藍の味
アオイとセイムの家から帰ってから、おれはキミカと新聞を漁った。世の中の情勢というのはどんな新聞にも書いてあるものだ。新聞というのはただの娯楽ではなく、人々の生活に影響を与えるものを知らせるためのものなのだから。
「ありました。アセロエ連邦とララクラ共和国の冷戦の記事」
まあ、キミカはまめなので探すのに苦労はなかった。おれたちはよほどでないと動くことはないので、時間だけはたっぷりとある。キミカは記事を切り抜いてジャンルごとにまとめていたようだ。こういう多少の趣味のものなら、マザーも出してくれるらしい。
何年……いや、何千年か。毎朝新聞をもらいに行っているキミカの切り抜きのまとめは一つのジャンルだけでもものすごい量だ。どさっと置かれた分厚いファイルはここ数年のものらしい。
聞けば、ここ数年でアセロエ連邦とララクラ共和国の動きが活発になり、軍事設備の開発や実験が行われたという報道が多く、数年だけで辞書二冊分の量の情報が集まっているのだとか。
「まあ、切り抜きをまとめただけなので、内容の重複はあると思いますが、話を聞いた分だとこの二つの国で間違いないでしょう。ちなみにアオイくんとセイムくんがいるのがクォン国です」
二つの国は何十年も前から仲が悪いらしい。ただ、表立った戦争にはならず、日用品の価格抗争だとか、飲食店の他国への進出だとかで争っていたそうだ。
ずっとそんな感じで争ってくれたらよかったのだが、アセロエ側が実質実権を握っている小国で軍事兵器が開発され、試用運転がされ始めたところから雲行きが怪しくなってきたのだという。
アセロエが軍事兵器の開発を行っていることから、ララクラ側が警戒体制に入り、ララクラ側も、軍隊を本格的に動かし、厳戒態勢を敷くような事態に。クォンはその二国のちょうど中間くらいに位置するということを、どこで仕入れたのかキミカは世界地図を出して説明してくれた。
クォンは平和主義の国で、軍事設備より子どものための教育環境を整えることを重視しており、戦争とはこれっぽっちも縁のない国だったという。大昔は諍いくらいはあっただろうが、学校の授業で習うほどの大きな戦いの記録はないという。
地図を見るとなるほど、アセロエとララクラのちょうど中間地点くらいにクォンがある。これは兵器が飛び交うことになれば、無関係ではいられない。
「クォン国は面白いくらいに争いに興味がなくて、アセロエとララクラの冷戦中も両方の国の店を受け入れていて、アセロエとララクラは双方ともそれですり寄ろうとしたのに、クォンは触れ込みを工夫して、需要と供給の擦り合わせを行い、ウィンウィンにしてしまったんですよ」
「賢いというか、能天気というか」
「でも軍が動くとなれば、そう呑気に構えることもできなくなります。ミアトさんの危惧はもっともなことです」
様々のページを読み上げて解説してくれたキミカがぱたん、とファイルを閉じる。
「クォン国には軍隊がありません。だからクォン国を戦争のために取り込むことに表面的な利はありませんが……地図を見ていただけばわかると思うんですが、クォン国、かなり広いんですよね。それに若者も多い」
「軍事拠点を置けたらいいし、兵士も得られるというわけだな」
「そうです。まあ、クォン国が首を縦に振らなくても、侵攻すればいいだけですから」
そのとき、クォンが滅びることだけは確実だ。
「五千年も経つと、世界もこんな物騒になるものか」
「むしろクォン国が奇跡みたいなものですよ。争いのない国、だなんて。本当かどうかはわかりませんけど」
世情に疎いというか、任務以外で死神界から出ることがあまりないので、この国がどういう変遷を辿って今の状態になったのか、というのはおれにはわからない。ただ、五千年で何もなかったわけがないだろう。
キミカはその辺を新聞でチェックしているからか、苦笑いをしている。敢えて聞くことはしなかった。知っていても知らなくても、死神には関係ないだろう。
非情に感じるかもしれないが、死神とはそういうものだ。五千年もそうしていればわかる。五千年も死神でいて、まだ人の心を保っているキミカやリクヤはおれからすると異様に映る。
ただ、キミカはそもそも人の心というよりは浮世離れした感じはあったから、一概にそうとは言えないかもしれないが。いつだったか、ひまわり色のストールを持ち帰ったときに、慈しむような、愛おしむような微笑みでストールを抱きしめていたことがあった。そのストールをキミカは信徒からの贈り物だと語った。
キミカは神の子として生かされた人間だった。そのことをキミカは疎んでいたが、その贈り物は今でも大切に仕舞ってある。
信徒──神様であることを嫌ったキミカが使いたくない言葉であるのは容易に想像がつく。それでもその表現を使用したのはきっと、その者はただひたすらに「キミカ」という人間を崇めてくれたからだろう。その心への敬意の表れだとおれは思う。
その信徒がいたおかげで、キミカは神様をやめることができたのだ、きっと。以来、キミカが過去の話をすることはあまりない。
もう人間ではなくなってしまったけれど、キミカにとって虹の死神とは第二の人生のようなものなのだろう。長く長く得られなかった自由。自分で選ぶことができるから、人間らしく在れるのだ。
おれにとっては、どうなのだろう。心なんて元からなかったみたいに薄い。リクヤのように怒れない。キミカのように笑えない。アイラのように懺悔することすら、今のおれにはできない。悲しみさえ、曖昧に磨耗してしまった。
死神としての願いさえなかった。だからユウヒの代わりにペンを執ったのだ。
世界の情勢を確認し、おれとキミカが唸っていると、外に繋がる扉が開いた。入ってきたのはアイラだ。
そういえばアイラは任務なのだったか、と振り向いてぎょっとする。血塗れだったのだ。赤まみれの中で、ぎらぎらと輝く藍色の目がおれの中で警鐘を鳴らした。
暴走寸前のアイラだ。死神は生きているわけではないから死なないが、キミカの前でおれの止め方をするわけにはいかない。それにここは狭い。移動して鎮めないと。
「キミカ」
「セッカ、大丈夫ですよ」
キミカがおれに一つ微笑み、すたすたとアイラに近づく。ぎりぎりと音を立てて噛みしめるアイラの様子を気にせずキミカはアイラを抱きしめた。
アイラの肩がびくん、と跳ねる。近づいた瞳に一瞬、キミカの金色が映ったのか、だいぶ失われていたであろう理性の光が僅かながらに戻る。
キミカは警戒心の強い野良猫をあやすようにアイラの背を撫でてあやした。宥めるように、慰めるように。
次第にアイラの肩から力が抜けていく。その様子を見て、キミカはとんでもないことをした。
アイラの口に自分の指を突っ込んだのだ。
「っ!?」
おれとしても意味不明な行動すぎて驚いたのだが、キミカが手を入れたことによって見えたアイラの犬歯に納得する。いつもより鋭いのだ。
吸血鬼については詳しくないが、キミカはアイラを落ち着かせるために自分の血を飲ませようとしているのだろう。アイラの鋭い犬歯の先に自分の指の腹をあてがう。つぷ、といとも容易く犬歯は皮膚を貫き、つう、とそこから赤い液体が垂れた。
おれはその鮮烈な赤に頭が飛びそうになりながら、目を背けることにした。血を見ると、暴力にまみれた日々を思い出して暴走しそうになるのだ。だからこそアイラを止めることができるのだが、それも善し悪しである。
「っぅ」
キミカの小さな呻き。おそらく自ら指を傷つけたことにより、罪が加算された痛みだ。それ以外は衣擦れの音。
アイラに噛ませればいいだけの話だが、話が通じるときのアイラは絶対にそれをしない。キミカのは謂わば強硬手段である。参ったものだ。
ちら、と見ると、アイラがとろんとした表情でキミカの血を啜っていた。血なんて錆び臭くて味もわからないが、吸血鬼にとってはその限りではないのだろうか。
しばらくして、アイラがはっとして、ぐったりとしたキミカを複雑な表情で抱き寄せる。キミカはいつの間にか気を失っていた。顔が青白い。
おれはアイラを見た。
「大丈夫か?」
アイラは頷かなかった。




