21日目 恋愛と理想⑦
これは、とある男の旅路の記録である。
「……今、何と仰いました?」
小悪魔のような笑みを浮かべている女性の言葉が、大勢の男女が集う場が一瞬にして静寂に包まれた。
この人、今なんて言った?
俺の思考を一瞬だけ停止させた言葉の真偽を確かめようと、軽く頭を振ると営業スマイルを張り付けて女性と向き合った。
「えっ、聞こえませんでした? こんな直ぐ近くにいるのに聞こえないんですね……いや、聞きたくなかったんですね」
人を馬鹿にするような嫌味な笑みを浮かべる彼女に危うく眉間に皺が寄りそうになった。
さっき聞いた言葉は、単なる俺の聞き間違いであって欲しい。だって、そんな、まさか……
「まぁ、どちらでも良いんですけど。それじゃあ、もう一度言いますね。良いですか、今度はちゃんと聞いてて下さいね」
肩をすくめながら大袈裟に溜息をつきながらも勝ち誇ったような笑み浮かべる彼女の顔を俺は心臓が掴まれるような気持ちで凝視した。
彼女の口からこの場にいるはずがない人物の名前が出てくるなんて、そんなことありえな……
「斎藤 駿さん。あなたの本当の名前って、【渡邊 律】ですよね?」
視線を逸らすことを許さないと言わんばかりの顔で言われた名前に顔から血の気が引くのを感じた。
どうやら、俺の聞き間違いではなかったらしい。
彼女の口から出た名前が俺の聞き間違いではなかったと分かった俺は、彼女からゆっくりと顔を逸らせながら思考をフル回転させた。
落ち着け、俺。これは、あくまでも確認だから、俺が否定すればそこで終了。
だが、彼女の自信に満ちた表情から察するに、彼女の手元には俺が【斎藤 駿】ではなく【渡邊 律】だという証拠のようなものがあるはずだ。
そもそも、時の神様が部下達や噓を得意とする神様に手を回して、俺をこの場に送り出してくれた。
つまり、2人の神様の加護を受けている状況で『俺の正体がバレる』なんてことはありえないはず。
だとしたら、今の状況は……
「あいつですら想定出来なかったのか?」
「駿さん、何か言いましたか?」
真横から聞こえてきた声に現実に戻された俺は、可愛らしく小首を傾げる彼女に張りぼての笑みを向けた。
恐らく、人知を超えた力を持っている存在であるクロノスでもこの状況が想定出来なかったのは、あいつが人間のことをあまりよく知らないからだ。
だとしたら、俺がやることはただ一つだな。
噓を得意とする神様から貰った腕時計を覆うように腕時計を付けている手首を優しく握った。
クロノス、俺の心の声が聞こえているなら少しだけ待ってくれ。俺が唯一の商売道具を使って、この状況になった原因を探ってやる。
普段から何かと世話になっている神様に対してファンタジーじみた方法で呟くと、隣に座っている可憐で愛嬌がある美女に話しかけた。
「いいえ、何にも言っていませんよ」
「そうですか? 私には何か言ったように聞こえたのですが?」
至近距離だから彼女の耳に届いてしまったのだろう。
「それよりも、先程の質問の答えなのですが……すみません、私は【渡邊 律】という名前の人物ではありません。正真正銘【斎藤 駿】という名前の人間です。何でしたら、証拠として運転免許証をお見せしましょうか?」
近くにあった鞄を引き寄せてチャックを開いた途端、真顔になった彼女がそっと手のひらを向けた。
「いいです。偽装の可能性があるので、見せなくて結構です」
「そうですか……」
残念そうな振りしながら鞄のチャックを閉じている隙に周りを一瞥した。
彼女が【渡邊 律】という名前を知っていたのも驚きだったが、彼女が【渡邊 律】という名前が出した瞬間、お喋りを楽しんでいた奴らが一斉に俺のことを見たことにも驚きだった。
その上、彼ら彼女らは【渡邊 律】という名前に対して、誰一人として動揺することも無かったし首を傾げることもいなかった。
つまり、周りの奴らも全員【渡邊 律】という名前を知っていて、俺が【渡邊 律】だということを疑っているってことなのだろう。
「あの、つかぬ事を伺ってもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
蔑んだような目で見てくる彼女に負けないように全力の営業スマイルを向けた。
とりあえず、真っ先に頭に浮かんだ疑問をぶつけてみるか。
「どうして、私が【渡邊 律】という人物だと思ったのでしょう?」
そもそも、どうして彼女が【渡邊 律】という名前を知ってる? この世界に来てから1週間足らずだが、俺は【渡邊 律】としてこんな美女と会った覚えがない。今まで会ったのは、精々マダムかおじ様だったからな。
そんなことを考えながら張りぼての笑みを浮かべ続けていると、目の前の彼女が不敵に笑った。
「なるほど、そう来ましたか。確かに、突然見ず知らずの誰かの名前を出されば、そういう反応になりますよね。私としたことが……分かりました、今のあなたが【斎藤 駿】であると主張するなら、そう思った経緯を教えてあげます」
「はい、是非ともよろしくお願いします」
不敵に笑い続ける彼女のことを、俺は真っ正面から営業スマイルで対抗した。
「あなたが【渡邊 律】と断定した理由。それは、考えれば簡単なことでした」
「簡単なこと?」
口角を上げながら小首を傾げる俺に彼女は笑みを深めた。
「はい。あなた、『外資系勤務』なんですよね?」
予想外の質問に一瞬笑みを崩しそうになったが、彼女の勝ち誇った笑みに苛立ちを覚えた俺は何とか口角を保つことが出来た。
「まぁ、そうですね……まさか、それだけで決めつけたんですか?」
「はい、そうですが何か?」
可愛らしく首を傾げつつも悪びれもしない彼女に、思わず頭を抱え込みそうになった。
そんな極端な理由で【斎藤 駿】が【渡邊 律】だと決めつけられたのか……だが、極端だからこそ反論する余地がある。
「あの、質問よろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「ここにも外資系企業はあるはずです。だとしたら、私と同じように外資系企業に勤めている方だって、それ相応にいらっしゃるはずです。ですが、どうして私がその見ず知らずの誰かと決めつけるんですか?」
俺のいた世界では、外資系企業はそれなりにあった。だから、この人がそれだけの根拠で【渡邊 律】だと決めつめるのは、あまりにも浅はかだし幼稚すぎる。
俺の正論めいた質問に、静寂に包まれた店内が一瞬にして嘲笑の渦に変わった。
何がおかしい? 俺、おかしいことなんて何も言ってないぞ。
周りの反応を見ながら眉をひそめる俺に、隣で一頻り笑っていた彼女が涙を拭きながら口を開いた。
「その質問が出る時点で、あなたが【渡邊 律】であると言っているんですよ」
「……どういう、ことでしょうか?」
咎めるように隣を見ると、そこにはさっきまで可愛らしい笑顔を見せてくれていた人とは同一人物と思えない下卑た笑みを浮かべた彼女がいた。
「良いですか、この国にはそもそも……外資系企業なんてものは存在しないんですよ」
「存在、しない?」
「はい。そして、その程度のことはこの国に住んでいる人なら常識です。ですから、この国の常識を知らない日本人は、この国に最近来たばかりの【渡邊 律】だけなんですよ。まぁ、そもそも【斎藤 俊】なんて日本人は、この国には存在しませんしね。だから、あなたが【渡邊 律】なんじゃないかと思ったんです」
そんな、まさかそこまで……
彼女からもたらされたこの世界の事実と【斎藤 俊】が偽名であることが看破されていることに、目を丸くしながら周りを見ると全員が俺に向かって蔑みの視線を向けていた。
どうやら、彼女が言ったことは本当だったらしい。
「いつから、それを知って……」
「もちろん最初からですよ。あなたがこの会場の受付を済ませた瞬間からです」
「っ!?」
まさか、そんな早くから疑われていたのか!? というか、受付した瞬間って、この店の店員さんと彼女……というより、この合コンに参加している全員がグルだったってことか!?
思わぬ伏兵登場に啞然としている俺を、周りの人間と同じように蔑みの眼差しを向ける彼女が、歪に口角を上げながら口を開いた。
「さて、あなたが【渡邊 律】だと断定した理由を言いましたから、改めて聞きますね」
再び勝ち誇ったような笑みを浮かべる彼女が悪魔の囁きをした。
「あなたの本当の名前は、【渡邊 律】ですね?」
彼女と周りの反応に、俺は大きく溜息をついた。
一先ず、俺が【斎藤 俊】ではなく【渡邊 律】だと思った理由は分かった。だが、もう一つ聞かないと。
「その質問にお答え前に、最後に聞いても良いですか?」
「えぇ、良いですよ」
「どうしてあなたは、【渡邊 律】という名前を知っているのですか?」
昨日も、その前も……いや、この世界にずっと気になっていた。どうしてこの世界に住んでいる人間は【渡邊 律】という名前を知っているのか?
クロノスは『この世界に住んでいる人間達は、全員知っているからね』と教えてくれたが、それにしてはあまりにも認知度が高すぎる。まるで、公然の事実のように知っている。
だったら、ここで……この世界の住人達と話せる状況で確かめなければ!
柔和な笑みを浮かべ続ける俺に、自信に満ちた笑顔で答えた。
「それはもちろん、あなたが【裏切者】と疑われているからよ!」
彼女の突拍子も無い答えに疑問を抱きつつ、俺は心の中で神様を呼ぶ準備をした。
なるほど……とは納得出来ないが、それは今から迎えに来る時の神様に聞くとしますか。
「さぁ、いい加減答えて下さい! あなたは【渡邊 律】なんですよね!?」
苛立ちを滲ませる彼女の声と周りからの不躾な視線に、思わず笑みが零れた。
「フッ、そうですね。いい加減、答えないといけないですね」
時の神様がチート能力を行使する時に見せるルーティンをなぞるように、腕時計を付けている方の腕を大きく上げた。
頼むから来いよ、相棒!
「これが、答えだ!」
パチン!! パチン!!
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!




