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10.湖畔

 野営を挟んでただただ歩き続けていれば、リュングの山の麓まで辿り着いていた。

 途中の村々には、わざわざ入ろうと言う者もなく、ただ、遠くから見たところ状況はそう変わらないように思えた。


「これは、すごい風景ですね」

「でしょう? ちょっとした自慢なのですよ……今は、私たちのものではありませんけれど」


 上手く言葉にならない貧困な表現に、しかしエレインは笑みを浮かべて応えてくれた。

 目の前には、大きな湖が広がっており、その向こうでは峻厳な山脈が視界一杯に何処までも続くようだった。

 余りに広い湖面には波が立っており、深い碧色に輝くそれは、近づいてみれば底が見えるほどに透明だ。

 その波打ち際には幾艘かの小舟が泊められており、魚籠が置かれているところを見るに、釣り船なのだろう。

 ここで一度停止だ、という言葉に従って、街道脇にある広場に皆が立ち止まった。


「私は村長と話をしてくる。各自、休憩していてくれ」

「僕……私はどういたしましょう」

「構わん、バーナードは付いてこい」

「へい。いやぁ、久々ですな」


 エセルフリーダとバーナードは勝手知ったる、という所だろう。一応は敵地とはいえ、護衛をする理由もあるまい。

 そもそも、彼女に護衛が必要なのか、という問題もあるのだが、そこは置いておく。

 馬を降りて、手綱を引きながら湖に近づいてみれば、魚が泳いでいくのが見えた。


「つめた……」


 手の平に水を取ってみれば、刺すほどに冷たく、そして濁り一つ見えなかった。

 ノルンが首を差し出して水を飲むのに倣って自身も口にしてみれば、甘くすら感じるほどに良い水だ。


「雪解けの水が、ここに集まるのですよ」

「それで、これほど綺麗なのですね」


 エレインもまた、湖に手を浸してそう言った。

 湖に浮かび上がるような山々の頂上は、白く雪化粧されていて、岩肌の青とも黒ともいえる色や、僅かに見える木々の黒さに映えていた。

 エレインは冷たさに赤くなった手でその水を口に運ぶ。彼女の桃色の唇がそれに触れるのと、白い喉が上下するのを見て、何か悪いことをしているような気がして目を逸らした。


「とても、この世のものとは思えない風景です」

「ふふっ、それは言い過ぎではありませんか?」


 遠く見ていた山々は、近づいてみれば人の手にはどうにも出来そうにはない、遥か雄大なものだったし、これほどに広く、透明な湖など、有るとは思っていなかった。

 広い湖には波が立つなどという事も知らなかった。人の目がなければ、叫んで回りたいほどである。

 それに、横に佇むエレインの姿もそうだ。湖面の照り返しにきらきらと輝くのは、絹のような髪と、少し赤く染まった大理石のように、いや、雪のように透き通るような肌。

 長いまつ毛に縁どられた瞳は目の前に広がる湖にも負けず劣らず、澄んだ色を湛えている。

 気付けば、彼女の視線はこちらの瞳を見つめていて、僅かに開いた唇からは白い歯が覗いていた。

 魚の跳ねる音に我に返り、気恥ずかしくなって自ら目を逸らす。


「そうだ、怪我の方はもう大丈夫ですか?」

「ええ、おかげさまで。しっかりくっついたみたいです」


 少しだけ上ずった彼女の声に、同じ想いを共有しているかのように思えて、頬が熱くなった。

 上の空で言葉を返したが、何を言ったかいまいち覚えていない。

 沈黙の間を湖のさざめく音だけが……という訳にはいかない。傭兵らの声が聞こえている。

 努めて意識を逸らして、周りを見渡すと、彼らも各々、自らの持つ水筒などに水を入れたりなどしている。

 流石に、この冬の間に水浴びをしようなどという者もなく、また、湖水を汚すのを恐れているようにも思えた。

 しかし、同様に、この湖はその程度では汚れないようにすら思える。

 一種、神秘性を感じるのは誰しも同じらしく、古い祠が遠くに見えた。


「竪琴王国の軍は、本当に本領まで引き下がったようだ」


 そうしてしばらく、どれほどの時間が経ったものだろうか。長かったような、その実短かったような。

 いつの間にかエセルフリーダとバーナードが戻ってきていた。


「お疲れ様です。どうでした?」

「ああ。今お館様が仰った通りだ」


 村長から聞き出した話だが、この村を通り、山を越えていく軍勢を最近見た、という事だった。

 山の稜線の向こうに隠れているなら別だが、少なくとも、山道には敵の軍勢は見えない。

 こちらから見えている、という事は、城からは逆にこちらも見えているだろう。

 特に動きがないということは、籠城するつもりだろうか。


「この村は比較的、荒れていませんね」

「まぁな。主戦地から離れていたのが、不幸中の幸い、ってところか」


 バーナードのその口ぶりからすると何もなかった、という事ではないのだろう。

 いかにもあっさり、敵軍に関する情報を売り渡すくらいだから、心中はどのようなものか。


「エセルフリーダ卿」

「これはノルン卿。お耳に入れたいこともあるので、代表を集めて軍議が必要かと」

「ああ、承知した。皆を集めよう」


 指揮官同士が話をまとめて、方針について決めている間、兵らには休憩と同時に、天幕の設営が命じられた。

 この場所を本陣として、リュング城の攻略へと臨むつもりなのだろう。


「ヨアン。君も来たまえ」

「はっ、はい!」


 今度は自分も呼ばれた。話を聞くのも勉強の内、という事で、慌てて走り出す。

 車座になった兵らの中、エセルフリーダの後ろにバーナードと共に座る。

 中央には城とその周りを描いた地図が置かれていた。

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