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11日目 仕事と理想③

これは、とある男の旅路の記録である。

 キーンコーンカーンコーン



「は~、終わった~」「お疲れ~」「なぁ、今日飲みに行こうぜ!」「おっ、良いな!」



 就業時間の終わりを告げるベルがなり、デスクを片付けながら同僚とアフターの話をしたり、そそくさと職場から出たりなど、社員全員がノー残業でフロアから次々と出ていった。



「はぁ、疲れた~」



 今日はプレゼン資料の作成など社員から頼まれた書類を作成のみの仕事だったが、普段はデスクワークより外回りが圧倒的に多い俺にとって、あまり慣れない仕事で最初はとても苦戦したが、分からない箇所は遠慮なく聞けて、何度か修正は入ったものの、上司からの修正箇所の指摘も分かりやすった。

 何より上司から褒められたことに年甲斐もなく嬉しくなってしまった。

 俺の知っている上司は「これくらい当たり前だろ!」と一切部下を褒めず、寧ろ『部下を(けな)すことが上司である俺の仕事だ!』と思っている人なので、こうして上司から素直に褒められたのは、社会人になって初めてかもしれない。


 はぁ、クソ上司もここの上司みたいに部下を褒める努力をすれば、少しは尊敬出来るのになぁ。

 俺、どうしてこの会社の社員じゃないんだろう。この会社だったら、風通しも良さそうだし、上司は人格者だから、伸び伸びと働けそうなのになぁ


 この会社の上司とクソ上司を脳内で比較して、出そうになった溜息を飲み込んで大きく伸びをすると、後ろから軽く肩を叩かれた。

 何気なく叩かれた方を見上げると、そこには仏様のような微笑みで見下ろしている上司がいた。


 げっ! まずい!


 目を丸くして慌てて腕を下すと、上から笑い声が降ってきた。



「はっはっはっ! 仕事終わりの息抜きをしているところを邪魔してしまって申し訳ないね」

「いっ、いえ! こちらこそ、みっともない姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」



 上司に対して見苦しい態度を見せてしまい謝罪しようと慌てて椅子から立ち上がろうした俺を、上司が俺の両肩を軽く押して座らせた。



「良いんだ。元々は僕が来てしまったことが悪いんだから」

「しかし……」

「それよりも」



 俺の両肩を押したままの上司が少しだけ顔を近づけた。



「どうだったかな? うちの会社は?」

「どうだった、と申しますと?」

「渡邊君が働いている会社とうちの会社の違いだよ」



 あぁ、そういうことか。突然、顔を近づけてきたから怒られるか脅されるか心配したじゃあねぇかよ。

 あのクソ上司だったら、こういう場合は残業を押し付ける時か飲み会の場所を抑える時かのどちらかだからな。


 上司の温かい言葉に胸を撫でおろすと、小さく口角を上げた。



「そうですね。私が働いている会社は、実力至上主義の会社なので先輩も上司も等しくライバルみたいな気質なんです。その為、このように分からない箇所があれば気軽に聞ける風通しの良い職場の雰囲気ではありませんでしたし、課長のように部下のことを想って下さる上司でもありませんでした」

「そうなのかい? どこの会社のそんな感じなのかなと思っていたけど」



 御社のような会社が当たり前だとしたら、世の中に【ブラック○○】なんて言葉が生まれることはなかったと思いますが。

 この上司、意外と世間知らずなのか? それとも部下のことを思ってわざと言っているのか?



「まぁ、会社の方針によって職場の雰囲気も異なりますから、課長がそう思われても仕方ないのかと思います」

「そうかい。じゃあ、渡邊君にとってここは良い職場なのかい」

「はい。そして、課長も私にとって、良い上司です」

「はっはっはっ、それはとても嬉しいよ」



 目を細めて笑い声を上げながら、俺の両肩を何回か軽く叩いた。


 というか、そろそろ離れて欲しい。



「それじゃあ、今回の職場体験は、渡邊君にとってはとても有意義なものになったんだね」

「はい!」



 いっそのこと、この会社の……この人格者の上司の部下として働きたいと思いたいくらいには!



「フフッ、それは良いことを聞いた。まぁ、この職場は上司の僕から見ても風通しの良いと思うよ。でもね、僕はただ、部下が最大限の力を発揮出来るように整えているだけだよ」

「えっ、そうなのですか!?」

「うん、そうだよ。僕はね、会社の利益は、上司である僕が作っているわけではなく、現場で働く部下達にかかっていると思っているんだ。だって、直接顧客や取引先とやり取りするのは、上司の僕ではなく部下達だからね。僕も、数年前までは今の部下達と同じように顧客や取引先とやり取りしてた。それで思ったんだ。『会社の利益は、僕たちにかかっているだ』って。それは、部下を持つ立場になってからより一層思ったよ。だから僕は、上司として部下達が働きやすいように環境を整えたり、的確なアドバイスをしたりしているんだ」



 微笑みながら当たり前のように言う上司に、不覚に泣きそうになった。


 俺は、今まで上司というのは『ただ偉そうにしている奴』だと思っていた。でも、この会社で職業体験をさせてもらってから、『世の中には、こんなに周りのことを考えて人の上に立っている人もいるんだな』と思った。

 確かに、営業の取引先でもここの上司のような人の良さそうな人には出会ったことがある。

 しかし、実際にそういう人の下で働いていると、改めて思う。

 人を大切にしている人の下で働くと、慣れない仕事でもこんなにも伸び伸びと出来るんだなと。



「それにね、僕が部下達と同じ立場の頃の上司が、渡邊君の言っていた上司だったんだよ」

「えっ、そうだったんですか!?」

「あぁ、そうさ。『会社の利益は、上司である俺の手腕あってのことなんだ』と傲慢な上司だったよ。まぁ、その上司は社長交代と共にクビになっちゃったんだけどね」

「そうなんですね」

「うん、何でも他社への賄賂とか水増しとかがバレたらしいよ。そうじゃなくても、部下への過度なハラスメントが社内で問題視されていたから、遅かれ早かれクビが決まっていたようだったみたいだけどね」

「そっ、そうだったんですね……」



 この世界では、ハラスメントでクビになるのか。まぁ、俺のいた世界でもハラスメントで裁判沙汰になったっていうニュースを見たいことがあるからなぁ。

 まぁ、ある意味コンプライアンスが厳守されている世界だから、働きやすいのかもしれないがな。



「そう。だから、僕が部下を持つことが決まった時に最初に決めたことは『常に部下達の為に考えること』だよ。これは、上司の反面教師だね」



 俺のいた世界に、『人の振り見て我が振り直せ』を本気で実行しているが人間がいたのだろうか?

 いや、いたとしても極僅(ごくわず)かなのかもしれない。


 一日だけではあったが、俺は【人間の手本】と言っても過言ではない上司がいる職場で働けて心の底から嬉しく思う反面、僅かながら寂しさを覚えた。


 でも、仕方ない。これは、あくまでも職場体験なのだから。この会社では部外者である俺はここでお別れだ。



「それは、とてもいいお考えだと思います。私が働いている会社の上司は、課長とは正反対でしたから」

「ハハッ、そうかい」



 笑いながら俺の両肩を叩く手が離れた。そろそろ、お別れの時間らしい。



「それじゃあ、改めてだけど。今日はうちの会社に職業体験に来てくれてありがとうね。社員を代表して僕からお礼を言わせてもらうよ。渡邊君と一緒に働けて、僕もそうだけど部下達にとっても良い刺激になった」

「こちらこそ、御社で職場体験をさせていただいき、本当にありがとうございました。私としても、社会人としてとても勉強になりました」

「それは、良かった。渡邊君は飲み込みが早くて、部下達ともコミュニケーションがスムーズだったから、僕としては明日からもここで一緒に働いて欲しいんだけどね」

「それは、とても光栄なことなのですが……この一日を通して、やはり私は今働いている会社が性に合っているのだなと感じました」



 そう、上司はクソだが、やはり俺はデスクワークより顧客や取引先に直接足を運んで営業している今の仕事が俺には合っていたらしい。

 まぁ、デスクワークも嫌いじゃないんだけどな。

 それに……



「それに、先約がありますから」

「先約?」

「はい、先約です」

「それは、渡邊君にこの会社の職場体験を勧めてくれた人かな?」

「はい、そうですね」



 そう、この会社で職場体験させてもらう機会をくれた時の神様との大切な約束が。



「そう。それは残念だ」



 残念そうに苦笑しながらも何処か納得したような表情を浮かべた上司に、俺は小さく唇を噛んだ。


 本当、俺はこの上司の元で働きたかったな。



「おっと、思ったより長居させてしまったようだね。すまない、僕は自分が思っていた以上に君のことが気に入ったみたいだ」

「それは……とても光栄です」



 俺も、あなたのような上司がいる職場で働かせていただいて、本当に光栄でした。



「それじゃあ、またどこかで会おう。その時は、飲みでも誘ってもいいかな?」

「はい! その時は、よろしくお願いします」



 勢い良く立ち上がって深々と頭を下げた俺の頭を軽く叩くと、上司の足音が遠ざかっていく。



「課長!」



 頭を上げると、扉に向かって歩く上司が立ち止まって振り返った。



「ん? 何だい?」

「今日は、本当にお世話になりました!」



 社会人としてまだまだ若輩者から送られた心からの感謝の言葉に、一瞬だけ目を丸くした上司が満面の笑みを浮かべて振り返ると、後ろ手をひらひらさせて扉に向かって再び歩きだした。

 その上司の気さくな返事に再び深々と頭を下げて、上司がいなくなったタイミングで頭を上げると大きく溜息をついた。



「ふぅ、何だか久しぶりに疲れたな~」



 あれだ、きっと久しぶりに仕事らしきものをしたからだろうか。この疲労感はきっとそうだろうな。


 慣れない仕事で大変だったが、営業が成功した時と同じような達成感を感じて、思わず口角が上がった。




 パチン!


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!


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