた。
「騒ぎになると困るのはボクも一緒なんだよ」
そういってヒエロニムスは肩をすくめる。
カザーク兵が帝都に入り込んでシュタール貴族の命を狙った――このことが明らかになれば、シュタールとカザークとの外交関係は一触即発の状態となる。そうなれば、ヒエロニムスはすぐにも領地に戻ってカザーク軍に備えなければならなくなり、必然的に武闘大会に出ることができなくなってしまう。
それは避けたいと考えたヒエロニムスは、インにならって自分もこの場を離れることにした。
その後、戦いの後始末――主に武器や衣服についた血をぬぐうこと――をすませた二人は、なにくわぬ顔で表通りに戻ると、並んで道を歩く。
双方ともに無言だった。
今さら先刻のにらみ合いを続ける気にはなれず、かといって健闘をたたえあう間柄でもない。別れるという選択肢は、相手に対する不審と興味が許さなかった。
「あらためて今夜のことを振り返ってみると――」
最初に沈黙を破ったのはインだった。
ヒエロニムスが意外そうな顔をする中、インは淡々と自分の身に起きたことを口にする。
「俺は疲れて宿に帰ったところを理由もいわずに連れ出され、路地裏に引きずり込まれたと思ったら善意の行動を曲解され、おまけに血の臭いがするなどと妙な因縁をつけられたわけだ」
「……う、うん。そうなる、ね」
ヒエロニムスは目を泳がせながらうなずいた。
インはさらに続ける。周囲の人間に聞こえないよう低い声で。
「それだけでも迷惑この上ないというのに、次は毒の刃物を持った五人の刺客だ。しかも狙いは俺ではなく、因縁をつけてきた相手の方だというのだからたまらない。巻き込まれただけの俺は、危うく今日が命日になるところだった」
「……あの、巻き込んでしまったことは心底申し訳ないと思っているんだけど、刺客に襲われたとき、鼻で笑って倒してなかったかな?」
「人間、命の危機に瀕したときは驚くほどの力が出るものだ」
「そういうのとは明らかに違っていたと思うんだけど……」
ぼそぼそとした反論は、しれっとしたインの声にはばまれた。
「とにかく」
「は、はいッ」
「今夜のことについて、俺には一片の非もない。にもかかわらず、襲いかかる刺客を二人まで打ち倒してお前の窮地を助けてやったんだ。謝礼を要求するのは当然の権利と考えるが、如何?」
ヒエロニムスは困惑顔で黙り込んだが、それも長いことではなかった。
実際、ヒエロニムスがインを危険視する理由は直感的なものであり、具体的な悪事の証拠があるわけではない。因縁をつけられた、という今しがたの台詞は正鵠を射たものであった。
「わかりました。ボクに払える範囲なら……」
観念したヒエロニムスがそう答えると、インは満足げにうなずいた。
「お前が物の道理をわきまえたヤツで何よりだ、ヒム。迷惑料とは言ったが、金がほしいわけじゃない。手伝ってもらいたいことがある」
「手伝い?」
「人捜しのな」
◆◆◆
あけて翌日、ヒエロニムスの姿は闘技場にあった。
今日も今日とて見込みのある戦士を探しにきたのだが、その視線は試合場ではなく、ここではない別のどこかに向けられていることが多かった。
ヒエロニムスの脳裏では、昨夜の光景が浮かんでは消えている。
インが要求した謝礼は行方不明になっているサクヤという少女を捜すこと。帝都だけでなく、ヒエロニムスの領地であるブラウバルトも捜索の範囲に含まれていた。
「迷惑の対価としては捜す範囲が広すぎるよね……」
思わず溜息が口をついて出た。どこにいるかもわからない十歳の女の子を捜すには、帝都は人が多すぎ、ブラウバルトは土地が広すぎる。必ずいるという確証があるならともかく、それもない。最終的に骨折り損の可能性がきわめて高いとなれば、どうしたって気は乗らない。人捜しも無料ではないのである。
だが、インはこの捜索に成功報酬をつけることで、ヒエロニムスから選択の余地を奪ってしまう。
その報酬とはシュシュの秘薬に関する情報であった。
ヒエロニムスは雷帝ヘリアン直属の悪夢部隊とこれまで幾度も矛を交えてきた。時に戦場で、時に街中で。そのいずれでも、襲いかかってきたカザーク兵の力は図抜けたものがあり、命の危機を感じたことは一再ではない。
化け物じみた膂力と、苦痛に対するありえないほどの耐性。斬っても斬っても倒れず、まるで亡者のように群がってくる狂気じみた戦いぶりは、雷帝に対する忠誠、挺身、崇拝といった言葉だけで説明できるものではない。彼らの背後には『何か』がある、とヒエロニムスは睨んでいた。
だが、その『何か』は幾重にも垂れ下がった分厚い帷幕の奥に隠されており、これまではどうしても手が届かなかった。仮にも一国の皇帝、一国の軍隊の秘事だ、それも当然であろう。
インが持つ情報は、その帷幕を切り裂く刃になるかもしれない。
知りたかった。是が非でも。
剣や地位に物を言わせて強引に聞き出すという選択肢もあったが、それをすれば何かが決定的に終わってしまうという予感があった。
となれば、相手が求めるものを掴んで、正当な権利として聞き出すしかない。
ひとつヒエロニムスが気になったのは、決して友好的とはいえない態度で接してきた自分に、インがこんな取引を持ちかけてきたことであったが、これについてインは隠し立てしなかった。
『人を捜すなら一人より二人、平民より権力者だ。なにより、初対面の俺をあれだけ敵視できる目の良さ、いや、この場合は鼻の良さか? まあどちらでもいいが、ともかくそれを見込んでのことだ。それがなければ問答無用で殺しにかかっていたさ』
ヒエロニムスの事情を知っているわけでもないだろうに、的確にこちらの急所をおさえてくる抜け目なさ。それでいて自分自身の危険性はまったく隠そうとせず、むしろヒエロニムスの危惧は正しいといわんばかりの態度をとってくる。
「ずるいよねえ。ああまで堂々とされると、こそこそ探る気も起こらないもの」
自信か、過信か。
計算づくなのか、自然に振舞っているだけなのか。
出会って一日足らずのヒエロニムスにはどれが正解か分からなかったが、当初予想していたよりもはるかに厄介な相手であることだけは間違いない。それがヒエロニムスの結論だった。
と、不意に周囲から、それまでとは異なる種類のざわめきが起こる。
何事かと見れば、腰に剣を携えた五人組がヒエロニムスがいる方に向かって歩み寄ってくるところだった。
いずれも若く、長身で、秀麗な眉目の持ち主である。衣服からのぞく手足はしなやかな筋肉で覆われ、歩み寄る姿には隙がない。腰に提げた剣を見るまでもなく、戦いを生業とする者たちであることがよくわかった。
それぞれが同じ銀の飾りを首につけているが、歯に衣着せずにいえば、それは奴隷の首枷に似ていた。というより、首枷そのものだった。
ただ、眼前の五人を奴隷と見なした者は、おそらくこの場には一人もいないだろう。
鉄ではなく高価な銀でつくられた首枷にくわえ、昂然と顔をあげて近づいて来る男たちの表情に強い自尊と誇りがあらわれているからである。
この二つが男たちから奴隷というイメージを遠ざけていた。
彼らを見た瞬間、ヒエロニムスは顔色を変えていた。顔色だけでなく、かもし出す雰囲気も変化している。
ヒエロニムスの周囲にいた観客は、鉄の刃で首筋をなぜられるような、ひやりとした感覚を覚えて皮膚があわ立つのを感じた。
先夜、インに「血の臭いを感じる」と口にした時と同質の雰囲気を、今のヒエロニムスはまとっている。ゆっくりと立ち上がる動作は危険を感知した野生の獣に似ていた。
どうやら男たちの目当てもヒエロニムスのようで、彼らの視線は琥珀色の髪をした少女に据えられて動かない。
男たちの先頭に立つ赤毛の若者がおもむろに口を開いた。
「シュタール帝国の北辺の守護者、闘神ヒエロニムスとはあなたのことですか?」
意外にも若者の声は穏やかで落ち着いたものだった。言葉遣いも丁寧で、表情も温和といって差し支えない。
これはヒエロニムスも意外だったようだが、闘神の顔から警戒心が消えることはなかった。
「そのとおり、と言ったらボクをどうする気かな、カザーク人。その首の銀環を見るかぎり、皇帝直属の親衛隊のようだけど」
「ふふ、まさか。おっしゃるとおり我らはカザークの者。そして、かの地を治めるヘリアン陛下をこの上なく尊敬しております。が、親衛隊に籍を置けるような身分ではありません。そうありたいと願っていることは否定しませんが、ね」
赤毛の若者はそういって軽く銀環に手をあてると、改めてヒエロニムスに向き直った。
「この銀環は、いまだ数ならぬ身である我らの志を示すものと思っていただきたい。この身は北の草原より武闘大会に参加せんがためにやってきた者、チムールともうします」
赤毛の若者――チムールが優雅に頭を下げると、後方の者たちもそれにならった。
頭をあげたチムールは、なおも穏やかな声で続ける。
「あなたに声をかけたのは挨拶をしておくためです。遠からず、あちらの試合場で顔をあわせることになりますから」
闘技場を指し示すチムールに、ヒエロニムスは皮肉げに応じた。
「ずいぶんと自信たっぷりだね。まだ予選は終わっていないはずだけど?」
「傲慢に聞こえますか? けれどそれは誤解というもの。我々はカザーク人の武威をシュタールの方々にお見せする機会を得て逸り立っています。私自身、是非、あなたと剣を交えてみたいと思っているのですよ。我らの戦いぶりを見ていただければ、この言葉が傲慢とは一線を画するものであることを理解していただけるはず」
ヒエロニムスの口から冷めた声が発される。
「別に、わざわざこの大会に出る必要はないんじゃない? あなたたちはしょっちゅう国境を侵してくるのだし、ボクと戦う機会なんていくらでもあるでしょうに」
「たしかにそうですね。闘神は常に陣頭に立って剣を振るう。戦う機会はいくらでもあるでしょう――しかし、それではつまらない」
不意に。
見えざる手がチムールの人格を切り替えたかのように、寸前まで穏やかだった声に、滴りおちるほどの悪意がこもった。
「私の父と三人の兄は、すべてあなたの手にかかって殺された。残された母と妹は病で死に、私は奴隷に身を落としました。幸い、あるお方に見出していただき、今こうして生きていられるわけですが、悲運の源となったあなたには意趣返しをしておきたい。力不足ゆえに敗れた父たちはともかく、薬もなく、医者も呼べず、苦しみぬいて死んだ母と妹の恨みをこの手で晴らさねば、私は家族の墓参りにさえ行けないのです」
チムールの口が三日月の形をとる。
「観衆の眼前でその腕を断ち、足の腱を切って這いつくばらせ、無様に命乞いをさせてあげます。大会の褒美として身柄をもらいうけ、カザークまで馬で引きずっていかせましょう。安心してください、死なせはしません。飢えた豚の群れに放り込み、生きながら喰われる苦しみを味わってもらわなければいけませんから。それとも、いっそブラウバルト兵の前で裸で晒し、囚人どもに犯させるのも面白いかもしれません」
うすら寒い笑みを浮かべ、淡々と復讐の計画を語っていくチムールに対し、ヒエロニムスは小さく肩をすくめてみせた。
「似たようなことはしょっちゅう言われるね。それが出来た人は一人もいないけれど。言うはやすしって言葉を知ってるかな、草原の蛮族さん?」
「ええ、もちろん。なんなら、ここで口だけではないことを証明してもよいのですが。なに、軽い手合わせのようなものです。シュタールの官吏も大目に見てくれるでしょう」
「ふーん、ボクは別にかまわないよ。ハエみたいにたかっては逃げていくカザーク兵退治はお手の物だしね。ま、昨夜の一幕を見ていたあなたには言うまでもないことだろうけど」
ヒエロニムスとチムールの眼光が正面からぶつかり合う。両者の手が腰の剣に伸びるのはほぼ同時。
そして――
「あいにく、大目に見ることはできないな」
その声で動きを止めたのもまた同時であった。
新たに姿を見せたのは銀色の髪と鈍色の瞳を持つ貴公子で、名をバルトロメウス・フォン・ダヤンという。隣にはエックハルトが不敵な表情で控えていた。
「ラインラント子爵バルトロメウスだ。剣を抜くべきは試合場の上であって、それ以外の場所では許されない。双方、わきまえていただこう」
バルトロメウスの名乗りを聞いたチムールは、即座に顔に笑みをはりつかせる。
「これは……よもやこのようなところでダヤン家の後継者どのにお会いできるとは思っておりませんでした。私としたことが、少々血気にはやってしまったようです。おっしゃるとおり、時と場所をわきまえることにいたしましょう」
さすがに帝国宰相の一族と事を構える気にはなれなかったのか、チムールはあっさりと矛を引き、ヒエロニムスもそれにならった。
ヒエロニムスはことさらダヤン侯と親しいわけではなかったが、シュタール人として、廷臣として、侯爵には大きな敬意を払っている。ダヤン侯の政策は下層の民衆にも及んでおり、先日イルマが口にしていたように救貧院や孤児院といった社会施設に対する保護も行われていた。
他の大貴族が政権を握った場合、同じことはまず起こらない。ヒエロニムスがダヤン侯を評価するゆえんである。
当然、その一族であるバルトロメウスにも悪い感情は抱いていない。もとより本気で剣を抜くつもりだったわけでもない。チムールが剣を引いた上は戦意を持続させる理由はなかった。
◆◆
「まったく、なにやら騒がしいと思って来てみれば。何をやっているんだ、お前は」
チムールらが去った後、エックハルトが呆れたようにヒエロニムスに話しかける。
ヒエロニムスはあははと笑って頬をかいた。
「ちょっと色々あって、ね」
「ふん? まあ深くは訊かないが、くだらぬいさかいを起こした挙句、大会に出られませんでした、などというのはやめてくれよ。興ざめにもほどがあるからな」
「それはボクもごめんだよ」
エックハルトに苦笑を向けた後、ヒエロニムスはバルトロメウスに頭を下げた。
「バルトロメウス卿、お手数をかけてしまい申し訳ありませんでした」
「手数というほどのことはしておりません、ヒエロニムス卿」
先ほどとは異なり、バルトロメウスは丁寧な言葉でヒエロニムスに対する。バルトロメウスは宮中の席次ではヒエロニムスの下位に位置するのだが、ダヤン侯の後継者という意味ではシュタール有数の貴族ともいえる。
このあたり、見る者によってバルトロメウスの地位は大きく変動するのだが、当人は祖父は祖父、自分は自分と考えており、相手がどれだけダヤンの名にへりくだろうとも、あくまで一子爵として振舞うように心がけていた。
「エックハルトが言ったとおり、事情を問いただすつもりはありませんが――」
そういって、バルトロメウスがちらと周囲を確認する。
これまでの騒動が人目につかないはずはなく、すでにヒエロニムスたちのまわりには人垣ができつつあった。ただでさえ闘技場は満員の観客を詰め込んでいるのだ。これ以上、騒ぎが広がる前に場所を移した方がいいだろう、とバルトロメウスは言った。
「貴賓席に移りませんか? もし、さきほどの者たちがカザークの手の者なら、放っておくわけにもいきません」
ヒエロニムスはうなずいてバルトロメウスの求めに応じた。
チムールやバルトロメウスがはっきりとヒエロニムスの名を口にしてしまった以上、なにくわぬ顔でここに残ることはもう無理である。
へたにバルトロメウスを避けて、痛くもない腹を探られるのも困る。
そう考えたヒエロニムスが「ではそのように」と応じかけたとき、ひときわ大きな歓声が観客席のそこかしこから立ち上り、それはたちまち闘技場全体を包み込んでいった。
何事かと試合場の方を見れば、顔に仮面をつけた特徴的な人物が通路から姿を見せたところで、それを見たエックハルトがおおと手をうった。
「ようやく出てきたか。主どの、あれが報告したヤツですよ」
「あれがエルガルを倒したという……なるほど、エックハルトが目をつけただけのことはあるようだな」
バルトロメウスが目を細めて試合場を見やる。
ヒエロニムスは小声でエックハルトに問いかけた。
「……ええと、あれ、誰?」
「ん、熊殺しの話を知らんのか? てっきりお前も目をつけたとばかり思っていたが」
「熊殺し……ああ、なんか予選で大きな熊を倒した人がいたっていう話は聞いたよ。そういえば、仮面をつけてたとも言ってたね」
得心したヒエロニムスはあらためて試合場に視線を向ける。
棒を持ったその姿が、一瞬、見覚えのある誰かに重なった気がした。




