紫はいつも隣に佇む
目が覚めると、拷問部屋から出された。わけがわからなくてきょとんとしていると、大佐から説明があった。
僕を二重スパイとして大佐の直属で扱うことにしたらしい。随分大胆で滅茶苦茶なことをするなあ、と僕は思った。よくそれを上層が認めたな、とも考えたけれど、特に隠してもこなかったので、僕の記憶能力のことはバレている。両軍の機密を握る僕は爆弾だ。そのスイッチを得た方が大きく局面を変えることができる。
僕がまた裏切るかもしれないが、そのときは殺すまで、ということだろう。大佐は一度僕の暗殺をいなしていることから、直接管理下におけば、いかようにでも対処できる。なるほど、と僕は納得した。
耐性のある拷問で責め立てるよりも、厚待遇をして絆させる方が容易いという判断もあるのだろう。絆されているのかはわからないけれど、あちらにいたときより、遥かに待遇はいい。周りは親切だし、拷問耐性訓練を受けなくてもいいし、食事には毒も薬も混ぜられていない。僕の求めた全部があった。
ただ、それをあちらが黙って見過ごすとは思えない。僕を奪い返しにくるか、最悪、殺しにくるだろう。個々の戦力はたかが知れているが、人数はやたらいる。
悩ましい。拘束されていないのなら、脱走なんていくらでもできる。暗殺任務が失敗したから、向こうに戻ったら僕はただじゃ済まないだろうけれど、……死に場所を探して、ここまで来たのになあ。
黙ってここにいて、殺しに来る人を待った方がいいだろうか。でも、たぶん守られてしまうよなあ、と策を練っていた。
僕は大佐にとても大切にされた。それが大切にされてこなかった僕の傷にひどく染み込んで……けれどそれは必要な痛みだった。傷口を消毒液で洗うのと同じ。
やっと、人並みの扱いを受けた僕の幸せはそう長くは続かなかった。
休日に大佐と街に出た。巡回でもなんでもない、ただの散歩。目的なくさまようことが僕は苦手だったので、気になっていたアクセサリーがあるんです、とアクセサリーショップに向かった。
大佐と同じ空色をしたブレスレットとペアルックの紫色のブレスレット。大佐に紫のものを渡した。
僕の名前はシリン。死の隣に佇むんじゃなくて、淋しさの中に佇む紫。親はろくな名前を考えてくれなかった。けれど、まあ、二つ名よりはましだ。名前に色が入っているのもいい。
贈り物に重い意味を込めない言い訳に、自分の名前が使えるのはいい。大佐はすごく喜んでくれた。
が、僕たちは尾行されていた。僕や大佐からすれば、素人レベルの尾行。僕は察した。動き始めた、と。
大佐もわかったのだろう。人気のない方へ向かう。市街地を血で濡らすわけにはいかないから。
待ち伏せもされていたようで、ごろごろと数ばかりいた。僕は大佐から仮の武器として借りていたサーベルに手をかける。狙撃手もいるらしく、少し遠くから飛んできた弾が僕の頬を掠めた。痛みは感じないが、頬を赤いものが伝うのを感じた。
焦ったようにリーダー格の男が言う。
「シリン特務兵には当てるな! データベースは生かして捕らえろ!!」
ああ、やっぱりそういうことなんだな、と僕の脳内が一気に冷えていくのと同時、発砲音がした。ぎゃあ、と汚い悲鳴を上げたリーダー格から右耳が千切れ飛ぶ。ぼたぼたと血溜まりができた。
振り向くと大佐がひどく蔑むような、憤怒を秘めた表情をしているのが見えた。トリガーを引く指に一切のぶれも躊躇いもない。
「シリンくんがなんだって? データベース? 彼は一人の少年です。まだ未来を夢見て眠っていてもいいくらいの少年です。その少年から未来を奪って、挙げ句物扱いですか。──貴様らに生きる資格などない」
冷徹で低くよく通る声。
大佐は僕のために怒ったのだ。あなたを殺そうとした、僕なんかのために。
それなら、と僕もすらりとサーベルを抜いた。
僕も、このひとのために。
そこからは血で血を洗うという表現が相応しい。二人対多数。多勢に無勢の小さな戦場。けれど実力は僕や大佐の方が遥かに上。欠点は二人であるのと装備がないため、取れる戦術が少ないということ。それでも、敵の装備を奪ったり、僕を撃てないのをいいことに、僕が狙撃手の射線上に立つ。狙撃はほぼ直線だ。狙撃手の位置と狙いがわかれば妨害するのは容易い。
ただ、僕も躊躇いなく敵を切るので、脅威と見なされたのだろう。肩を撃たれた。
肩に繋がる首の部分の皮膚が派手に吹き飛び、僕の顔を赤色に濡らしていく。そのことに動揺した大佐が足を撃ち抜かれる。そこから形勢は徐々にあちら側へと傾き始めた。
嫌なことに、僕はこういう判断は早くて、障害を切り伏せながら、大佐の元に辿り着き、大佐の手から銃を奪って、自分のこめかみにあてがい、振り向いた。
「投降します」
僕自身が充分な人質になることを僕は知っていた。
大佐が駄目だ、と言いながらも、立ち上がれず、ぐしゃりと崩れる。大丈夫ですと言いたかった。言えなかった。
「標的は瀕死、データベースはこの通り無事です。これでは満足いただけませんか?」
返事がないので即答できるような状況にしよう、と僕はサーベルを手に取った。それで大佐の胸元を穿つ。サーベルを抜けば、面白いように血が溢れてきた。
これで、放っておけばすぐ死ぬでしょう、と淡々と告げれば、兵士たちも頷いた。
僕はまた大佐を裏切った。
国に戻るとレジスタンスが国に反抗していた。それの対処をするのが今度の命令だ。レジスタンスに潜り込み、壊滅させる。また人を裏切るために。
レジスタンスは僕の幼い容姿と軍服姿に怒り狂った。こんな年端もいかない子どもを兵役させるなんて、信じられない。君、共に自由を叫ぼう。なんて、声をかけてきた。
叫んだところで、望むものなんて何一つ手に入りはしないのに。
レジスタンス内部は統制が取れていなかった。かろうじて主義主張でみんなが繋がっている。こんなふやふやな連中に手を焼いている軍が馬鹿みたいだ。
全部全部、僕に押しつけて。勝手をされるとは思わないのだろうか。……思わないのだろう。僕は使い勝手のいい駒だ。逆らう術を与えず、教えなかった。教えなかったこと、知らなかったことを実行する術はない。
僕はゲリラ放送で表明した。
「僕たちは戦争のない未来のために、必要のない軍がなくなるよう、抗います」
声に熱がこもった。そういう演技でもあるが、半分くらいは本心だ。
軍はデータベースが裏切った、と思ったらしい。僕の両親を僕の元に寄越した。
怪我をして体が不自由なため、兵役できない父親。女であるために兵役できない母親。僕をこんな風にした元凶たちに、もう従う必要はない。
「話すことはありません。帰ってください」
「シリン、話を聞いて!」
「僕の話をあなたが聞いたことがありましたか?」
僕は軍人になんてなりたくなかった。
人殺しになんてなりたくなかった。
裏切り者になんてなりたくなかった。
「シリン!!」
「触らないで!!」
とん、と母親を突き飛ばす。
ぴー、と耳馴染みのある音が鳴った。
僕は飛び退く。母と父を回収する暇なんてなかった。
響く轟音。爆風に巻き上げられる土埃。
地雷により、吹き飛ばされる一帯。
「あいつ、両親を見捨てやがった!!」
「人でなしめ!!」
誰かが叫んだ。混乱の中、その声が放った内容は波紋のように広がっていく。
「リーダーが両親を見捨てるような人だったなんて……」
「そもそもシリンさんは軍人だったんだ。軍が仕掛けた地雷の場所くらい知っているだろう。なんで俺たちに共有されないんだ?」
「というかあの人、お母様を突き飛ばしていましたよね? まさかわざとなんじゃ」
その波紋は僕への疑いをもたらしていく。
疑念に呑まれた人々の中で、錯乱した者か、軍の手の者かはわからないが、誰かが言った。
「あいつは裏切り者だ! 綺麗事を並べ立てて俺たちを騙そうとしている、裏切り者だ!!」
その言葉に誰もが武器を取った。
どうしてその「誰も」の中に僕が入らないなんて、みんな思うんだろう?
素人の銃弾なんて当たらない。お粗末なナイフなんて掠りもしない。僕はほとんど理性が吹っ飛んでいた。僕はまだ裏切っていないのに、これから誰かを裏切ったかもしれないけど、まだ裏切ってなかったのに、僕を裏切り者と判断した。この場にいる、全員。
僕が裏切り者なら、あなたたちはみんな敵だ。裏切り者らしくあなたたちを全員、僕を信じなかったあなたたちを全員、顔一つ忘れずに、最期まで見届けてあげましょう。
あの人はナイフで刺しました。軍用じゃないナイフは粗悪品だったのか、数人刺しただけでなまくらになりました。拳銃を奪って殺したのは五十四人。女性もいました。僕と同じ年頃の子どもも。何不自由なく普通の生活を謳歌して、僕が来るまで、ペンキを軍事拠点にぶちまけるくらいしかできなかった人たちの中身をそこら中にぶちまけました。僕を裏切り者だと謗った声の主は命乞いをしてきました。情けないですね。どうしてこうなると思わなかったんですか。僕はそれだけ言って、首を撥ね飛ばしました。
そうしてやがて、そこに生きている人はいなくなりました。僕の靴をかじっていた鼠を殺したような……気がします。
ふっと戻って、笑いが込み上げてきた。何してるんだろうって。誰を殺しても、意味なんてないのに。この場で大量虐殺をしたところで、何も変わらない。僕は世紀の殺戮者として後世に恐れられるくらいが関の山……いや、こんな、誰もここを観測していないのに、誰が真実を語り継ぐんだろう。
「疲れた……」
僕はとぼとぼと歩いて、ナイフを拾った。よかった、ぴかぴかだ。
「ごめんなさい」
それを喉に突き立てた。
覚めるはずのなかった目が覚めて、目の前に立っていたのは黒いマントの男の子と成人男性。男の子は僕が正常な食生活を送っていたらそれくらいになっていたであろう体躯をしていた。羨ましいとは思わなかったけど。
男の子が首を傾げると、しゃらん、と音がした。ネックレスでもつけているのだろうか。
「あ、おはよう」
「おはようございます」
「ぼくね、セイム。きみは?」
「え、と……シリンです」
「敬語はいいよ! 大体同い年くらいだろうから」
気さくな感じで話しかけられたのはほぼほぼ初めてだったので、戸惑う。なんとなく助けを求めて男性の方を見た。
「あのおじさんはユウヒさんね」
おじさん、とセイムが口にしたときに、ユウヒさんから何か圧を感じたが、セイムは気づいていないのか、ぱんぱかぱーん、と景気よさそうな擬音を口にする。
「おめでとう! きみは特別な死神に選ばれたんだよ!! 特別な死神だから、死神になったついでに願いをなんでも叶えてもらえるんだ」
「はあ……」
眉唾物の話だった。
願いなんて、あるわけない。死んでまで望むことなんて……
ふと、辺りを見渡して、愕然とする。
そこは死体の山、山、山。全員分の血で川も作れるんじゃないかというくらい人が死んでいる。地獄と言っていい。
こんな光景を生み出したのは……僕だ。
一人一人、名前も覚えている。どうやって殺したか、その人が軍人かレジスタンスか、任務の話、何気ない与太話、家族構成、生い立ち、役割、起床時間と就寝時間、どんなことが好きで、どんな場所が好きで、何をしたくて行動を起こしたか、全部全部、覚えている。
その人たちの生きていた記憶を抱えていたくない。
「……こんな記憶、なくなってしまえばいいのに……」
覚えていたって、どうにもならないのに。記憶能力が憎い。
「それが願いかい?」
尋ねられて、ばっと顔を上げたところで、ぐにゃりと視界が歪む。肯定も否定もできないまま、話が進んでいく。
「じゃあ、君の願った記憶ごとなくすから、説明はまた今度だね、おやすみ、シリン」
僕はそうして虹の死神になった。
これを覚えているのは、記憶が戻ったからだ。
僕の最初の死神としての任務で刈った人物は、東暁大佐だった。




