6日目 病院と娯楽①
これは、とある男の旅路の記録である。
「痛ったぁ」
「おはよう……って、どうしたの? 律」
爽やかな朝に相応しくない苦悶でリビングに入った俺を、ライフウォッチで朝食を注文したクロノスが小首を傾げながら迎えてくれた。
丁度、朝飯を呼び出していたみたいだな。でも……
「おはよう。実は、起きる時にベッドから落ちて肩を強打したんだ」
「……僕が言うのもなんだけど、朝から何してるの?」
「それ、ベッドから転げ落ちた瞬間の俺に言って欲しかった」
俺だって、マンガやアニメではよくあるアクシデントを、三十路のいい歳した大人になってから現実で体験するとは思わなかったんだよ!
チクショウ……なんだが、情けない気持ちになってきたじゃねぇか。
「はぁ、その様子だと和食より、サンドイッチのような軽食の方が良いみたいだね。それじゃあ早速、注文し直そうっと」
「いや、そこまでしなくても……せっかく、お前が用意してくれたんだから」
「別に気にしなくていいよ。今出したものを明日の朝食に出せば良いだけのことだから。それに、君たち人間って、僕たち神様がビックリするくらい脆い生き物だってことは知っているから、人間である律に無理させられないよ」
……何だろう、物凄く気遣ってもらったはずなのに、無自覚に毒のある言い方をされたお陰で、『ありがたい』という気持ちが全く湧いて来ないんだが。
まぁ、人の感情をイマイチ理解出来ないショタ神様が、朝っぱらからしょうもない理由で肩を強打した俺のことを気遣っていることをそのまま口にしただけだろうけど。
「はぁ、分かったよ」
「ねぇ、何でそこで溜息をついたの?」
お前が人の傷口に塩を塗るようなことを自覚無しに言ったからだよ!
「っ! 痛いなぁ……」
クロノスの好意(と呼んでもいいのだろうか)に甘えて、片手でも十分食べられるサンドイッチを食べ終えると、注文したホットコーヒーを飲んで一息ついた。
その瞬間、負傷した肩に痛みが走った。
「大丈夫? さっき『大したことない』って言ってたけど、リビングに来てからずっと険しい表情をしてるじゃん」
痛みに耐えている俺をクロノスが頬杖をついて不思議そうに目を細めた。
「あぁ、ベッドから落ちた時に湿布を注文して貼ったからひとまずは大丈夫だ。この調子でいけば……恐らく2、3日すれば完治すると思う」
「2、3日って……それって、人間の基準ではかなり長い方じゃないの? 人間って【怪我】ってものをした場合、【睡眠】ってものを1日だけ取れば人体に備わっている【自己修復機能】ってものが働いて、元の状態になるんじゃなかった?」
1日寝れば、怪我が治るって……
「そういうのは、血気盛んな10代が持つ特殊能力みたいなもんだ」
「そうなの?」
「はぁ……あのな、クロノス。人間っていうのは【歳】ってやつを取るんだ。それで、歳を重ねるにつれて、人間の体はあちこちに異常をきたしたり、怪我が治りにくくなったりするんだよ」
「歳を重ねる……あぁ、人間が退化していくことか」
「退化って言うな! というか、俺がベッドから落ちた音が聞こえなかったのか? 自分でいうのもなんだが、かなり大きな音が響いたぞ」
それこそ、今朝と同じようなことが俺のいた世界で起きた場合、普段から付き合いのあるご近所さんが血相を欠いて俺のところに飛んできて、これでもかと言うくらいにインターフォンを鳴らす程の大きな物音だったはず。
「ううん、全く聞こえなかったよ」
「全く?」
「うん。だって、この世界の家に使われている壁の防音性って、どんな騒音も無音に出来るくらい高性能なんだよ」
「そうなのか!?」
どんな騒音を無音に出来るって……それって、音楽に携わっているプロ御用達の防音室で使われている技術が、そのまま一般住宅に採用されているってことか!
俺のいた世界の一般住宅では、部屋の中にいて外の音が多少なりとも漏れ聞こえたはずだから。
「そうだよ。まぁ、プライベートルームで使われている技術が、そのまま生活住居に応用されたと考えれば理解しやすいんじゃないかな」
「あぁ、そういうことか」
確かに、外から自分の姿や声を遮断してくれるプライベートルームの技術を応用すれば、家全体の防音機能を高めるくらい造作もないよな。
「そう言えば、俺とクロノスが警察ドローンから回っている時、耳を劈くようなサイレンが辺り一帯に鳴り響いていたはずだが、あの時マンションのベランダから見てる人が誰一人としていなかったような気がする」
「確かにあの時、僕たちのことを見ていた人間はいなかったね」
やはり、そうだったのか
「だとしたら、どうしてわざわざサイレン鳴らすんだ? 全く聞こえないなら意味無いじゃないか?」
「あれは、外に出ている観光客やアンドロイドに知らせる為に鳴らしているんだよ。『ここに身元不明の不審者がいますよ』って。律のいた世界でも同じ理屈で鳴らしていたんじゃないのかな?」
「そう、だな……」
だからと言って、ニヤニヤした顔で頬杖をつきながらこっちを見て言うんじゃねぇ!
元はといえば、お前が【道路のど真ん中】という変に目立つところに転移させたのが悪いんだからな!
「でも、困ったなぁ。律の自業自得とはいえ、旅行6日目で負傷して2日か3日は足止めが必要になるなんて……時の神様である僕からしても、これに関しては想定外だったよ」
「そう、だったんだな」
まさか、時の神様クロノスからそんなことを口にするなんて……
不満らしきものを漏らして頬杖を止めた時の神様が、腕を組んで眉間に皺を寄せた。
前に、『人間の思考や感情なんて、神様の僕には理解出来ない』って言ってたが、人間の俺から見れば、この神様は自分が思っている以上に人間の気持ちに寄り添えていると思う。
「クロノス、俺のことを心配しているのは嬉しいが、これくらいの怪我は旅行を足止めするほどのものじゃないぞ。さっきも言ったが、湿布を貼っていれば2、3日で痛みは引くから気にするなって」
「えっ? でも、僕が神界にいた頃、『人間の旅行では、1日でも足止めを食ったら大事になる』って、部下から聞いたことがあるけど……違った?」
「うっ! 確かに、旅行で足止めを食らうのは大事だが」
時と場合によっては、旅行自体がその時点で終了するかもしれないし。
「でしょ? だったら……【病院】ってところに行こうか」
「えっ、病院?」
「そう、病院。人間って、怪我とか【病気】ってものをしたら、【病院】ってところに行って【医者】って呼ばれる人間に【診察】ってものをしてもらって【薬】という物を使って、怪我とか病気を治すんでしょ?」
それも、部下から聞いた情報なのか?
クロノスからの予想外の提案に驚きつつも口を開いた。
「確かに、怪我や病気をしたら病院に行って医者に診察してもらって薬を処方してもらうが……というか、この世界に病院があるのか?」
人の要望を具現化するライフウォッチが普及している世界において、こう言っては何だが、病院の必要性を感じないんだが。
「あるよ、主に観光客向けにだけど。まぁ、図書館や神社があるんだから、病院があっても不思議じゃないでしょ」
それもそうか。
「でも、ベッドから落ちて肩を強打したくらいで病院に行くのは……とても申し訳ない気がする」
むしろ、医者から呆れられるような未来しか見えないから、出来れば行きたくない。
「どうして? 怪我や病気をしたら病院に行くんじゃないの?」
「そうなんだが……俺が病院に行く時って、コンビニとかドラッグストアで売られてる市販薬を服用しても治らなかった時ぐらいなんだよな。こうして湿布を貼ってるのも、病院に行く程度の怪我じゃないと判断したからだし」
「市販薬……へぇ~、病院に行かなくても薬が貰えるんだね」
「そうだな。それに、怪我とか病気とかする度に一々病院行ってたら、病院の方があっという間にパンクする」
まぁ、素人でも分かる症状だったらその症状に合わせた薬や医療品を買って服用すれば良いだけだし、市販薬もそのためにあるようなものだと思うから。
俺が貼ってる湿布も、肩を強打して起きた炎症の熱を取るための薬みたいなものだからな。
「でも、湿布を貼っていても数日は痛みが続くんでしょ。だったら、早く病院に行ってお医者さんに診てもらって薬を処方してもらった方が良いと思うよ」
クロノス、お前ってやつはそこまで俺のことを心配してくれたのか!
時の神様からの慈悲深いお言葉に不本意ながら涙が出そうになった時、ショタ神様の口角が緩やかに上がり、人差し指をそっと自分の顎に添えた。
「それに僕、この世界の病院を見てみたいし」
あぁ、本音はそっちですか。
まぁ、この神様が人間である俺の気持ちなんてもの分からないのは5日間も一緒にいれば、ある程度は分かってきたが……さっきの俺の感動を返して欲しい。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!




