第七章② 海マジで怖い。
その日は朝から天気が良く、南東風の強い一日だった。運行に問題はなく、むしろ順調に進んでいると、食事を持ってきたダンが教えてくれた。
昼食を食べ終えた俺は、キッチンへ食器を返却しに行った。本当は下膳もダンの担当なのだが、船乗りたちは忙しそうだし、俺は運動がてら自分で下膳していた。
炊事場へ向かう途中。何かがいつもと違うように思えた。食事をしているはずの船員たちが、忙しなく廊下を走り回っている。多忙な彼らは普段から走り回っているが、限られた楽しみである食事時だけは、何者にも邪魔させなかった。よほど急ぎのことができたのだろうか。俺はそれくらいに思っていた。
食器を返却して自室に戻る前に、俺はデッキへ向かった。潮風を浴びようと思ったのだ。
デッキに出た瞬間、強い風が全身を襲った。外に出る時の風圧には毎回驚かされる。しかし今日はずいぶん強烈だった。開けたドアが風圧で押し戻されて、ちっとも閉じないからさ。
ようやくドアを閉めてデッキに出る。見渡すと、船の四方は海ばかり。どこを見ても海! 俺はどの方角の海を楽しもうかと、周りの海を見ていた。そして、とある地平線に違和感を覚えた。どす黒いモヤがあり、海の一部が黒く変色している。本能的に恐怖を感じた。
「おい、部屋に戻ってろ!」
後ろから、ダンに肩を掴まれた。
「おい、あれって」俺は黒いモヤを指さす。
「嵐だ。かなりデカイ。俺がいいって言うまで部屋から出るな。荷物に後頭部を殴られないよう、しっかり固定しておけ」
俺はまともな返事すらできず、慌てて部屋に逃げ帰った。そして荷物をまとめ、背中に縛り付けた。これなら飛んでこないし、背中をぶつけた時の緩衝材になる。剣は飛んでいかないよう、身体とトランクの間に差し入れた。もちろん抜けないように、紐で厳重に繋ぎとめてな。
ルルに事情を説明すると、狂ったように部屋中を走り回った。やはりネコ、水が苦手らしい。いよいよという時になって、ルルは俺の頭へしがみついた。爪が食い込んでめちゃくちゃ痛い。
なんとかルルを引き剝がし、俺の懐に入れた。ネコ扱いすると怒るルルだが、この時ばかりは大人しく俺の懐内に納まっていた。
それからすぐに船は大きく揺れ始めた。最初は耐えられるレベルで。しかし確実に揺れ幅は大きくなっている。夜には立っていられないほどの大揺れになった。俺は一番太い柱にしがみつき、嵐が去るのを待った。
ここで読者諸君は「魔力で嵐を止めたらいいのに」と思うかもしれない。俺だってできるならしたいさ。でも無理なんだ!
自然現象は魔王以上に逆らい難い。一応は、魔王は人間の魂がベースでできている。守り神は核であるが、大部分が人間で構築されているのだ。
しかし自然現象は、存在すべてが守り神以上だ。国や土地という一部に影響を与える存在ではなく、この星全体に影響を与えるからな。自然を相手にするということは、この星を相手にしているのと同じになる。
だから魔術で局所的に雨を避けることはできても、雨自体を止めることはできない。天気は操作できないんだ。また、雨を避ける術式にしたって、厳密には限定的にバリアを張って雨の侵入を防いでいるだけ。雨自体を操作しているわけではないのだ。
なんだかよくわからないと思うけど、要は俺も万能じゃないってこと。あと、理屈としてはできるけど、やったら魔力が枯渇して死ぬレベルの魔術もあると覚えておいてほしい。
話は戻るが、俺とルルは終始揺れる船に踊らされていた。久々に船酔いに襲われそうだ! 荷物を片付ける際に、酔い止めを飲んでおいて本当によかった。嵐というものは、どれくらいで終わるのだろうか。内陸部に住んでいた俺は、嵐を経験したことがない。未知の感覚で、恐怖に震えるしかなかった。
聞こえるのは、身もすくむような雷雨の轟音や、船が軋む不穏な音ばかり。時折誰かが叫んでいるような気もするが、船員たちが必死に戦っているのだろう。耳を塞ぎたかったが、もはや柱から腕を放すことは不可能だった。聴覚からじわじわと不安を搔き立てられた。
いつまでこの揺れに耐えていればいいんだ! 俺もルルも限界で、お互いに震えていた。
ここで長々と不安を綴っても面白くないだろうから省略するが、俺は先代たちと修行していた頃よりも長い時間だと感じられたね。それがあっという間に変貌したんだ。
これまでも横転せんばかりで船は傾いていた。しかしこの時は一気に横転した。あまりに強い力で身体を捻じられ、俺は柱から引き剥がされた。船内の壁だった部分をゴロゴロ転がり、反対方向にまた揺られ。なんとか揺れが収まった時、外から怒声が聞こえた。
「逃げろ! 沈没するぞ!」
俺はこの時、死んだと思った。だがこんなところで死んでいられない。俺はダンが来る前に部屋から飛び出した。
廊下に出ると、乗客がデッキに向かって走っていた。逆に船員たちは奥へ向かい、ドアを片っ端から殴ると、逃げるように警告していた。
俺はデッキに走った。デッキに出た瞬間、突風と水しぶきが顔面を襲った。一瞬視界が奪われたが、これ以上見えない方が幸せだったかもしれない。なぜなら、デッキには海水がザバザバと降り注ぎ、頼もしい船員たちが必死に奮闘する様は、嵐に弄ばれているようにしか見えなかったのだから。
船員たちは脱出用ボートに乗客を誘導し、一隻埋まるごとに波間へと消えていった。
「早く!」
船員に呼ばれ、俺もボートに向かった。一隻あたりの定員は八名。船頭役の船員が一名乗り込むので、乗客は七名乗れる。前の船が出た直後なので、俺は前方に乗れそうだ。
「邪魔だ!」
だがここで、俺は誰かに突き飛ばされた。かなり強い力だったのと船の揺れもあって、俺の身体は宙に浮いた。その最中、ゴテゴテとした宝箱を持った商人たちがボートに向かうのが見えた。
ああ、彼らと荷物で一隻は埋まるな。その時の俺は、そんなことをぼんやりと考えていた。
そして運悪く、高波が船を襲った。
つまりどういうことかと言うと、俺はそのまま波にさらわれてしまったんだ。
海に投げ出された感想はどうだったかって? ずいぶん悪趣味な質問だ。でも、実はあんまり覚えてない。ただ、とにかく必死で泳いだ。あんなに苦手な水泳が、こんな時に役立つなんてね。エンジに感謝だ。まあ、アイツに笑われなければ、もっと泳ぎにハマって上達していたのかもしれないけど。
荒れた海では溺れないようにするだけで精いっぱいだった。
幸運なことに、トランクが水に浮いたのは嬉しい誤算だったね。浮力があるおかげで、少なくとも完全に水没する恐れはなくなったから。
ああ、これだけは覚えてる。気づいたら、船が消えてたんだ。といっても俺が流されて、船との距離が離れたんじゃない。沈んでいったんだ。だってマストが波間に消えるのが見えたんだから。
ただもう恐ろしい気持ちで、死にたくなくて。流れてきた木片につかまって、俺は嵐が去るのを待った。今の俺には、これしかできなかった。




